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黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第十八章 五年の約束と、ひとりの子ども
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五年の約束②

「その方がギルク兄上の子であることは、何によって確かめられているのですか?」


 先王の目が、わずかに見開かれた。


「リュシアンは……自分の生まれを知っているのですか?」


 手の甲へ重なる先王の指へ目を落とした。触れたところに残る温かさを確かめ、ゆっくりと息を吸った。


「……いいえ、父上を責めているのではありません。順を違えました。まず、その方がギルク兄上の子であることを、父上は何によってお知りになったのですか?」


「儂の手元へ……確かなものとして届いたのは、ギルクが生前に残した手記と……男爵家に子がおるという報せだ。だが、儂自身が母子へ会ったわけではない。どの書がいまも残り……過去に王宮から何が届いたかも、すべてを確かめ終えてはおらぬ……」


 先王の声に、弁明はなかった。分からないところまで、分かっているとは言わなかった。


「その方の母上は、王家との関わりを望んでおられるのでしょうか?」


「それも……分からぬ。リュシアンが、己の生まれを知っておるかどうかもな……」


「その子を、儂の養子として迎える道も……考えはした。王家へ連なる血を、公に守るためにな……。その子が、ゆくゆく王位を継げる者となれば……そなたたちが、必ずしも子をもうけずとも……王統を続ける道にはなろう……」


 養子として王家へ迎え、その先に王位を置く。先王の言葉が途切れる前に、わたしの考えはそこまで進んでいた。けれど、この寝所には、ロゼリーヌもリュシアンもいない。二人の声を知らないまま引けるのは、王家にとって都合のよい線だけだった。


「父上。その道を、いま退けるつもりはありません。ですが、まだ、迎えると決めることもできません」


「……もっともだ」


「ロゼリーヌ様のお考えも、リュシアンが何を望むのかも、わたくしたちはまだ知りません。リュシアンを王家へ迎えたいと伝えれば、それだけで、お二人には命令のように聞こえるかもしれません。たとえロゼリーヌ様が承知なさっても、それでリュシアンの答えまで決めてよいとは思えません」


「そうだな……。儂が望んでおると伝われば、それだけで、あの母子には拒めぬ言葉となるやもしれぬ……」


「はい。ギルク兄上の子であることと、王位を継げることは同じではありません。養子として迎えることができるのか、迎えた場合に何が変わるのかを、まず確かめます」


 薬草の匂いが残る寝所で、先王の浅い呼吸だけが聞こえた。昨夜ヴィルから返された問いのうち、ひとつだけが胸へ戻ってきた。誰の判断で、誰の身に何が起きるのか。今度は、それを十歳の子どもの側から聞かなければならない。


「先王陛下」


 ヴィルが、わたしの言葉の切れ目を待って口を開いた。


「その子を、決して私たちの代わりにはいたしません。私たちが背負うよう求められたものを、そのまま十歳の子へ渡すつもりもありません」


「……そうであったな。まだ……十の子だ……」


「ですが、存在を知らなかったことにもできません。王統上の可能性があるのなら、調査させます。その子と母親が、危険に晒される可能性も含めてです」


 ヴィルはわたしを見なかった。先王へ向いたまま、返事を待っていた。


 先王は、わたしたちを交互に見た。疲れて細くなった目の奥に、ほんのわずかに力が戻る。


「……頼む。まずは……調べてくれ。その母と子が、いま……どのように暮らしておるのか。王家から、すでに何が届いておるのか。血の証と……法の道。そして……母子が、何を望むのかを……」


 そこで、先王は長く息を吐いた。


「あと五年もすれば……あの子は十五になる……。儂には、その姿を……見届けられぬだろうが……」


 十五歳。その年に王冠を渡すつもりなのかと、先王の指に触れたまま、わたしの指先だけがこわばった。けれど、先王の次の言葉は、そこへ続かなかった。


「そのあいだ……あの子を王にすると、決めずにおいてやれぬか……。いまは……ただの子どもでいさせてやれ……」


 先王の指が、わたしの手をかすかに押した。


「五年のあいだ……王家から答えを迫ってはならぬ。あの母子の暮らしを、まず守れ……。王統のために、あの子を王家へ迎えるほかないのか……それも、調べてくれ……」


「父上は……五年後をご覧にはなれないと、お考えなのですね」


 ――ばかだ。


 口にしてしまったことを、すぐに悔いた。


「ああ……。だからこそ……儂が生きておるうちにと、急がせてはならぬ……」


 五年という長さを、わたしはすぐには測れなかった。ここへ来てからの日々でさえ、元の時代へ残してきた時間と重なると、どこまでが自分のものか分からなくなる。五年後も、わたしがメービスの身体に、ヴィルがヴォルフの身体にいるのか。メービスとヴォルフが戻っているのか。先王のいう十五歳を、この目で見るのか。何ひとつ分からない。


 それでも、五年後の王をいま決めないという約束なら、いまのわたしにも結ぶことができる。


「父上。それを、約束としてよろしいのですか?」


「……何をだ……?」


「五年後に王位を譲る約束ではありません。リュシアンを王へすると決める約束でもありません。五年をかけて、母と子の意思、残された記録、法の道、安全に暮らせる条件、ほかの継承経路を調べること。その途中で、誰の人生も、決まった答えとして扱わない。そういう約束です」


 先王の口元が、わずかに上がった。


「ああ……それでよい……。いや……それがよい。あますことなく可能性を求めよ」


「わたくしは、その約束を引き受けます。ただし、結果までお約束することはできません」


「構わぬ……。結果を決めぬための……約束なのであろう……」


 ヴィルが静かに息を吐いた。


「私も、引き受けます」


「ヴォルフよ……」


 先王は目を閉じ、呼吸を整えた。


「娘を……義務から救ってくれと、そなたへ頼もうと考えたこともあった……。だが、それでは……また一人の男へ、娘の行く先を預けることになるのだな……」


 ヴィルは答えを急がなかった。


「いいえ。メービスの行く先は、メービス自身が決めます」


 そこで、ヴィルはわたしへ目を向けた。


「ですが、二人に関わることまで、メービス一人へ負わせるつもりもありません。私の行く先は、私が決めます。そのうえで、二人で話します」


「……そうであったな。そなたの行く先も……儂が決めることではない。さすがは、メービスの……ただ一人の騎士……。よい。それでよい……」


 侍女が呼び鈴へ手を伸ばした。今度は、先王も止めなかった。


「メービスよ……」


「はい、父上」


「もし、母子が望まぬなら……王家の名で引き裂くことなかれ。王家の血が流れているからといって……その者の生まで、王家のものになるわけではないのだ……」


 その言葉を口にしたのは、妻を王宮から去らせ、娘を塔へ残し、息子を戦地で失った人だった。正しかったから言えるのではない。できなかったことがあるから、いま言っている。掌の中の骨ばった手は、頼りないほど軽く、それでもまだ温かかった。わたしは指に力を込め、握り返した。


「はい。約束いたします」


 呼び鈴に応じて、侍医が入ってきた。わたしは先王の手を掛け布の上へ戻し、椅子から立った。侍医は侍女と二人で枕の位置を直し、先王の呼吸を確かめた。


「今後のそなたのために……儂から、人を一人送っておる……」


 先王は目を閉じたまま言った。


「そなたたちが調べ、選んだことを……宮中で形にするすべを知りつくした者だ。融通の利かん男だが、話を……聞いてやってくれ……」


「分かりました。どうか、今日はお休みください。また参ります」


 返事はなかった。けれど、掛け布の上の指先が、一度だけ動いた。


 わたしとヴィルは並んで一礼し、部屋を出た。


◇◇◇


 執務室へ戻ると、見慣れない年嵩の男が、扉の内側で待っていた。


 背筋は真っ直ぐで、胸元には折り畳んだ書類を抱えている。わたしたちが入ると、男は足音を立てずに一歩退き、女王と王配のどちらにも偏らない位置で深く頭を下げた。


「お初にお目にかかります、陛下。コルデオと申します」


 低く、よく通る声だった。顔を上げても、視線だけはわたしたちの胸元より高く上がらない。


「先王陛下付きの書記官を務めたのち、王命に関わる文書と宮中実務を預かってまいりました。現在は侍従長の任にございます」


 父が送ったのは、相談に頷くためだけの、ただの老臣ではなかった。王の言葉が、誰の手を通り、どの書式で書かれ、どこへ届けられれば、現実の命令として動くのかを知る人物だった。


「父上から申し渡されて、ここへ?」


「はい。先王陛下より、本日から女王陛下ならびに王配殿下のお側へ移るよう、申しつかっております」


「それにしても、書記官であった方が、なぜ侍従長という肩書なのですか?」


「何かと都合が良いからでございます。執務面で陛下をお助けすることはもちろん。報告の経路を整えることにより、お守りすること。そのための肩書にございます」


「そうですか。では、詳しく聞かせてください」


「まずは、これを御覧ください」


 コルデオは抱えていた書類を机へ置いた。最初の一枚には、先王の名と、いくつかの役職名が並んでいる。文は長くなかった。けれど、誰が誰へ報告し、どの報告がどこまで送られるかが、一行ずつ分けて記されていた。


「これは……?」


「ご安心を。この件につきましては、宰相閣下のご了承も得ております」


「具体的には、何が変わるのでしょう?」


「側仕えの役目そのものは変わりません。お二方のご起居を整え、ご健康を案じ、必要なものを用意し、お召しがあれば応じる。これまで侍女たちが果たしてきた務めを、過ちとはいたしません」


 コルデオの指が、二枚目の書類へ移った。


「変えるのは、報告の経路です。現在、私的居室から上がる報告は、侍女長から宰相府へ直接届けられております。今後は、まず侍従長たる私めが受け取り、内容ごとに分けます。ただし、急病や差し迫った危険があれば、侍医司または衛兵へ直ちに知らせ、その記録だけを後から私めへ戻します。ご健康に関わることは侍医司へ。警護に関わることは担当の衛兵へ。公務日程に関わることは宰相府へ。私的居室の内だけに留めるべきことは、その記録として私が預かります」


「内だけに留めるべきこと、とは?」


 ヴィルが聞いた。


「たとえば、掛け布が何枚用意されたか。寝台のどこに皺があったか。お二人のあいだに、どれほどの幅が残されていたか」


 コルデオは、言いにくそうに声を落とすこともなかった。


「それらのうち、ご健康または安全に関わる部分だけを、それぞれの担当へ送ります。王統に関する判断の材料として宰相府へ送ることはございません」


 机へ置いたわたしの手の下で、紙の端がわずかに動いた。


「報告を、止めるのではないのですね?」


「止めれば、病や危険の兆しまで見落とします。見たことを記す役目も、必要な者へ伝える役目も残します。ただし、見たことと、そこから導いた意味と、その意味を政策へ用いる判断を、一つの道へは流し込みません」


 侍女長は、見たことと風聞を分けた。クレイグは、未確認の紙を正式記録から外した。皆が自分の役目を果たした結果、寝所の中央に残した幅まで、王統の問いへ結ばれた。コルデオの書面は、王統の問いへ届く一つ手前で、報告を行き先ごとに分け直していた。


「お聞きします。侍女たちに、何らかの処分はありますか?」


「ございません」


 返事は、わたしの問いが終わるのとほとんど同時だった。


「命じられた報告を、命じられた先へ届けた者を罰すれば、次から必要な事実まで隠されます。改めるべきは人ではなく、命令と経路でありましょう」


「そうですか……。よかった」


 ようやく、肩の力が抜けた。


「陛下、これを御覧ください」


 コルデオは、最後の一枚をこちらへ向けた。下部には、女王の確認を受けるための余白が残されている。


「先王陛下のご命令は、私をお二人の側へ移すところまででございます。現女王陛下の私的居室を、先王陛下のお言葉だけで動かすことはいたしません。ここから先は、陛下のご裁可をお願いいたします」


 先王が、すべてを決めておいたわけではなかった。人を送り、選べる経路を置き、その経路を使うかどうかは、わたしの手元へ残した。ペンを取り、文面をもう一度読んだ。侍女、侍従、従僕。健康、安全、公務、私的記録。どこにも、夫婦としてどうあるべきかは書かれていない。


「分かりました。この体制で進めてください」


 名を書き、ペンを置いた。


「承知いたしました」


 コルデオは書面を引き寄せたが、すぐには畳まなかった。インクの乾きを待つあいだに、次の書類を出すつもりもないらしい。


「コルデオ」


「はい」


「あなたに、もう一つお願いがあります」


 先王の部屋で聞いた名を、口に出す前に一度止めた。言った瞬間から、その子は王宮の文書へ載る。誰の手へ渡り、どの欄へ収められるかによって、十歳の暮らしが変わるかもしれない。


「ギルク兄上の子について、詳しく調べてください。名は、リュシアン。母親はロゼリーヌ・ド・モンヴェールです」


 コルデオの目が、初めてわずかに上がった。驚いたのか、すでに先王から名だけは聞いていたのか、それだけでは分からなかった。


「調査の目的を、お聞かせ願えますか?」


 問いは簡潔だった。王位に就けるためか、養子にするためかとは聞かなかった。まず、何のために紙を作るのかを確かめている。


「王宮へ召喚するためではありません。継承者と決めるためでもありません」


「では、現存する記録の照合から始める、ということでよろしいでしょうか?」


「はい。まず、ギルク兄上の子であることを示す記録が何か。原本はどこにあり、誰が作り、どの証言と結びついているのかを確かめてください」


 コルデオは新しい紙を机へ置き、まだペンには触れずに聞いていた。


「次に、王宮からモンヴェール男爵家へ、これまで誰が、どの名義で、何を伝えたか。書状、使者を立てた記録、その返答が残っているなら、途中を省かずに揃えてください。相手が返事をしなかったのなら、それを承諾にも拒絶にも決めつけないでもらいたいのです」


「承知いたしました」


「男爵領に関する資料も必要です。ただし、見張らせるという意味ではありません。公の記録と、過去に王宮が得た範囲から始めてください。外へ人を向ける前に、一度わたくしへ戻してください」


「男爵家への書状は、まだお出しにならないのですか?」


「それはまだです。王家の名で手紙が届くだけで、相手には命令に見えるかもしれません。何を尋ねるのか、断っても不利益がないとどう伝えるのか、それを先に決めたいのです」


 ヴィルが机の脇へ来た。コルデオの前に立つのではなく、わたしが読める向きのまま紙を見ている。


「相手の事情も気持ちも分からないままで、こちらから一方的に意向を押し付けるわけにはいかん」


 コルデオがヴィルへ顔を向けた。


「それに、相手は十歳だ。母親が守ろうとするのは当然だ。たとえ母親がよいと言ったからといって、本人も王宮へ来たいとは限らん。逆もある。本人が何を知っているかも分からんうちに、王家の血だの王位だのを聞かせるな」


「本人への聞き取りは、どなたが、どの時点で行うべきとお考えでしょう」


「それも、まだ決めません」


 わたしが答えた。


「まず母親が、王宮との接触そのものを望むか確かめる必要があります。そのあとも、リュシアンが自分の生まれを知っているか、何を伝えてよいかを、母親の意向と本人の年齢や理解を踏まえて考えなければなりません」


「畏まりました。確認できた事実、伝聞に留まるもの、法の解釈を要するもの、本人へ尋ねなければ分からないものを、別々にいたします」


「その書面を、わたくしたち以外に閲覧できるのは?」


「私めと、調査を補佐する一名に限ります。既存の記録を預かる者へ確認が必要な場合も、示す範囲を限り、その者の役目と理由を残します」


 コルデオはそこで初めてペンを取った。


「なお、調査書面上の呼称はいかがいたしましょう。王子殿下、王位継承候補、先王陛下の養子予定者――いずれも、現段階では先に身分を定める名となります」


「使わないでください」


 声は、考えるより先に出ていた。


「その方は、まだ何も選んでいません。ギルク兄上の子であることは、まだ確かめる段階です。王家へ関わるかどうかも、まだ決まっていません。名前に、こちらの結論を付けないで」


「では、リュシアン・ド・モンヴェール。そのまま記載いたします」


「お願いします」


 羽根ペンが紙へ触れた。最初に書かれたのは、王位でも養子でもなく、調査の範囲だった。現存記録の照合。過去の接触の確認。外部への連絡は女王の再裁可を要すること。母と子の意思を、それぞれ確かめること。


 コルデオは一行ごとに、言葉の意味が別の欄へ流れ込まないよう、細く間を空けていく。最後に、リュシアンの名を書いた。ペン先はその後ろで一度止まった。けれど、殿下とも、王子とも、継承者とも書き足さず、そのまま次の行へ移った。


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