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黒髪のグロンダイル  〜わたしたちは、ふたつでひとつのツバサなのだから〜  作者: 玉緒息吹
第二部 時間遡行編 第十八章 五年の約束と、ひとりの子ども
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五年の約束①

 翌日の夕刻、空は、まるで溶け残った金箔を散りばめたような赤橙の光を湛え、遠い雲の端が薄紫ににじんでいた。大きな窓から差し込む名残の光が石壁と木机の面をやわらかく撫で、蝋の匂いが静かに立ちのぼっている。


 執務机の上には、港と仮設市場、道路、水路から届いた報告が積まれていた。乾いた羊皮紙の手触り、綴じ糸の軋み、墨の濃淡。一枚めくるごとに、すでに担当者が置かれ、期限が定められ、現場で動き始めた仕事の輪郭が指先へ移ってくる。


 仮板道を通った荷車の数と、車輪が沈んだ箇所。使えなかった日の回送先。賃金を受け取った者と、日数の違いを申し出た者。用水路の流れが戻った区画と、まだ泥を掻き出せていない場所。報告の欄を追ううち、ばらばらだった線が、ようやく人の暮らしへつながり始めていた。


 その書類の脇に、綴じていない数枚の紙を置いていた。表題も、担当者名も、決裁欄もない。宰相府へも評議へも、まだ見せていない。いま動いている仕事の次に、何をつなげられるか。わたしが一人で組み始めたばかりの案だった。


 港から入った荷を仮設市場だけで止めず、どの街区へ、何日で運ぶのか。市場へ向かう道と、火事のときに人が逃げる道が同じ場所で塞がらないよう、どの通りを先に直すのか。春の作付けに間に合わせるなら、種と肥をいつまでに集め、どこへ保管するのか。用水路の詰まりは誰が見つけ、どこへ知らせ、何日以内に人を出すのか。


 その下へ、子どもが行き来する通りの灯りと、工区ごとに共用できるパン窯の案を書き足した。灯りを増やすだけでは、油も、灯芯も、毎夜見回る者も要る。パン窯を一基ずつ置くなら、粉と薪をどこから運び、誰が焼き、仕事のない日にも使えるのかを決めなければならない。


 海洋交易の拡充や魔石資源の配分は、ひとりで線を引ける領分ではない。街路にも水路にも、いま使っている者と、代々そこから利益を得てきた者がいる。思いついた順に変えてよいものではなかった。


 だから、紙の端へ、必要な人手、費用の出どころ、試す区画、続ける期間、中止する条件を書き並べていく。まだ空いた欄のほうが多い。評議へ出せる案にするには、現場の組頭と書記へ確かめなければならないことが、いくつも残っていた。


「……これをこう割り振って、こちらの地区はたしか……中央市場があったかな……」


 未来で、ローズ・クレストを腰に吊り、連日王都を駆け回った記憶がふっと戻った。濡れた石畳を踏んだ靴底の感触と、焼きたてのプレッツェルを包んだ紙袋の熱。魚市場で足首へ触れた氷の冷たさと、潮風に混じった魚と海藻の匂い。その記憶の中では、市場から港へ向かい、また戻る人の流れが、ひとつの街の呼吸になっていた。


 けれど、五百年後の王都を、この時代の地図へそのまま写すことはできない。道幅も、建物も、水路の位置も違う。記憶の中に中央市場があったとしても、いま同じ場所を使えるとは限らなかった。


 現在の区画図へ視線を戻し、インク壺の黒にペン先を沈める。余白の端へ細い線を足し、その脇へ小さく「未確認」と書き添えた。思い出した景色は、答えではない。ただ、何を確かめればよいかを探すための手がかりにはできる。


「ふぅ……」


 紙の目に視線を落としたまま、息と一緒に声が零れたとき、扉が控えめに鳴った。木を指先で二度、静かに叩く音に、ペン先が止まる。廊下の気配が、薄い板の向こうで息を潜めていた。


「陛下、お忙しいところ申し訳ありません。……今、お時間をいただけますか」


「ええ、かまいません。どうしましたか?」


 顔を上げると、扉が開き、宰相が一礼して入ってきた。結ばれた口元は崩れていなかったが、息だけがわずかに乱れていた。


「……先王陛下がお呼びでございます。ヴォルフ殿下もご一緒に、とのこと。……容態が思わしくないご様子でして、なるべく早くお越しいただきたいと……」


 指が、私案の紙を押さえたまま動かなかった。吸い込んだ息が、喉の途中でつかえた。紙束を脇へ寄せて立ち上がると、椅子の脚が石床を低く擦った。


「……分かりました。すぐに参ります。ヴォルフは……?」


「軍司令部にはすでに伝令を送り、ただいまこちらへ向かわれております」


 背筋を正す。指を一度、ゆっくりと開いた。頷くと同時に、宰相の手が扉へ伸びた。


「では――参りましょう。案内をお願いします」


「かしこまりました。どうか、お急ぎください、陛下」


 扉が閉じると、静けさのほうが急く。燭台の明かりが石に薄く広がり、冷えの残る壁面が袖口へ湿りを返した。靴音は低く、呼吸の合間へ沈む。王宮の奥へ進むたび、鼓動の位置が少しずつ上がっていった。


 曲がり角の先から、硬い靴音が近づいてくる。夕光の残りを背負って、ヴィルが現れた。眉間の皺が、いつもより深い。


「メービス、先王の容態は、そんなに悪いのか?」


 廊下の灯が細く揺れ、磨かれた石床に二人分の影が重なる。ヴィルはまっすぐわたしを見た。


「詳しいことはまだわからない。でも、とにかく急ぎましょう。父上が殿下も一緒にと仰っておられるのだから、きっと重大な話ではないかと……」


 足音が速まり、衣擦れが小刻みに続く。返事を待つあいだも、歩みは緩めなかった。


「……わかった。急ぐぞ」


 短い返事とともに、ヴィルは宰相の後を追った。けれど、わたしの半歩前へは出なかった。


 歩調を合わせているというより、わたしが立ち止まれるだけの余地を残している。磨かれた石床へ二人分の靴音が落ち、同じ間を空けて戻ってきた。


 前に父の部屋を訪れたとき、ヴィルには扉の外で待ってもらった。父と娘のあいだへ、答えを代わりに出してくれる人を連れて入りたくなかったからだ。けれど、今日は違う。王統のことも、子どものことも、わたし一人の身体と答えに閉じ込めてよい話ではない。


「今回は、あなたも一緒に来てもらえるかしら?」


「そのつもりで来た」


 先王の居室へ続く角を曲がる前に、もう一度だけ言った。


「どうしても、会ってほしいの。父上に……」


「ああ」


 ヴィルは理由を聞かなかった。わたしも、それ以上は言わなかった。


◇◇◇


 先王の部屋の前には、専属の侍女と侍医が一人ずつ控えていた。午後の診察では大きな変化はない。ただし面会は短く、咳が続けば会話の途中でも終える。その条件を確かめてから、わたしは扉へ向き直った。


 侍女が先に入り、女王と王配の来訪を告げる。しばらくして、内側から金具の外れる音がした。


 開いた扉の向こうは、前に訪れたときより火の気が薄かった。煎じ薬の苦い匂いは、変わらず部屋に残っていた。先王は枕へ深く沈み、胸元の掛け布だけが浅く上下していた。けれど、わたしたちが並んで入ると、その目は先にわたしを捉え、それからヴィルへ移った。


「おお……メービス、ヴォルフ……来てくれたか。国家再建のため……休みなく駆け回っておると、聞いた。忙しいところ……すまぬな……」


「とんでもありません、父上。何もかもまだ、動き始めたばかりです。港も市場も、直すべきところばかりで……それでも、これまで国を支えてこられた方々と、いま働いてくださっている皆のおかげで、少しずつ形になっております」


「そうか……ならば……よい……」


 先王の口元が、わずかにほどけた。前の面会で見た笑みよりも浅かったが、目に宿った安堵は変わらなかった。


 わたしは寝台の傍らへ進み、椅子へ腰を下ろした。ヴィルは反対側へ回らず、わたしの斜め後ろに立った。先王とわたしのあいだへは入らず、それでも、呼べば声の届く場所だった。


「儂も……今のうちに……話しておかねばならぬことが……ある……」


「父上、ご無理はなさらないでください。前にも申し上げたとおり、わたくしはまた参ります。今日だけで、すべてをお話しにならなくてもよいのです」


「ああ……。だが、メービス……それに、ヴォルフよ。そなたたちに……どうしても伝えねばならぬことがある。まずは……世継ぎの問題だ。既に耳にしているであろう……?」


 寝台の脇へ置かれた薬椀から上がる湯気は、もうかすかだった。


「はい。先だって、王統維持に関する建議が出されました。わたくしとヴォルフの子を、もっとも安定した道として求める内容です」


 先王の目が、わたしの顔からヴィルへ動いた。


「それで……そなたたちは……?」


「まだ答えておりません」


 先王が問い終えると、答えがすぐに口をついて出た。膝の上へ重ねた指は動かなかった。


「次の評議も、結論を出す日にはいたしません。現行法、系譜、先例、実子以外の継承経路、法による期限と政治上の要請を分けて報告させます。資料が揃っておらず、わたくしたちも、互いの意思をまだ確かめ終えておりませんから」


「僭越ながら、申し上げます。先王陛下」


 ヴィルの声が、背後ではなく隣から届いた。いつのまにか半歩だけ進み、わたしと同じ位置に立っている。


「国を立て直す責任も、王統を調べる責任も、退けるつもりはありません。ですが、私たちの答えを、国へ先に決めさせるつもりもありません」


 先王はしばらく目を閉じていた。呼吸のたび、鼻梁の脇に落ちた影がわずかに揺れる。侍女が水差しへ手を伸ばしかけたが、先王は指を一度上げて待たせた。


「そうか……。王統から目を背けるのではなく……答えは、そなたたちで決めるというのだな……」


 ヴィルが浅く頭を下げた。


「それで……よい。だが、国のために尽くすそなたたちへ、世継ぎまで求めれば……儂もまた、そなたたちを犠牲にすることになるのではないかと、考えてしまうのだ……」


 膝の上で重ねた指へ、わずかに力が入った。昨夜の寝台に並んだ二組の掛け布と、そのあいだに残した空間が浮かんだ。ヴィルにここにいてほしいと望んだことも、国のために距離を変えようとしたことも、どちらも自分の口から出た言葉だった。


「わたくしは、自分の意思でこの王宮へ戻りました。女王として国を支えることも、自分で選んだことです。ですから、そのことを犠牲だとは思っておりません。ただ……選んだ責任と、何をされても耐えることは、同じではないのだと理解できました。わたくしの出自を思えば、よけいに……」


 黒髪の巫女が女王であると知られれば、王家の権威は揺らぎかねない。もしそれが子を産んだあとなら、わたしは追われ、王家の血を引くその子は、王統を守るために取り上げられ、この王宮に残されてしまうかもしれない。


 先王のまぶたが上がった。


「そう……か……」


「はい。ですから、今は答えません。答えないまま、必要なことを調べます」


「メービス、ヴォルフ……。それでも、周囲が世継ぎを求める理由も、分からぬではない。ギルクは死に……王統の先が見えぬままでは、また争いの種となろう……」


 言葉の途中で咳が落ちた。先王は身体を起こそうとしたが、腕に力が入らない。侍女がすぐに枕へ手を入れ、わたしは薬椀ではなく水を受け取った。


 椀の縁を先王の唇へ当てる。先王の喉が、一度だけゆっくり動いた。


「もう、よろしいですか?」


「ああ……すまぬな……」


 椀を侍女へ返すと、先王の手が掛け布の上を動いた。前と同じように、何かを探している。今度は迷う前に、その手へ自分の指を差し出した。


 骨ばった指が手の甲へ重なる。握る力は弱い。それでも、触れた場所だけは温かかった。


「儂に残された時が……どれほどかは分からぬ。だからといって、それを理由に……そなたたちを急かしてはならぬのだろうな……」


 先王の視線は、わたしの手ではなく顔へ向けられていた。


「儂とて……そなたたちの子を、この腕に抱いてみたいと思わぬわけではない……。孫の顔を見てみたいと……そう願ったことはある……」


 わたしの指先がわずかに冷えた。


 市場で聞いた祝福とも、評議へ出された建議とも違っていた。けれど、言葉が違うだけで、求められているものは同じなのかもしれない。そう思ったところで、先王の指が、わたしの手の甲を一度だけなぞった。


「だが、それは……父親の勝手な願いに過ぎぬ。王命ではない。そなたたちが、儂のために叶えねばならぬことでもない……」


 吸いかけた息が、喉の途中で止まった。


「父上……」


「儂が望んでいたのは……そなたへ、ささやかな幸せを与えることだった。王宮へ戻り、王冠を戴いたそなたへ……さらに、儂の死ぬ前に孫を見せよと重荷を足したのでは……何のために、そなたを塔の外へ出したのか分からぬ……」


 先王は息を整えた。わたしの斜め前で、ヴィルの手が一度だけ開き、また閉じた。


「だからこそ――そなたたちが、義務や周りの声に流されるばかりに……王家という立場で子をなす姿は見たくない。分かるか……?」


「はい」


 今度は、声が遅れて出た。


「もし……そなたたちが自ら望み……子をもうける日が来るのなら、それは、このうえなく喜ばしいことだ。だが……そうでないのなら、決して無理をしてはならぬ。そなたたちが子をもうけぬからと……それだけで国が滅びるものではない。そうならぬ道を探すのが……王と、王へ仕える者の務めであろう……」


 先王の呼吸が、そこで浅くなった。侍医を呼ぶべきかと侍女を見ると、彼女は薬椀を取り上げたが、まだ呼び鈴には触れなかった。


「儂は……そなたたちを、義務の名で壊したくないのだ……。ゆえに、これだけは伝えねばならぬ……」


 返事をしようとして、唇を閉じた。先王は、話を終えた人の目をしていなかった。浅い息の合間に、わたしとヴィルを順に見ていた。薬椀を支える侍女の指が、縁に沿ってわずかに動いた。誰も声を挟まないまま、先王の視線がもう一度わたしへ戻った。


「実はな……ギルクには……子がおるのだ」


 ヴィルの衣擦れが、すぐ隣で止まった。


「妃とのあいだの子ではない。男爵家の令嬢……ロゼリーヌ・ド・モンヴェールとの、忘れ形見だ。名は……リュシアン。儂のもとへ届いた報せでは……十歳になる……」


 ――十歳。


 数字だけが先に残った。王統へつながる血。わたしたちが子をもうける以外の道。わたしたちが拒んだときに代わりとなる者。そう並べれば、建議の紙に空いていた欄へ、きれいに収まってしまう。


 けれど、その年齢をもう一度心の中で読んだとき、そこへ入る形が変わった。


 ――まだ、十歳の子どもだなんて……。


 一瞬だけ、前世の幼い自分が過った。


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