04話 そこにいるのに
「います。俺は上の、管が出ている所です。エルナさん、怪我はありませんか」
どうしてそこへ行ったのか、先に訊くつもりだった。けれど、管から返ってくる息が細くて、ほかのことは口に出せなかった。
よかった、俺の勘違いじゃない。紙を何枚見せたって三人は思い出してくれなかったから、本人にそう言ってもらえただけで、管へ寄せた肩から力が抜けそうになる。
「右の足首をひねりました。立つ時には、壁に掴まっています。ロイさんは、上にいるんですね」
「はい。灯を下へ向けても、そちらは見えません。落ちたんですか」
「私だけじゃなくて、部屋が床ごと下りたんです。戸が閉まったあと、窓の外の壁が上へ動いて……落ちた、と思ったんですが、椅子も棚も一緒でした」
向こうで何かを動かす音がした。俺は縦穴の縁へ膝をつき、左手の灯を少し外へ出す。手前の壁には二本の太い鉄が真下まで続き、ところどころに四角い滑り跡がついていた。部屋ごと動くための道なのだろうか。
そんな仕組みを作れるなら、出る方も用意しておいてくれればいい。下へ灯を振ってみたが、彼女の顔どころか、部屋の屋根も見えなかった。
「戸のほかに、出られそうな所はありますか。窓でも、風の入る穴でも」
「窓はあります。でも上の方で、天井の脇から風も来ています。さっきより弱い気はしますが、座っていれば息は苦しくありません。水も出ました。ただ、戸は開かなくて」
「分かりました。こちらに足場を直す人が来ますから、今は無理に立たないでください。水が飲めそうなら、先に一口だけでも」
セラが隣へしゃがみ、剣を壁へ立て掛けた。
「少し代わってくれ。どの戸から入ったか、本人と確かめたい」
俺が場所を空けると、セラは管へ口を寄せた。
「セラ・アストリアだ。君が入った戸の外側まで来ている。上へ戻る装置はあるだろうか。見える範囲で教えてほしい」
「セラさん! 戻ってくれたんですね。戸が閉まってすぐ叩いたんです。何度も呼んだんですが、聞こえませんでしたか」
声が明るくなったので、俺まで返事をしかけた。セラは黙ったまま管を見ている。あの声が自分へ向けられていることを、どんなふうに受け取っているのだろう。
「……申し訳ない。戸が閉まったあと、君のことを思い出せなくなった。今朝の記録は残っているが、君と話した場面が、私の記憶にはないんだ」
「思い出せないって……どの戸を使うか、一緒に確かめましたよね」
「そのことも、今は思い出せない。君が戻っていないと教えられて、もう一度ここへ来た。今度は置いて帰るつもりはない」
向こうが静かになった。ここから顔を見せられたら、と思ったが、管は一人が話すだけでいっぱいになる。俺はセラの肩越しに口を覗き、声が戻るのを待った。
「リオンさんと、オルトさんも?」
セラが脇へ寄ってくれたので、俺は代わって管へ口を寄せた。
「二人も同じです。でも俺は忘れてません。昨日、食堂であの階段の続きも見せてもらうって話したのも、覚えてます」
「ロイさんは……私のことが、ちゃんと分かっていたんですね」
「はい。だから迎えに来ました。図面だけ持って帰ったら、仕事が済んだことにはならないでしょう」
古図の話なら少しくらい笑ってくれるかと思ったのに、返事はなかった。衣服が擦れる音だけがして、自分の声が届かなかったのかと、俺はもう一度名前を呼びそうになる。
「……はい。私も覚えています。少しだけ、待ってもらえますか」
「待ってます。ここで聞いていますから」
セラは隣へ腰を下ろし、膝へ剣を戻した。彼女が仕分け場へ続く口を見ていてくれるので、俺は管へ顔を向けたままでいられた。やがて向こうで、固い物を床へ置く音がする。
「壁に、下りた位置を示す印があります。丸の下に短い線が三本。図板の隅にあったものと同じです。私の袋も、一緒に下りてきています」
「部屋の形も教えてもらえませんか。上で図を描いて、足場を直す人に渡します。まず戸の場所から」
「それなら、向きを合わせてください。私が管へ向かっていると、戸は左です。水はその向かい。上から見下ろす向きだと、逆になりますよ」
「はい。あなたと同じ向きで描きます」
帰り方を訊いていたはずなのに、先に図の描き方を注意された。食堂で階段を指した時にも、こうして話していた。俺は管の横にある木の板を留め具から外し、足元へ灯を置いて、持ってきた紙を挟む。古い書き込みを貼るための板らしく、端の金具はまだ使えた。
左手で板を支え、右手で四角い部屋を描いた。エルナが戸と窓の場所を教え、その間を歩数で埋めてくれる。床には倒れた椅子、戸の前には斜めに引っかかった金属の板。向かいの上の方にある窓には、細い縦棒が何本も入っている。
説明の途中で、壁を探るような音がした。
「歩いて確かめているんですか。無理しなくていいですよ。見えた所まで描きますから」
「出口かもしれない所を、分からないままにはしたくないんです。左足へ体重をかければ、少しは歩けます」
「そこを確かめたいのは、俺も同じです。でも、足をもっと傷めたら、出る時が大変でしょう。空いた所まで今すぐ埋めなくても、図は使えます」
返事を待ち、彼女が見えている所から続きを聞いた。本人が立つ場所へ足の印も入れておく。図の端に残った余白は気になったが、その角を描くために彼女をもう一度立たせるのは、俺にも頼めない。
書き終える頃、仕分け場から足音が届いた。金具を付けた柱を担ぐ男と、その後ろで索の輪を持った若い男が、俺たちの所へ来る。
「ゲン・フォルクだ。こっちはトビ・カナン。声はその管からか? 捜していた本人か?」
「はい。エルナさんです。部屋ごと下へ動いたそうで、今、聞いた形を描きました。見てもらえますか」
トビが灯を壁の鉤へ掛け、ゲンは上の太い柱へ腰の縄を回した。そのまま縦穴へ身を寄せ、俺の図と、壁の二本の鉄を見比べる。俺は板をいったん留め具へ戻し、二人の足元から荷をどけた。
「ここに沿って部屋が動いたらしいな。箱を上下させるなら、横へぶれないよう車輪を乗せる。だが、俺たちのいる口は別だ。部屋があったのは、あっちの戸だろう」
「そうだ。君たちなら、あそこから人を下ろせるか」
セラが示した対岸寄りの壁には、閉じた戸があった。手前の床は幅広く落ち、残っているのは壁際の細い石だけだ。
ゲンは縁を棒で探り、索の端へ小さな重りを付けた。トビが輪をほどくと、彼は穴の右側から索を送っていく。
「エルナさん、今、索を下ろしています。窓へ何か見えたら教えてください」
「……音はしました。でも窓の外へは来ていません。こちらの窓は、下りてきた壁と反対の側を向いているんです」
「もう少し横へ索を寄せれば、窓へ届きませんか」
「下ろしてる場所と、部屋がある場所は同じ真下じゃねえ。屋根も閉じたままだ。上へ索が載ったって、中にいる人間は拾えん」
「では、向こうの戸からなら?」
「あそこは床が切れてる。二人で渡って、さらに一人を引き上げる重さまで載せるのは無理だ。先に、何がまだ支えてるか調べる」
ゲンは腰の縄を外さず、ひび割れた石へ金具を押し込んだ。トビが索を巻き取る横で、俺はもう一度、向こうの細い石を見た。俺一人なら通れるかもしれない。しかし、足を傷めたエルナを抱えて戻るとなれば、あそこへ二人分の重さを預けることになる。
声はすぐそこへ来ているのに。俺は描いたばかりの戸の四角を見てから、管へ戻った。
「別の入り方を探します。その間、待っていてもらわなくてはなりません。食べ物は、どれくらいありますか」
「飲める水は蛇口から出ています。棚の中がずっと冷えていて、密封した小さな箱が八つありました。箱に一日と書いてあります。ただ、まだ開けていなくて」
「持ってきたものがあれば、先にそちらを食べてください。古い箱の中も、無事かどうか確かめてもらえますか。風が弱くなった時は、管を叩いて知らせてほしいです」
「分かりました。今は、壁の小さい灯も点いています。戸の横の灯は、白いままです」
その間にゲンは、こちらの壁にある別の扉を調べていた。中を覗いたトビが、下り階段はあるが、途中まで板に塞がれていると言う。
セラが二人だけで開けようとするのを待たせた。先に見張りの機械を片づけなければ、直す床へ人を寄せることもできない。俺は図板を外してゲンへ渡し、上へ戻ってリオンとオルトを連れてくることにした。
「二人に説明して、この扉の先も見てもらいます。ゲンさんたちは、ここへ残るんですか」
「ああ。戸を固定して、帰りに落ちそうな石を留めておく。入口の兵へ増員も頼んでくれ。階段が使えても、運ぶ物は増えるぞ」
俺は頼まれたことを覚え、管へ最後の声を掛けた。
「また、ここで話します。風と水を見たら、座れる所へ戻っていてください。こちらへ知らせたいことがあれば、管を叩いてもらえば聞こえます」
「はい。私も下で分かることを図にしておきます。ただ、一つだけ。さっき、窓の外の灯が増えたんです」
「人がいるんですか?」
「姿は見えません。部屋一つの明かりじゃなくて……窓から遠くまで、道に沿うように並んでいます。まるで街の灯みたいに」
セラが俺へ顔を向けた。ゲンも図板を縦穴へ向け、小さな部屋の四角と、灯の届かない底を見比べている。あの下には、俺たちが探していた一部屋より、ずっと広いものがあるらしい。
エルナへ戻ると伝え、俺は足元の灯を取り、セラと来た道を歩き直した。格子のそばは避け、案内の兵がいる口まで一緒に進む。外には冷たい風が吹き、赤い旗が夕方へ傾いた光の中で揺れていた。
調査拠点へ戻ると、ミラが椅子から立ち上がった。
「本人へ届きましたか」
「声は届きました。でも、まだ下です。部屋ごと下りていて、外には街のように灯が並んでいるそうです」
山の上へ目を戻した。
迎えに来たのは、巡礼堂へ入った四人だ。俺たちの知らない街にいる人を連れて帰るつもりで、契約した覚えはなかった。




