02話 俺だけが覚えている
俺は、荷車の毛布を畳み直した。
三人を乗せて帰れば、まだ明るいうちに宿へ着く。残りの十六枚も、契約の紙を見せて話せば払ってもらえるかもしれない。実際に出てきたのは三人だ。俺にどうしろというのだと、そういう話にしてしまえばよかった。
けれど一人分の場所へ毛布を置くと、昨日そこへ袋を載せたエルナの顔が浮かんだ。図面に毛布を取られると笑っていた人を、俺までいなかったことにする。それは、金を諦めるより難しそうだった。
「この人を迎えに来たんです。四人目に、エルナさんの名前があるでしょう」
俺は机へ紙を広げた。リオンが吊った左腕をかばって覗き込み、セラも横へ来る。
「名前は読める。だが、私はこの人を思い出せない」
「昨日ここで会いました。山へ上がる前に、俺の車を見ているんです」
「私たちと入ると、本人が言ったのか?」
「はい。皆さんと入る仕事だって、本人が言いました。黒い髪を後ろでまとめていて、青い鉛筆を上着に挟んでいて――」
「待て。顔の説明は、あとで頼む。先に人数を確かめよう」
リオンに止められ、俺は続けかけた言葉を飲み込んだ。ほかにも言えることはある。袋の底を縫い直していたことも、字が小さくなるとダナに笑われていたことも。でも、三人にその顔を思い出してもらおうとするほど、こっちの記憶まで頼りなくなってくる。
俺は昨日会ったのだ。その一つだけでも、確かなままにしておきたかった。
「ダナさん、この契約を受け付けたのは、あなたですね」
「そうだよ。字も印も、私のものだ」
「ほかの控えも出せますか。ミラ、山へ入った者の名簿と、工務局の命令書をここへ。門の係にも、今日通った人数を聞いてくれ」
ミラが兵を二手へ走らせた。俺はエルナから見せられた命令書のことを伝え、ダナも箱から受付の控えを出す。机の上が紙で埋まっていく間、三人の顔は変わらなかった。
これだけあれば思い出すだろう、とは、もう考えられない。ダナですら自分の書いた名前を見ながら、相手の顔が出てこないと言っている。
やがて兵が持ってきた名簿と命令書にも、四人の名が並んだ。エルナの横には、昨日の夕方に入った印がある。
「四名が入っています。今日戻ったのは三名で、追加の通過も連絡もありません」
ミラの報告を聞いて、オルトが荷車の横から来た。大きな盾を立てたまま三人の間へ入るので、俺は机の端へ寄った。
「ほかの出口を使ったんじゃないか? 俺たちと違う道から戻ってくるつもりなら、まだ途中かもしれん」
「それなら、その道も確かめてもらえませんか。俺の車へ来ていないだけなら、そっちの方がいいです」
「その人と、最後にどこで会った?」
「俺が会ったのは、昨日のここです。中のことは知りません。だから、皆さんに聞いています」
言ってから、声が強くなっていたのに気づいた。オルトは怒らず、ミラへ向き直って、別の帰り口が使われていないかも確認するよう頼んだ。
ミラが荷袋から出した図面の筒は四本あった。最後の札に青い鉛筆で書かれたエルナの名前を見て、俺は顔を寄せる。
「その青です。狭い所では短い鉛筆を使うって、本人が教えてくれました」
「この四本は、俺が受け取ってまとめた」
リオンは札を裏返した。
「受け取ったことは覚えているのに、誰が渡したか出てこない。三人分しかないと思っていたわけじゃないんだが……」
「じゃあ、最後に測る人が入るはずだったのは、どこですか」
「上層の保守所だ。戸を開けたあと、床が崩れた」
「戸の向こうに、誰もいないのを見ましたか」
すぐには返事がなかった。
リオンがセラを見る。彼女は視線を返したが、頷かなかった。
「私は外側にいた。中を見たとは言えない」
「俺も、床が落ちた時は外にいた」
オルトもそう答えた。俺が欲しかったのは、誰もいなかった、という返事だ。それなら別の帰り口を捜して待てばいい。けれど、三人の誰もそれを言ってくれなかった。
セラが命令書を手に取る。
「私が戸の外まで見てくる。帰っていない人がいるなら、そこを確かめないまま帰れない」
「工兵を二人つける。崩れた所を無理に越えるなよ。まず、戸までの道が残っているか見てくれ」
リオンがミラへ資材の用意を頼んだ。
捜す人は決まった。セラなら俺より強いし、足場は工兵が見てくれる。ここで待っていて、エルナが戻ったら車へ乗せる。昨日受けたのは、そういう仕事だったはずだ。
「ロイさんは待っていていい。中へ入る契約じゃなかったんだろう。顔の特徴を兵に伝えておいてくれ」
オルトに言われ、畳みかけた紙を見下ろした。誰も俺を連れていこうとしていないのが、かえって困った。
断る理由なら、幾つもある。俺は剣士じゃない。棒を持って英雄の隣へ立っても、棒は棒のままだ。帰り足で戻れるのも俺一人だから、人を見つければそれで助かるというわけではない。
金の方も、外で待っていた方がよさそうだった。見つかるまでの待機分まで相談すれば、まだ紙に書き足す場所はある。
それなのに、さっきから想像するのは、袋を抱えて帰ってくるエルナではなく、誰も来ない所で待つ方の姿だ。俺がここで待つ理由を考える間にも、向こうは誰かが来る理由を探しているかもしれない。
生きているかも分からないのに、そんなことばかり浮かぶ。俺だけが本人を覚えているせいだろうか。あとで欲しかった地図を買っても、帰り道でまた気になりそうだった。
「俺も行きます。本人かどうか、俺なら顔を見て確かめられますから」
水袋の紐を取り、セラの方を向いた。
「それに、先に歩ける所を見ておきたいです。通った道なら、危なくなっても俺は早く戻れます」
「見ていない道へ、いきなり戻れるわけではないんだな?」
「はい。まずは歩いて行きます」
「なら、私の後ろへ。角の向こうへ先に出ないでくれ」
「分かりました。あと、リオンさん。中へ入る分は、昨日の迎えとは別にしてください」
リオンがこちらを見た。命の話をしたあとに金の話をすると、だいたいそういう顔をされる。だが、曖昧なまま入って、帰ってから言えば、どうして先に相談しなかったとなるのだ。
「二十四銀で、奥まで何でも引き受けたことにはしないでほしいです。あの戸まで見て、先があるなら、まず報告を返します」
「分かった。今日の上層と、最後に確認した戸まで。最初の捜索分として四銀だ。道が落ちていたら、そこから先まで無理に通す約束は要らない」
「その範囲で受けます。王都にも、人を出してもらえますか。組合の控えと、本人の家を確かめてほしいです」
「家の場所は?」
「昨日、ここへ書いてくれました。お父さんの住所です」
紙を見せると、リオンはそのままミラへ伝令の手配を頼んだ。
父親なら、娘を覚えているだろうか。そうであってほしいが、ダナも昨日まであんなに気安く話していた。返事を聞くのは少し怖い。それでも待っている間に、戸の中へ水が届くわけではなかった。
俺は紙の余白へ、まだ帰っていない、こちらで捜している、と書き、自分の名を添えた。全員が戻ったと知らせる欄は、そのまま空けておく。
迎えの契約はダナの箱へ預け、毛布は四人分とも車へ残した。水袋と灯、細い縄と道具の袋を取り、最後に荷車の脇から棒を抜く。持ってみると、いつもの棒が今日は短く感じた。
「四人分、空けておいてください。帰ってきたら、ここで確認します」
「空けておくよ。あんたの分も、戻ってきたのを確かめないとね」
ダナが箱の蓋を閉じた。
俺はセラの後ろにつき、待機所の灯が見えなくなる前に、一度だけ車を振り返った。空いた一人分は、朝と同じ広さだった。




