01話 四人で帰ってきてください
新しい靴の値段を覚えていたのに、先に地図を買ってしまった。
組合の食堂で紙を広げた拍子に、右の靴の爪先が椅子の脚に引っかかり、縫い直した糸が一本切れた。継ぎ目が少し開いたが、まだ底まで抜けたわけじゃないし、今日一日くらいならどうにか持つだろう。靴屋へ行けば買い替えろと言われるに決まっているが、靴を売る人の言うとおりにしていたら、地図に回す金がなくなる。
それに、靴なら明日も売っている。古い地図の方は、次に店へ行った時にも棚にあるとは限らないのだから、先に買っておいてよかったはずだ。俺は裂け目を椅子の下へ隠し、紙に描かれた階段へ目を戻した。いちばん知りたい曲がり角の先で線が切れていて、そこに戸があるのか、別の部屋へ続くのかが分からない。
「それ、朝飯の代わりにはならないからな」
向かいの地図屋が、俺の皿を指した。
豆のスープには薄い膜が張り、パンはまだ割っていない。腹は減っているが、食べるなら紙を畳まなくてはならないし、いま畳んだら思いつきかけた階段の続きまで忘れそうだ。スープは冷めても食えるだろうと皿を遠ざけ、パンくずが飛ばないよう紙の端を持ち上げた。
「原本、もう一度探してもらえませんか。この階段、途中で切れてるでしょう。外へ出た人は、どこへ行くんですか」
「棚にあれば昨日売ってる。俺のところにあるのは、その一枚だよ。道を探す前に、靴へ金を回した方がいいんじゃないか」
「そっちは明日でも店にあります」
「その言い方を、靴が壊れるまで毎日するんだろ」
うまい返しを考える前に、右の足が椅子の下へ隠れた。俺の仕事は帰り道の案内なのだから、地図を買うのだって商売道具を揃えるうちに入るはずだ。この古い階段を仕事で使ったことは、まだ一度もないが、これから通るかもしれないじゃないか。そう言い返せば靴も商売道具だと返ってきそうなので、俺はパンを割って口を塞いだ。
地図屋が席を立つと、俺は紙へ顔を戻した。原本が店にないなら、持っている人を捜して譲ってもらえばいい。その時に金がなくて帰るのは嫌だから、今日は少し割のいい仕事を選びたい。靴のために働くより、そっちの方がよほど足も動きそうだった。
壁の黒板には、薬草採りの帰り道の案内、雨で止まった荷車の回収、鉱山からの搬送が並んでいた。山へ登る時は元気でも、帰りに足をひねれば誰かが運ばなくてはならない。帰還屋の俺へ来るのは、そういう仕事だ。
鉱山の札は高いが、帰る人数が空欄だった。薬草採りの方を見ようとして、切れた階段へ視線が戻る。そこへ皿を下げる人の手が伸び、俺は慌てて紙を持ち上げた。
「その図面、少し見せていただいてもいいですか」
黒髪を後ろでまとめた女が、椅子の脇に立っていた。耳には長い鉛筆。肩に掛けた袋は膝まで届きそうに大きく、底だけ新しい革に張り替えてある。俺が椅子を引いても、彼女の目は先に紙へ向いた。
「東巡礼堂の荷物用の入口ですね。その階段は建物を回って、西へ出ます。いま通れるかは、今日確かめる予定ですが」
「続きを持ってるんですか」
「持っています。でも、先に仕事のお話をしてもいいでしょうか。私自身の迎えを、図面探しの次に回されると困るので」
まだ名前も聞いていないのに、俺が何を先に訊くか分かっているらしい。実際、続きをどこで手に入れたか訊くつもりだったので、俺は紙を畳み、机の真ん中を空けた。
彼女の袋から、木の板で挟んだ図が少し見える。あの角まで線があるなら、その先も描いてあるのだろうか。迎えの相談をしたい人へ顔を向けているはずなのに、目だけが袋へ戻りそうになる。俺はパンも置き、今度こそ名前を聞く方へ回った。
「ロイ・グランツです。迎えと、帰りの案内をしています」
「エルナ・クローネです。組合で、沢の道を使う少人数の搬送なら、あなたに相談できると聞きました。薬草採りの方を、あちらから運んだことがあるそうですね」
「はい。雨で歩けなくなった人を二人。あそこは、荷車を通す前に下の道を見た方がいいです」
「今日の便で出られる人も、何人か紹介してもらいました。私は図面の話も通じそうな方がよかったので」
何人か、と聞いて、俺は椅子へ座り直した。俺が断れば、彼女はほかの帰還屋へ行き、ついでに図面の相談もそちらで済ませるのだろう。そいつが地図好きだったら、仕事の帰りに買ってしまうかもしれない。まだ料金も聞いていないのに、隣の席へ客を回してやる気にはなれなかった。
「冬前の山の斜面を測りに行くんです。明日の午後二時には、沢の入口の拠点へ四人で戻るので、そこから川沿いの町まで迎えをお願いしたいんです。怪我があれば、運ぶ方も」
「巡礼堂から出る、あの門ですか」
「はい。宿は取ってあります。門を出たあと、沢の道を使うことになりますが」
「そちらは知っています。待機と四人の迎えで十二枚です。全員が歩けない場合は、車と運ぶ人を追加しますけど」
あの門なら見たことがある。山の建物からこちらへ出る時は一瞬だが、反対向きには使えない。昔の人は、帰る方だけ便利にしていたらしい。上る時も使わせてくれればいいのに、こちらから行く時は普通に山道を歩くしかなかった。
俺が十二枚と書く間に、エルナは戻る四人の名を書き始めた。
セラ・アストリア。
俺の鉛筆が止まる。その下へリオン・ハルフォード、オルト・ランドールと続くのを見て、入口の壁を振り返った。北の砦を守った三人の絵が、今日もそこに貼ってある。
あの三人が俺の荷車へ乗る。少し嬉しくなったが、絵の大盾を見ると、いつもの車に収まる気がしなかった。
「これ、本当にあの三人ですか」
「はい。私を含めて四人です」
「何を調べるんです? 山の斜面を測るだけなら、三人も英雄は要らないでしょう」
エルナの手が袋の奥の包みへ伸び、途中で止まった。取り出してくれるのかと思ったが、彼女はそのまま口を開く。
「測量はします。ただ、それ以外にも調べることがあります。その内容は、外へお話しできません」
「秘密ですか」
「はい」
「俺が待つ門の方まで、危なくなる仕事じゃありませんか。三人が要る場所の帰りを、俺一人へ頼むのは変でしょう」
「建物の中には、まだ動く見張りの機械がいます。床も傷んでいるので、兵を大勢入れることはできません。三人は、その対応のためです。外の道と拠点には、別の兵が残ります」
「だったら、帰りも軍の車でいいんじゃないですか」
「外の兵は調査班が帰ったあとも、道を守って修理の材料を運びます。車もそちらで使うので、私たち四人の迎えを別に頼むことになりました」
彼女は工務局の命令書を出した。建物や道を扱う役所の印に、軍の連絡先まである。英雄の名前だけ借りて俺を山へ連れ出す話ではなさそうだが、調査の中身は別紙、と書いてあった。
肝心の所は、やはり見せないらしい。
「事情があるのは分かりました。でも、知らない危険まで引き受けることはできません。俺が受けるのは、門から出た四人と荷を町へ帰す分です」
「中へ入って調査を手伝っていただくつもりはありません。予定が変わった時の連絡と、待機も含めて、二十四枚ではどうでしょうか」
二十四枚。
前の十二を消しかけ、俺は鉛筆を止めた。まだ受けると言っていない。けれど、それだけあれば靴を替えて、棒も直せる。階段の続きが店へ出てきても、値段だけ聞いて諦めなくて済む。
さっきまでは、どこを聞けば断れるか考えていた。今は、どこまで確かめれば受けられるかを探している。二十四枚という言葉には、どうもそういう力があるらしい。
「外へ機械が出てくることは?」
「いま確認できているものは、建物の中です。外で危険が起きた時の護衛は、軍へ頼んであります」
「後から大きな機材を載せろ、という話もなしです。運ぶ紙は、その袋一つですよね」
「はい。ただ、オルトさんの盾があります。寸法も持ってきました」
「……これは大きい方の車を借ります。人の座る分も残したいので」
紙へ描かれた盾を見て、車代を勘定し直した。それでも倍額なら残る。俺は荷を運ぶために呼ばれたのであって、秘密の中身を確かめに行くわけではない。普段の薬草採りの客だって、何を摘んでくるかまで俺へ説明したりしないだろう。
「受けます。戻らない人がいたら、軍へ連絡して、捜す分は別に決めてください。紙だけ帰して、人を置いていく仕事にはしません」
「分かりました。四人目は私です。私も、帰る方へ数えてくださいね」
「もちろんです。前金は八枚、残りの十六枚は町で受け取ります」
エルナが自分の名を書き、俺も十二を二十四へ直した。これで、昨日買った地図に金を使ったことまで正しかった気がしてくる。自分から声を掛けたわけでもないのに、地図を広げていたおかげで選んでもらえたのだから。
迎えの時刻を囲み、彼女が次の欄を見ているのを待った。
「私が戻らなかった場合の連絡先も、ここへ書きますか」
「その下です。でも、まず戻るつもりで名前を書いてください」
口を出してから、少し強かったかと思った。エルナは俺の顔を見たが、言い返さず、王都の南の外壁近くにある父の家の住所を書いた。秘密の紙と違って、そこは隠さなかった。
銀貨が八枚、机へ並んだ。数えて別の袋へしまうと、隣に座っていた灰色の髪の女が、こちらへ椅子を寄せた。
「ダナさん。同行の控えを、拠点へ持っていっていただけますか」
「持っていくよ。明日は二時だったね。帰ってきたら、測量の写しも受け取る」
拠点の記録係だというダナは、四つの名を目で追ったところで笑った。
「この子の字は、横へ行くほど小さくなるんだ。狭い所で書く癖が、帳面にも出る」
「紙が大きくならないので、字を小さくするしかないでしょう」
「明日は、その大きな袋を置く所を空けてもらいな」
「お願いします。椅子だけ空いていても、袋が座れませんから」
エルナが俺へ向き直る。さっきまで秘密の包みを押さえていた人が、字の大きさで言い返している。この二人が俺を安心させるために芝居をしているなら、袋の席まで用意するのはずいぶん念入りだ。
そんなことを考えていたくせに、彼女が図を取り出すと、俺はすぐ机を空けてしまった。八枚も受け取ったあとでまだ疑っている俺が、いちばん念入りなのかもしれない。
契約が済むと、ようやく古図を広げてもらえた。
俺が見たい顔をしていたのだろう。エルナは先に、こちらは自分で買った私物で、袋の奥にある公務の資料とは別だと言う。売る相談も、調査と報告が済んでからならできるらしい。
「この紙にも、仕事で見た線を足すんですか」
「普通の階段や道の状態なら。ただ、仕事で知ったことを、何でも載せるわけではありません」
「秘密の場所は、そのまま空いてる?」
「今は、そうなります。通れるか確かめていないところも、勝手には描きません」
秘密の場所は空いたままか。それは惜しいが、いま彼女が指で辿っている階段だけでも、俺の切り抜きよりずっと先へ続いている。俺は顔を寄せ、折り目に重なった細い線を覗いた。
見せない紙には、この先もあるのだろうか。つい気になるが、仕事の包みを出してくれと頼めば、こっちの紙までしまわれそうだ。いまは階段の続きで十分だと思うことにして、指が折り目から離れるのを待った。
「いつか、自分で測った道を本にしたいんです。この紙へ足す線だけでも、私の名前で」
「その本に、俺が確かめた道も載せてもらえますか」
「実際に確かめてからなら。まだ歩いていない道を載せる約束はできませんよ」
それなら、いまから道を選んでおきたい。自分で確かめた曲がり角が誰かの地図に載り、そばに俺の名前まで入るなら、その本は二冊買うかもしれない。開いて見る分と、棚へ立てておく分だ。まだ売ってもいない本を置く場所まで考えていた。
「まず四人で帰ってきます。そのあと、図面の相談をしましょう」
俺は頷き、契約の紙が乾くのを待った。
席を立ったエルナは、長い鉛筆を袋へ入れ、短い青い鉛筆を上着へ挟む。狭い壁際ではこちらを使う、と教えてくれた。大きな袋を肩へ掛けると、身体が少し傾いたので、紙の荷なら軽そうだと思っていた見積もりも直しておく。
銀貨を入れた袋を、上着の内側から押さえた。その重さのぶんだけ、この仕事なら何とかなる気がしていた。
調査拠点へ着いたのは、その日の夕方だった。
谷の斜面に木の柵が並び、門の前には石を積んだ小さな広場がある。屋根のある待機所は二つだけで、軍の荷は奥側へ、俺の車は沢へ下りる道の近くへ置いた。怪我をした客が出たら、ここまで来るだけでしんどいはずだ。車へ載る前に、俺の都合でもうひと坂歩かせるつもりはない。
エルナの乗った馬車は俺より先に着いていた。本人は軍の案内を待ち、ダナは待機所へ帳面を広げている。俺は二人へ車の場所を示し、エルナが袋を載せるための布を確かめるのを見ていた。
「四枚も毛布を積むんですね。いまから行くのは山の建物の中ですよ」
「元気な人にも使います。帰りは座ってるだけで冷えますから」
「では、私は濡らさないように戻ります。図面に毛布を取られたら、私が寒くなりそうなので」
少し笑ってから、彼女は巡礼堂へ向かった。
白い柱が山の向こうに見える。その下までは軍の案内路があり、幾つかの曲がり角で赤い旗が立っていた。エルナは案内の兵と歩いて上り、やがて最後の旗の陰へ姿が隠れる。俺は車輪止めを挟み、荷車を押して動かないことを確かめた。あの袋が戻ったら、古図の値段を聞く。楽しみが帰りに残っている仕事は、待つ間も悪くなかった。
*
翌朝、川沿いの町へ下る道を確かめた。
夜の雨で石が浮いた場所へ板を渡し、帰りの荷車が曲がれる幅を測る。町の宿へ人数を伝えて戻ると、右の靴がすっかり濡れ、足を動かすたびに爪先が冷えた。前金を使えば昨日のうちに買えたのに、まだ働いていない金だからと後に回したせいだ。地図の代金ならすぐ払っただろうが、そっちは待ってもらえない買い物なのだから、同じに考えられても困る。とにかく今日の分を受け取ったら、今度こそ靴屋へ行こう。
午後にはダナが門脇へ移り、戻った人の数を記す帳面を置いた。俺は毛布の包みを解き、四枚の端を揃える。四枚ある。袋のために一枚使うなら、その人の膝に掛ける分は別に出そう。エルナが寒くなりそうだと言った声を思い出し、俺は包みの位置を変えた。
古い石枠の内側が明るくなった。
最初に出てきたのは、盾を肩に担いだ大柄な男だった。右足を引き、枠の外へ置いたところで一度止まる。盾を下ろせる場所を探していたので、俺は車の横へ布を敷き、そこを指した。
「ここへ置いてください。足を傷めた方は、先に座ってもらいます」
「悪いな。こいつを立てる場所があれば、俺はまだ歩ける」
オルト・ランドールだった。
絵より髭が伸び、額には細い傷が三つある。盾が布へ置かれると、その下の石が少し沈んだ。あの大きさを肩に載せて歩いていたのだから、英雄の方が俺より楽に運べるのでは、と一瞬思ってしまう。だが、その本人は右足を引いている。車の端へ載せれば傾きそうなので、俺は荷を寄せ直し、盾を置く分と彼が腰掛ける分を真ん中へ空けた。
二人目は弓を背負った若い男で、左腕を胸へ吊っていた。出てくるとすぐに奥の兵へ目を向け、女の兵士を呼ぶ。
「ミラ。建物の外を守る隊は、全員戻っているか」
「はい。副官の私と二十四名、欠員はありません。負傷した二人は先に下げました。こちらの帰り道も使えます」
「分かった。残る測定具を受け取ったら交代してくれ。今日は俺が前へ戻れない」
リオン・ハルフォードだった。痛そうな腕より先に部下の数を訊いている。俺が持つ迎えの紙を見ると、こちらへ頷いた。話を通してある、というエルナの言葉は本当だったらしい。最後に剣士が枠を越え、背後の灯が静まった。
セラ・アストリアは剣の柄を押さえたまま、広場を見回した。剣の鞘は泥で白く汚れ、左の頬に裂けた傷がある。それでも兵が彼女へ近づく時には、先に剣から離れた側を選んでいた。
「お疲れさまです。荷を載せる前に、四人とも確認させてください。エルナさんは、次に出てくるんですか」
セラが俺を見た。返事を待ったが、門の方を確かめようともせず、こちらを見たままだ。
「誰のことを言っている?」
「エルナ・クローネさんです。迎えを頼んだ、測量の人です。黒い髪で、大きな袋を持っていたでしょう」
「あなたに迎えを頼んだのは知っている。だが、その人に覚えがない」
「……名前を間違えましたか。これ、本人が書いたんですけど」
契約の紙を広げると、リオンは兵へ渡しかけた袋を止め、オルトも車からこちらへ顔を向けた。四つ目の名は、昨日と同じ位置にある。
「記録の人間が同行したのか? 建物に入ったのは、俺たち三人だったが」
リオンがセラへ尋ねた。彼女は紙を見たあと、首を横に振る。オルトも知らないと言った。
秘密だから答えない、という意味なのだろうか。そう思いたかった。俺が受けたのは四人の迎えであって、四人目のことを聞かない仕事ではない。
「工務局の同行の控えも、こちらへ来ているはずです。昨日、この拠点で車を確かめてから山へ入っています」
「控えは見よう。だが、俺の覚えている人数は三人だ」
「門の方にも、まだ人がいるんじゃ――」
「三名の通過は、完了しています」
近づいた門の係が答えた。石枠の下に灯が三つ並び、枠の内側はもう山の景色を映していない。待っていればもう一人出てくるという様子ではなかった。
だったら、エルナはあの向こうだ。昨日約束した時刻に合わせ、俺が迎えに来るのを待っているかもしれない。
俺はダナの机へ行った。この人なら、秘密の話をしなくてもエルナの顔が分かる。英雄三人へ聞き方を間違えただけだと、言ってもらいたかった。
「エルナさんが、まだ出てこないんです。別の便で戻るような連絡、来ていませんか」
「エルナ……?」
「昨日、王都から一緒に来たでしょう。帰ったら測量の写しを受け取るって、食堂でも話していましたよね」
ダナは帳面をめくる手を止めた。俺が名前を繰り返すと、机の脇の箱から同行の紙を出す。四人分の名も、工務局の印も残っていて、端にはダナの字で「図面一組」と書いてあった。
「この字は私のだよ。確認の丸も、私がつけている」
「じゃあ、その人がどこへ――」
「でも、顔が出てこないんだ。私、この人と話していたのかい?」
食堂で字の大きさを注意していた声と、同じ声だった。
「話していました。横へ行くほど字が小さくなるって、言っていたじゃないですか」
「……そんな字を書く子を、知っていた気はするんだけどね」
ダナは紙を見つめていた。ここで、冗談だよ、と笑ってくれればいい。昨日のどの席にいたかまで言おうとしたが、彼女はまだ、名前から知らない人の顔を探している。
俺だけが、昨日の食堂に置いていかれていた。
俺は荷車を振り返った。エルナの袋を載せるために空けていた場所には、まだ何もない。昨日は、あの袋を持って笑う彼女が、確かにここにいた。
三人とも、知らないと言う。
彼女と何度も仕事をしてきたダナまで、顔も声も思い出せない。
名前は紙に残っている。それなのに、エルナを覚えているのは、俺だけだった。




