プロローグ 先に帰れ
床が抜け、少年の身体が沈んだ。
兄が腕を掴んだのは、足が宙へ投げ出される寸前だった。割れた石の縁へ引き上げられ、少年は兄の腕にしがみつく。手のひらに広がった生温かいものが血だと気づくより早く、耳元で声が響いた。
「走れ!」
もつれる足を兄に支えられ、通路の奥へ踏み出す。背後では、さっきまで立っていた床が壁ごと暗い穴へ落ちていった。
行く手を塞いでいた黒い獣が、天井をこするほど大きな頭を持ち上げる。振り下ろされた前足から逃れる場所もなく、少年は兄の腕を握りしめた。
剣を握った老人が、二人の前へ踏み込んだ。
片手で振り上げた刃が獣の前足を断ち、そのまま喉へ走る。巨体は少年たちからそれて壁へ崩れ、砕けた石に埋まって動かなくなった。
「奥の戸へ――」
老人の声に促され、兄の後を追って獣の脇を駆け抜ける。その途端、通路を照らしていた青い灯が消え、低い揺れが背後から足の裏へ伝わってきた。
少年が振り返ると、老人は二人の来た方へ剣を向けている。そこには何も見えないのに、獣を斬った手が震えていた。
老人は柄にもう片方の手を添え、両足を踏ん張って腰を沈めた。歯を食いしばる口元から血が流れ、刃を包む白い光が天井まで伸びていく。踏み込んだ足が石床を砕き、腰も肩も腕も、重い剣を振り下ろす一つの動きにつながった。
轟音とともに光が通路を走り、左右の壁を削りながら暗がりを呑み込んでいく。少年は顔を腕で覆い、飛んできた石の欠片が袖を裂くのを感じた。
その光を、黒いものが突き破った。
剣が折れると同時に老人の脇腹がえぐられ、両足が床を離れる。身体は横の壁へ叩きつけられ、血と石の粉が少年の足元まで飛んできた。
裂けた上着の下に、白い骨が見えている。それでも老人は壁に手をつき、血を吐きながら折れた剣を前へ向けようとした。
「こっちだ!」
兄に抱き寄せられた身体が、戸の前へ転がり込む。背後では頭上から石の壁が落ちて通路を塞ぎ、老人の姿を隠してしまった。
兄は首の紐を引きちぎると、鍵を戸の脇の穴へ差し込んだ。少年の手を隣の板へ押しつけ、灯がつくのを待って取っ手を引く。開いた戸の向こうには草が広がり、土の匂いを含んだ風が顔へ吹きつけた。
少年は兄の腕を掴み、二人で外へ出ようとした。
「兄ちゃんも、早く!」
けれど兄が取っ手から手を離しかけると、戸が閉まり、外へ続く隙間が細くなる。兄が慌てて引き戻す間にも、背後から石の砕ける音が近づいてきた。
踵の下が崩れ、兄の身体が傾く。それでも取っ手を離さず、戸を押さえる腕へ体重をかけながら、もう片方の手を少年の背へ回した。
「行け!」
突き飛ばされた少年は戸を抜け、草の上を転がった。肩と肘を地面に打ちつけながら顔を上げると、兄が戸口からこちらへ手を伸ばしている。
その足元が落ちた。
「兄ちゃん!」
少年も手を伸ばしたが、届く前に兄の姿が割れた石と一緒に沈んでいく。血に濡れた指が取っ手から滑り、跳ね戻った戸が二人の間を塞いだ。
少年は立ち上がる暇もなく、這って戸口へ飛びついた。けれど、そこには取っ手も隙間もなく、冷たい石があるばかりだった。
草を掴んだ掌に、兄の血だけが残っていた。




