18話 忘れた人からの手紙
目が覚めた時、俺は食事の台の下へ足を入れて寝ていた。
起き上がろうとして、左腕の痛みより先に、台の裏へ額をぶつける。机の上には地図を広げたい方だが、下で寝ることまで好きになった覚えはない。
隣の搬送兵が、起きなくていいと手を振った。
「まだ、交代まで少しあります。水なら、こっちです」
「……どれくらい寝ました」
「途中で起こした分を除けば、六時間ほど。さっき手当の者が、もう一度布を替えていましたよ」
腕を見ると、新しい布が巻かれている。上着を脱いだ記憶は、途中から怪しかった。
昨夜、配給室へ戻ってから、リオンは十五人を二つに分けた。起きて見張りと付き添いをする班と、眠る班だ。全員が一緒に横になることだけは避け、夜半を越えて交代した。今は、俺が起きている方へ入る番らしい。
水袋を受け取って飲むと、一口目だけでは喉が足りなかった。残りを確かめ、もう一口に留める。水場へ行けなくなったことは、寝ても変わっていない。
台の向こうでは、セラが腿の布を巻き直してもらっていた。
俺の視線に気づくと、彼女は白い布の下へ指を入れる手を止めさせず、空いた方を見せる。
「腕の痛みはどうだ」
「昨日より、少し。大きな仕事はしたくないくらいです」
「私もだ。剣を持つ仕事なら、もう少し待ってもらう」
「じゃあ、地図を見てください。持つのは俺がやります」
「それは休みの仕事なのか?」
言われてみれば、俺の方は喜んでいた。
今まで買ったどの古図より、広げる場所に困る紙が増えた。ここから帰りたい気持ちと、線を一つも失くしたくない気持ちは、どうも、同じ胸の中へ入っているらしい。
セラは俺が紙を出す前に、右手へ椀を渡した。乾いた食べ物を湯で戻しただけの物だったが、温かい汁があると、頬まで動かせる気がした。
*
エルナは、隣の小部屋にいた。
昔ここで寝ていた家族の物には触れず、入口寄りへ持参の毛布を敷いている。固定した右足を伸ばし、膝の上へ袋を置いていた。俺が入ると、その袋を横へ寄せる。
「手紙を、もらってもいいですか」
「はい。持ってきました」
上着の内側から油紙を出す。
渡してしまえば、俺が持つ用事は終わる。それだけなのに、封筒の角を彼女の手へ置くまで、妙に気を使った。こんな時に限って、折り目をつけて怒られるような紙ではないと分かっている。
エルナは宛名をなぞり、裏を返した。
紐で縫った上着の袖へ封を引っかけそうになり、指の位置を変える。いつも図を扱っている人なのに、開くまでに少し時間が掛かった。
「父の字です。急ぐと、ここがつながるんですけど。ちゃんと、いつも通りで」
俺は隣へ腰を下ろした。
彼女は紙を開き、最初は黙って読んだ。先へ進んだ目が戻り、口が少し動く。もう一度、同じ所を読んでから、俺の方を見た。
「声に出してもいいですか。一人で読んでいると、大事な所を読み飛ばしそうなので」
「聞いています。ゆっくりで、大丈夫です」
彼女が紙を持ち直した。
「『エルナ・クローネ様。役所の方から、あなたが地下に残されていると聞きました。私の娘だということも、家に残る書類で確かめました』」
そこで、指が止まった。
宛名を読んだ時の声とは違っていた。俺は返事をせず、彼女が次の行へ指を動かすのを待つ。
「『家には、あなたの部屋があります。測る道具も、書きかけの図もあります。棚の高さを直した私の書きつけも出てきました。けれど、それを頼まれた時の顔が思い浮かびません。あなたの声を、今は思い出せずにいます』」
小部屋の外で、誰かが椀を重ねた。
エルナはその音の方を向いたが、そちらへ行こうとはしなかった。紙を両手で押さえ、膝の上へ一度置く。
「父、普段は、こんな書き方をしない人なんです。仕事で出す手紙も、最初に用事を全部書いて。あとは帰りに油を買ってこいとか、そういう」
「その続きには、何て」
「……帰ってきてください、と」
彼女は紙を持ち上げた。
「『それでも、帰れるなら、家へ帰ってきてください。あなたの部屋はそのままにしてあります。食べられない物や、手伝ってほしいことがあれば教えてください。帰ってきたら、あなたから話を聞かせてもらえればと思います。アラン・クローネ』」
読み終えてから、彼女は紙の裏を見た。
裏には、何もなかった。
俺も、軍の報告を読んだ時には、お父さんなら、と思った。あの期待を、今ここで返すことはできない。手紙のどこかに思い出した一言があってほしいと、俺まで探しかけているのだから、何を言っても、少しずれそうだった。
「私の部屋、残っているそうです」
「はい」
「父も、そこにいるんですね」
「手紙を書いて、待っていると思います」
「帰って、知らない人を見る顔をされたら……私、何から話せばいいんでしょう」
彼女の指が、紙の角を強く押した。
初めまして、と言うのだろうか。俺には、そんな言葉を教えられなかった。俺の方には、もう二度と言えない帰宅の挨拶がある。それと、帰る家のある彼女の怖さを、一緒にするのも違う。
俺は膝の脇に置かれた袋を見た。
「その図の続きを、見せたらどうですか」
「地下の、ですか」
「棚を高くした人なら、机から図がはみ出す話はできると思います。俺の部屋なら、もう床にしか広げられません」
彼女は俺の顔を見て、紙へ目を落とした。
すぐに笑うような話ではなかったらしい。俺も、もう少し別の言い方ができなかったかと考えた。だが、彼女は袋を引き寄せ、口の紐をほどいた。
「帰る前に、描いておきたい所があります」
「どこですか」
「私を載せた車が、どこを通れたか。水場までの線は、もう使えませんから」
上着の青い鉛筆を取り、紙を広げる。
俺は座る位置をずらした。足を伸ばしたままなら、図を置く側にも広さが要る。彼女はそれを確かめ、最初に自分のいる部屋へ丸を描いた。
封筒は、渡した油紙へ自分で包み直した。俺の上着の内側からなくなった物が、彼女の袋の、いちばん奥へ入る。
*
配給室には、台の下へ納まる低い車が二つあった。
一つは車輪が外れ、もう一つも、最初はまともに動かなかった。ゲンと工兵が軸の泥を落とし、使える車輪を移すと、四つが揃って回るようになる。
そこへ回収した足場板と持参の金具を載せ、オルトが腰を下ろした。
軸が鳴り、俺たちは揃って車輪を見た。
「もっと軽い人から、試してもよかったのでは」
「途中で俺まで乗せる羽目になったら、困るだろう」
「そうならないようにしてほしいんですが」
「俺も、そのつもりだ。船の代金を、車の修理へ回したくはない」
左右へ少しずつ傾けても、板はずれなかった。
手当の兵が、負傷した工兵には今の担架を使い続け、エルナをこちらへ載せると決める。古い物をそのまま信用せず、角を曲がる時も、人の手を車の両側へ置くことになった。
俺は図へ車の幅を書いた。柱の車より短い。それだけで、候補にできる道が増えるのは、少し嬉しかった。
午後、トビと交代工兵、護衛が、奥の排水路を見に行った。
ゲンが持っていた二枚の図板には、水を街の外へ出す口が描かれている。水場へ戻る道とは違う。今も流れている細い水を追えば、外の斜面へ届くかもしれない。
その間に、俺とリオンは、弩の兵を連れて交換庫の見える窓まで戻った。道はまだつながっている。巨人が配給室へ来ていないことだけは、帰る前に確かめておきたかった。
白い胴は、また鉄の枠へ背をつけていた。
昨日、セラが落とした刃の腕の残りを、鉤が持ち上げている。俺は窓から一歩離れ、覗ける高さへ灯を置かないようにした。
空だった台の隣から、最後の腕が上がった。
長い刃のついた腕だった。胴の左へ差し込まれ、根元の輪が回ると、切られた所が見えなくなる。胸の黒い穴は、そのまま、こちらへ向いていた。
「これで、台は二つとも空ですね」
「ああ。新しい腕は、もう置いてない」
「まだ、どこかにあったら」
「見ていない所は分からない。だが、ここで使った二本は数えられる。見えた分を、上へ返そう」
リオンは弩を構えさせなかった。
あれを壊せば、もう一本もらうことになるのだろうか。そんな勘定を、巨人の方はしていない。俺たちは壊れた物を結び直し、同じ布を乾かして使っているのに、向こうは黙って腕を取り替える。
それでも、空になった台は戻らなかった。
俺は図の六を、今度は、空の台二つと一緒に書いた。
配給室へ戻った頃、トビたちも帰ってきた。
ズボンの膝が濡れていたが、顔には、出ていった時にはなかった明るさがある。
「外の光が、見えました。最後の柵は外から留めてあります。でも、笛を吹いたら返事が来たんです。軍の、同じ合図で」
彼は図の先へ、短い線を足した。
水が出ていく低い穴の脇に、人の立てる足場がある。上で曲がった先から外へ開いているが、柵の留め具は内側から届かない。向こうの兵もこちらの声を聞き、外から作業を始めると言ったらしい。
エルナが車の上から身を起こした。
「曲がる所は、どれくらいですか。床から天井と、足を回せる幅を知りたいです」
「戻る時に測った分なら、ここに。最後は立ったままでは上がれなくて、一度、膝を抱えるようにします」
彼女は図へ寸法を書き、固定した右足を見た。
すぐに帰れるとは、誰も言わなかった。
それでも、外から返事が来た。
俺は戸の隣へ新しい図を貼った。道の先を空白のままにして、明日、現物を確かめる場所へ丸をつける。
紙の外で、ようやく、俺たちを待つ人が動いていた。




