19話 出口が沈む
朝の光は、思っていたより白かった。
排水路の天井へ開いた穴から、土の匂いが下りてくる。昨日まで塞がっていた柵は外され、向こうで誰かが、まだ残っていた金具を叩いていた。
俺は顔を上げ、思わず息を深く吸った。
空気に、天井の味がしない。それだけで、もう半分くらい帰れた気がしてしまう。
「そこで立つな。頭が見えてるなら、上から砂も来るぞ」
ゲンに肩を押され、穴の脇へ寄った。
昨日、外の兵と話したのはトビたちだ。今日は配給室に怪我人二人と手当の兵、搬送兵、護衛の五人を残し、十人でここまで来た。俺はまだ、ここの曲がり方を見ていない。下へ灯を向け、壁の足掛けと、上で狭くなる所を確かめる。
穴へ近づく時はしゃがみ、途中で片脚を胸へ寄せて、身体を横へ向ける。トビが登るのを見ている分には、できそうだった。
次に、ゲンが細い板を渡した。エルナの固定した脚と同じ長さに、横木をつけた物だ。
トビがそれを回そうとすると、上の角へ先が当たった。
「もう少し立てれば、そっちへ」
「立てる所まではいく。けど、人の腰が入る場所がなくなるんだ」
板の向きを変えてもらう。
俺が両手で示しかけた幅へ、ゲンの手が入った。片方の壁へ背を預ければ板は動くが、その間、負傷した人の身体を支える者は、どこへ立つのか。
上から一人で引けばいいとも思った。だが、曲がる所で固定した足が引っかかり、先に身体だけが上がる。想像するだけで、俺の膝まで落ち着かなくなった。
「ロイ。そちらにいるのか」
外から、聞き覚えのある声がした。
ミラだった。俺は顔を上げ、穴の下から返事をする。
「います。エルナさんも救出しました。一昨日から、十五名で配給室にいます」
「よし。名前と怪我の状態を、こちらの兵へ渡してくれ。君たちの前の入口も調べているが、あの厚い戸は持ち上がらない」
「この穴、広げられませんか。二人、脚を固定していて」
「外から見える口より、奥が狭い。今の留め具は外せたが、壁を落とす作業は別になる。下の水も見ている。通れる者は先に出してほしい」
俺は図を見た。
紙なら、穴の両側へ線を一本ずつ足せばいい。実物の石は、その線の外で、人の立つ所まで支えている。セラに頼んで斬ってもらう、と口へ出す前に、上の砂が肩へ落ちてきた。
ゲンが板を下へ戻し、リオンへ首を振る。
彼は穴を見上げてから、無傷の交代工兵と、護衛の一人、それに搬送兵の一人を呼んだ。
「三人、先に出ろ。下の道と、運ぶ二人の状態を説明してくれ。受け取る場所へ、手を置いておいてほしい」
「隊長たちは」
「こちらは十二名になる。足が動かない者を連れて通れる道を探す。伝わる所までは、位置を返す」
工兵が、担架を持つ時の手の幅を確かめた。
搬送兵は、自分が外へ行けば、下へ残る同僚の手が一つ減ると分かっているのだろう。何か言いかけ、俺の図を受け取った。
「外でも、受ける手は要りますから。今度は、そっちで待っています」
「はい。曲がれない所を、ちゃんと伝えてください」
俺は余白へ、固定した脚の長さと、車の幅を書いた。
紙だけ先に外へ出すのは、妙な気分だった。なくしたくない線は、まだ俺の方にも残っている。だが、今は、図が届く先へ人も届いてほしかった。
三人が順に穴を抜ける。
最後の靴の底が見えなくなり、外から名前を呼ぶ声が一人ずつ返ってきた。地上へ出た。それを聞いただけで、俺の背中から少し力が抜ける。
入れ替わりに、縄で結んだ水袋と手当の包みが下りてきた。
*
配給室へ戻る道の途中には、上へ分かれる横道があった。
入口へ半分開いた厚い石戸が下がり、脇には大きな輪と、歯のついた鉄の棒が見える。昨日見た古図では、その先の線が欠けていた。下へ流れる水の道とは違って、床に車輪の跡が二本残っている。
ゲンは戸の下を通らず、まず外から枠を叩いた。
「次は、こっちを見る。人を連れて上がるなら、この幅は欲しい」
「戸が下りたら、後ろへ戻れなくなりますよね」
「だから、先に留める。あっちの低い穴へ、全員を詰まらせるよりいい」
俺は戸の手前まで歩き、石の段を踏んだ。
帰れる場所を一つ増やし、配給室へ戻る。トビもついてきて、穴を曲がれなかった板をエルナへ見せた。
彼女は横木の当たった所を確かめ、図へ小さく印を入れる。俺たちの顔を見るより、そちらを先にした。
「担架も、この車も、持ち上げて回す場所がないんですね」
「はい。一人なら出られました。三人、外へ行っています」
「それなら、そこはそのまま描いておきます。歩く人には、使える出口でしたから」
彼女は線を消さず、脇へ、脚を曲げる高さを書いた。
俺なら、外れだったと思って大きく斜線を引いたかもしれない。三人が上へ出た音を思い出し、鉛筆を引っ込める。使えなかったのは、今ここにいる人と荷だった。
水が、台の下へ入ってきた。
最初は、誰かが桶を倒したのかと思った。だが、食事の台の脚へ当たって左右に分かれた流れが、止まらない。奥の戸で、付き添いの護衛が外を覗き、声を上げた。
「水路の板が上がった! 巨人が鎖を引いている!」
俺は灯を取り、リオンと戸の所へ戻った。
通路の細い窓から見える大水路で、白い胴が持ち上がっていた。上の二本の腕が鎖を引き、足が壁へ掛かっている。その鎖の先で、水を止めていた大きな板まで上がっていた。
門を開けようとしているのか、ただ、こちらへ登るために引いたのか。
どちらにしても、水はこちらへ来た。
「トビ、五人を横道へ。今のうちに担架を上げろ。ゲン、戸を落とさない支えを先に」
「行きます!」
トビが走り、オルトも車を引くために部屋へ戻った。俺は水の中へ倒れた板を脇へ寄せた。
赤い灯が、壁でこちらへ向きを変える。弩を置く兵が石の台を探し、リオンはそこへ右手を添えた。矢が光った灯を貫き、反対の壁へ刺さる。
巨人の白い頭は、こっちを向いたままだった。
もう、姿を見られている。灯がなくなったことだけを、盾にはできなかった。
俺は横道の段から角までを、自分の足で通った。
水はまだ靴の底へ触れるくらいだ。段を上がれば、車を曲げる幅もある。戻って伝えようとした時、配給室の戸から、エルナを載せた車が出てきた。
搬送兵と護衛が工兵の担架を持ち、手当の兵が脇へつく。トビは車を押し、オルトが前を引いていた。二人の怪我人も、付き添っていた兵も、こちらへ来た。俺は人の顔を順に確かめ、足元へ灯を落とした。
「こっちです。段へ上がる所だけ、車輪を持ち上げてください」
窓の外から、白い掌が差し込まれた。
古い柵を掴み、壁の一部を引き剥がす。俺は車の横から角へ戻り、こちらを見るトビへ、壁から離れろと声を出した。今いた所へ石が落ち、車の後ろの荷へぶつかった。
水袋をまとめていた縄が、崩れた柵の下へ引かれる。
トビがそれを外そうと屈んだ時、足元に広がった縄の輪が、流れで彼の靴へ巻きついた。車を支える右手が離れ、身体が横へ持っていかれる。
「荷を放して!」
俺は角から歩いて戻り、右手で彼の上着を掴んだ。肩へ重さが掛かり、左腕が勝手に動きかけたが、そこへ預ける前に、トビが腰の刃を抜いた。
縄が切れた。
袋が水へ滑り、車の脇の張りが緩む。彼は靴から輪を外し、流れた方へ手を伸ばさず、エルナの車へ戻った。
俺も袖を放す。ここで二人して倒れたら、搬送する側へ戻れなくなるところだった。
「食料も、入ってました」
「人は、乗ってません。車を、先へお願いします」
息を整えながら言うと、トビが一度頷いた。
巨人の刃が、壊れた窓の上を通った。窓枠へ引っかかった腕を下げた拍子に、肘が欠けた壁の高さまで近づく。
セラは壁の残った側へ身体を寄せ、通り過ぎた刃の後ろへ出る。白い光が一振りで腕の囲いを割り、もう一度返った剣が、その奥へ食い込んだ。
切れた刃が、水路へ落ちた。
彼女が斬ったのは、昨日からついていた方ではない。最初から残っていた、巨人の右の刃だった。残る一本は、向こうの肩の下で、またこちらへ上がっている。
セラは追わなかった。
剣を引いて後ろへ下がった時、右の腿の布が赤く染まり、歩幅が一つ小さくなった。俺は先に段へ戻って場所を空け、彼女がそこへ足を置くまで灯を向けていた。
「手を貸しますか」
「肩だけ。足は、自分で出す」
「はい。右から、ゆっくりで」
右の肩を寄せると、彼女は左手を載せた。二人で上がる間も、剣は巨人のいる側へ向いている。
下では、敷石が浮き始めていた。
水が入るだけではない。壁を引かれ、石を受けていた台の端がずれている。俺がさっき通った足場が、一枚ずつ暗い所へ傾いていった。
石戸をくぐった内側まで上がり、セラの手を離す。リオンと弩の兵が最後の段を越えたあと、低い道へ水がまとまって走った。
朝の光が見えた穴は、向こうにある。
そこへ続いていた足場は、もう水の下だった。
俺は十二人の顔を確かめた。
工兵は担架の上で、エルナは車の上で息をしている。トビの膝も動き、セラは壁へ背をつけたまま、剣を下ろしていなかった。
戻れる角を探しても、そこへ通った道が残っていない。
俺が灯を下げた時、目の前へ、別の白い指が入ってきた。
巨人の左下の掌が、横道の石戸を掴んだ。




