17話 迎えに来ました
机の向こうから伸びた手へ、俺はすぐに手を出しかけた。
その下で、床の隙間を灯が照らしている。もう一歩入れば届く気がしたが、ゲンの腕が戸口を塞いだ。手を伸ばしたいのは、俺も同じだった。それでも、先に落ちるわけにはいかない。
俺は敷居の外へ膝をつき、右手を見える所へ置いた。
「迎えに来ました。板を掛けるので、もう少しだけ、そこで待っていてください」
「はい。……すみません。声が近くなったら、急に」
「俺もです。そこの隙間、見えてなかったら入ってました」
エルナが口元を押さえた。笑おうとしたのかもしれないが、喉から出たのは、短い息だった。
食堂で紙を広げていた時より、顔が細く見える。暗い部屋で待つ間、俺の方は、どうしてもあの時の顔を思い浮かべていた。今、目の前にいる彼女は、机を離すことにも勇気が要る人だった。
ゲンが幅のある板を二枚、戸の前へ重ねた。
柱の車に積んであった、足場用の新しい板だ。古い床へ端を載せず、支えた鉄の枠へ掛け、もう片方を廊下の石へ留める。縄は、廊下の丈夫な柱へ回してあった。
トビがその縄の先につけた帯を差し出す。俺は右手で受け取り、板の上を膝で少しずつ進んだ。
立って歩くより、ずっと遅い。だが、戻る時の重さを考えれば、立ち上がりたいとは思えなかった。戸口の石を意識する。俺だけなら、今も戻れる。
その向こうへ彼女の手を置くまでが、仕事だった。
「その帯を、腰へ回せますか。結ぶ所はトビさんが見ます。俺の腕を引くより、そちらへ体重を預けてください」
「ロイさんの左の腕も、怪我をしていますよね」
「右なら大丈夫です。二本とも丈夫なら、もう少し格好をつけられたんですが」
「それなら、今の方が安心です。私を抱えて立とうとされたら、止められるか分からないので」
確かに、片腕が痛くなければ、試したくなっていたかもしれない。
帯を回し終えた彼女へ、左の膝を置く所を示す。右足を引きずると床の縁へ当たるので、先に足首の下へ布を通し、戸口の護衛に持ってもらった。俺は右肩を貸し、帯を張ったトビと速さを合わせる。
彼女が机を離した。
板へ触れた左手が滑り、俺の上着を掴む。体重が肩へ掛かったが、引っ張り返さず、戸口の方へ膝を動かした。
「足は持っています。顔を上げなくていいので、手の方だけ見てください」
護衛の声がした。エルナは返事をし、板の上へ左膝を進める。
部屋の奥で、机が動いた。
誰も触れていないのに脚が滑り、床の裂け目へ斜めに寄ってくる。彼女が手を戻しかけたので、俺は肩を少しだけ前へ出した。
「こっちです。机は、持っていけません」
「違います。袋が、机の下に」
「俺が取る。先に身体を出せ」
ゲンが戸口から棒を伸ばした。
机の脚へ引っかかっていた紐を外し、袋を板の横へ寄せる。俺たちは待たずに進んだ。袋と一緒に身体を運ぶより、空いた手で一度ずつ進む方が早い。
肩に掛かる重さが増えた所で、外の柱が鳴った。
戸の向こうにいた工兵が、下から何か叫んでいる。ゲンが返事をし、板の根元へ身体を寄せた。俺には下の金具は見えない。ただ、敷居の手前の隙間が、さっきより少し広がっている。
「右の柱は残ってる! 板から降りるな、そのまま来い!」
今さら部屋へ帰る気はなかった。
エルナの左手を敷居へ移し、右肩をもう一度貸す。トビが帯を引くのと一緒に、彼女の腰が枠を越えた。足を持つ護衛が後ろへ下がり、最後に、包まれた右の足先が戸の外へ出る。
俺も板から廊下へ膝を移した。
誰かが俺の背中を掴み、柱の側へ引いてくれる。灯が揺れ、外の空気を吸った時、ようやく、目の前に人が増えたことが分かった。
エルナが、俺たちと同じ床へ座っていた。
少しの間、誰も次の道具を持ってこなかった。
トビが帯を緩め、護衛が足の下の布を直す。その横へ、ゲンが袋を置いた。底に粉はついていたが、口の紐は切れていない。
彼女は袋へ手を置き、それから、俺の袖を掴んだままだったことに気づいたらしい。
「……出られたんですね」
「はい。今は、俺たちと同じ廊下です」
「本当に、来てもらえたんですね」
俺は頷いたが、すぐには声が出なかった。
呼ばれたら返事をする。それだけのことを、あの管へ顔を寄せて何度しただろう。今度は、返事が聞こえなくなる心配をしなくていい距離だった。
戸の外から、セラがこちらを見ていた。
彼女は剣を下げ、エルナの顔を確かめると、口を開いた。
「セラ・アストリアだ。管で話したことは、全部覚えている」
「エルナ・クローネです。……私の方は、最初にご一緒した時のことも覚えています」
「ああ。私には、そちらはまだ戻らない。でも、今の君は見えている」
エルナは目を伏せ、すぐに上げ直した。
「はい。私も、今のセラさんにお礼を言いたいです。来てくださって、ありがとうございます」
「礼は外でもう一度、聞かせてくれ。ここでは長く座らせられない」
セラの言葉で、遠くの鎖の音が戻ってきた。
戸口に護衛を残し、ゲンと工兵が下から道具を回収する。二本の長い柱は残すと決めた。抜けば箱が傾き、俺たちの通る廊下まで引かれるかもしれない。
使わなかった短い継ぎ管二本と工具は、ゲンがまとめた。俺は柱を残した場所を図へ丸で記し、彼女の袋を右の肩へ掛けた。
*
下の通路では、リオンが弩のそばから離れずに待っていた。
エルナが護衛の肩を借りて角を曲がると、彼は右手で弩を支える兵の肩を叩き、それから、身体の向きを変えた。
「リオン・ハルフォード。今は、下にいる隊の指揮をしている。君を含めて十五人、ここから出す」
「測量官のエルナ・クローネです。動かない方がいい場所を、図へ書きました。まだ、袋に――」
「あとで見せてくれ。まずは足を診てもらおう」
言い終わる前に、オルトが空になった柱の車を寄せてきた。
そこへ残りの板を渡し、畳んだ上着と布を重ねる。エルナを載せる時は、オルトが持ち上げるのではなく、護衛と工兵が左右を受けた。彼は車の先を押さえ、傾かないようにしている。
「オルト・ランドールだ。揺れたら遠慮なく言ってくれ。俺の舟よりは、ましに押すつもりだが」
「舟に、乗っていらっしゃるんですか」
「まだ買ってない。これからだ。だから、比較する相手も文句を言わん」
彼女の息に、少しだけ声が混じった。
オルトがそれを聞いて車を引き、俺は車輪の横へ灯を下げる。腕を一本失った巨人は、崩れた広場を回っている。こちらの鉄戸へ、無理に胴を押し込んではこなかった。
それでも、あの白い肩が見える間は、足を止めたくなかった。
配給室の戸を越えた時、待っていた工兵が上体を起こした。
手当の兵が車へ寄り、エルナの足を見たあと、彼の方へ振り返る。
「場所を少し借りる。君の足は、こっちの人が見ているから」
「俺は平気です。新しい布なら、まだ箱にあります」
搬送兵が毛布を退け、エルナを食事の台の脇へ移した。車から降りたあとも、足首へ重さを掛けないように、両側から身体を支える。
布を外すと、右の足首は左より太くなっていた。俺は見続けるのをやめ、袋を彼女の枕元へ置いた。医療の仕事まで眺めていても、邪魔になるだけだ。
上着の内側には、まだ封筒がある。
今なら渡せると思った。だが、彼女の手は台の縁を掴んだままだった。手紙を持つための手を空けてもらうのは、ここでなくてもいい。
「読める所まで、持っていてもらえますか」
「……はい。濡れていません。ここにあります」
訊かれたことが分かって、上着の上から胸へ触れた。彼女はそれを見て頷き、手当の兵へ顔を戻した。
リオンは、配給室から水場へ通じる道を、もう一度確かめさせた。
負傷した二人はこの部屋へ置き、点検路を歩ける者で上へ報告する。人の名前も、柱を残した場所も、今のうちに外へ渡したかった。トビが車へ空の水袋を載せ、俺も写しを持ってあとを追う。
給水路の二つ目の角で、車輪が妙な音を立てた。
石の道だと思っていた所へ、長方形の鉄板がある。柱を運んだ時にも、その上を渡った。今は壁際に隙間ができ、鉄板の端から、水が落ちている。
「トビさん、車を止めてください」
声を掛けた時、足元から大きな音がした。
鉄板の片側が下がる。トビが車を引いたが、前の車輪は戻ってこなかった。俺は彼の腕ではなく、上着の背を右手で掴み、石の角へ一緒に下がった。
車が鼻先から傾いた。
壁の溝を何かが滑り、鉄板ごと暗い水へ落ちる。飛沫が顔へ当たり、向こうの通路へ灯が転がっていった。
床だと思っていた物には、上下に動くための車輪がついていた。
さっきまで、踏めば帰れる道だった。
今は、手前の石へしか足が戻らない。水場の戸へ続く向こう岸は、灯の先に残っている。だが、六歩はあった床が一度に落ち、壁にも手を掛ける所がない。持っている板を渡しても、向こうの縁には届かなかった。
トビが俺の袖を掴み返した。
俺たちは顔を見合わせ、配給室へ戻った。リオンが報告を聞く間、エルナは台のそばから、こちらを見ている。
俺は図を広げた。ようやく彼女のいる所から、みんなのいる所までつながった線へ、今度は別の切れ目を入れる。
「水場への道が落ちました。上へ報告する点検路まで、行けません」
配給室には、外へ報告する者も、返事を待つ者も、十五人全員が揃っていた。
その戸から帰るための線は、どれも、途中で切れていた。




