15話 ここには暮らしがあった
水場の戸を、石が叩く音は聞こえなくなっていた。
代わりに遠い鎖が鳴り、そのたびに天井の埃が落ちてくる。護衛が角から見たところ、巨人は広場の奥へ引き揚げたらしい。ここの壁を諦めたのか、ほかに見つけた物があったのか。俺たちには、まだそこまで分からない。
分かっているのは、外へ出られる道が細すぎることと、柱を二組、部屋の下へ運ばなくてはならないことだ。
ゲンは桶の並ぶ壁を叩き、奥の大きな戸を調べていた。上の細道と違って幅はあるが、下半分が錆びて固まり、押してもびくともしない。
「ここは、斬ってもいいんだな」
「壁が受けてる。蝶番の横だけだ。先に下を少し開けるから、水が来たら止めてくれ」
ゲンが隙間へ灯を当てた。乾いている。細い棒を入れて向こうを探ったあと、セラへ場所を譲った。
白い光が、戸の留め金を上から下へ走る。外れた板を工兵と護衛が縄で引き、寝かせると、二人並べるくらいの道が現れた。
頭の高さには太い管が並び、左側を浅い水が流れている。歩くための石の足場は右側で、壁に沿って少しずつ下っていた。
この広さなら、柱を短く分ければ運べる。
俺は戸をまたいで、最初の角まで歩いた。床へ灯を下げ、段差と割れ目を確かめる。誰かを載せるつもりで幅を見ると、さっき通った細道とは、同じ一本の線に描けなかった。
「こっちから、部屋の下へ回れるかもしれません。少なくとも、上でつかえた角より広いです」
部屋へ顔を戻して言うと、負傷した工兵が少しだけ上体を起こした。
「俺はここで待てる。柱は、車から下ろせば運べるようになってる。留め具の袋だけ、なくさないでくれ」
「袋は俺が持ってる。お前の柱も、勝手に違う長さにはしねえよ」
ゲンが腰を叩くと、工兵は握っていた手をほどいた。
リオンは水と布を数え、手当の兵と搬送の二人、護衛を一人、負傷した工兵のそばへ残した。五人が待つ場所から声が届く範囲で、まず次の広い部屋を探す。先へ行くのは九人だ。手ぶらの者が戻って伝え、物を運ぶ者は、そのあとにする。
俺は上着の内側を確かめた。手紙の油紙は乾いている。水へ入るなら別の人へ預けるつもりだったが、今の高さなら、胸へ飛沫が届くこともなさそうだ。
*
管の通る道は、角を二つ回った所で、広い建物の裏へ出た。
最初に見えたのは長い台だった。石の天板に丸い穴が幾つも開き、下には底の深い鍋が納まっている。並んだ台の向こうに、食堂のような椅子と机が続いていた。
俺は台へ寄り、紙を覆っている透明な板を拭いた。水の垢で見えにくかったが、その下には、何本もの欄と細かい文字が残っている。
古図で覚えた字に似ていた。全部は読めなくても、水、朝、六人、と拾える所がある。一番下には、食器を戻す場所の絵が添えてあった。
「食事を出していたんでしょうか。六人分、というのが、こっちにもあります」
「部屋ごとの人数かもしれんな。台の向こうで並び、皿を受け取っていたんだろう」
オルトは盾を壁へ立て、机の間を覗いた。椅子は小さい。鎧のままでは座れないと分かったのか、少し残念そうに、腰を伸ばす。
俺は欄の端を追った。六人だった所へ、違う色で五と書き足してある。その横の行は、二が三へ変わっていた。食べる人数が、毎日、同じではなかったのだ。
ここを歩いた人にも、腹が減る朝があった。
鎖の音が聞こえない時間には、皿を並べ、順番を待っていたのかもしれない。そんな当たり前のことが、あの白い巨人を見たあとでは、ひどく遠い話に思えた。
台の向こうから、トビが俺を呼ぶ。
「ロイさん、こっちに図があります。水場の裏、ちゃんと描いてありますよ」
行こうとして、すぐ隣の戸の内側が見えた。
寝床が四つあった。二つは上下に重ねられ、残る二つは壁際へ並んでいる。大人の幅の毛布に、小さい毛布を足した跡がある。入口の柱には、短い横線と、背丈らしい数字が幾つも刻まれていた。
上の階段のそばでも、同じような寝床と背丈の線を見た。あの辺りだけではなかったのだ。食事を出す広間の隣にも、背が伸びるまで暮らした跡がある。この街のあちこちから、子供たちがあの台へ皿を持って並んでいたのかもしれない。
寝床の脇には、木を削った小さな家が置かれていた。屋根だけ色が剥げ、窓を描いた線はまだ残っている。
「誰かが、取りに戻るつもりだったんでしょうか」
訊いてから、答えられる人はいないと気づいた。オルトは戸の外で止まり、木の家を見た。
「それなら、置いておこう。持ち主を調べる奴が来た時、場所まで残っている方がいい」
「何か、書いていった方がいいですか。今も、人がいると間違えないように」
「今の俺たちの通った印は、外でつけよう。そいつの家まで、塗り替えることはない」
俺は入口の外へ小さな丸を描き、寝床には触らず、トビの所へ戻った。
壁の図は、今いる大きな部屋を中心に、幾つもの戸と道を描いていた。食事の台の脇に細い水の線が入り、その先に、昨日俺が描いた箱に似た四角がある。
ゲンが自分の図を重ねた。戸の向き、水の来る側、低くなっている床。部屋の下へ行く道が、配給の部屋の奥から続いていた。
俺は鉛筆を出し、水場から続く道を写し始めた。視線が横へ流れたのは、その時だった。図のさらに向こうには、大きな門の絵がある。そこから外れた線は、建物を出たあとも続き、山の印を二つ越えて、別の街へつながっていた。
続きが、ある。
俺が町の店で探していた古図は、階段の下で切れていた。その下に街があり、今度はその街から、まだ遠くへ道が延びている。紙を継ぎ足せば、どこまで描けるのだろう。
先に、門の方を見てしまった。
「あれを使えたら、外へ出られませんか」
「動いているか分からんぞ。向こうがどこかも、今の字だけでは読めねえ」
ゲンの言う通りだったが、見ないまま諦めたくはなかった。門はすぐ隣の広間にあり、護衛が床を確かめてから、俺たちも入口まで進む。
荷車が二台並んでも通れそうな石枠だった。足元には車輪の擦れた跡があり、その間に、子供でも踏める低い段がある。左の壁へ並んだ札の一つだけは、俺にも読めた。
他市行き。
奥は、石の壁で塞がれている。枠の隅に埋まった透明な丸は割れ、下には崩れた欠片が積もっていた。
「巡礼堂の門より、ずっと遠くへ出られたんでしょうか」
「別の街と、物をやり取りしていたらしい。ここの食事も、そうやって届いていたのかもしれん」
リオンが門の脇へ立った。何かを押すでもなく、持ち上げた灯で、壁の傷を確かめている。
俺はあの低い段を見た。兵だけが通った物ではなさそうだ。手をつないで、ここから出ていった人もいたのだろう。
今、エルナを町へ帰すには、柱を運び、床を支え、歩けない足を誰かが持たなくてはならない。昔の人は、この段を一つ越えるだけで、別の街へ行けたのかもしれなかった。
羨ましいと思った。それから、こんなに広い街を残して使えなくなった理由を考え、途中でやめた。俺の知っている図の端は、この枠までだった。
門の方へ描きかけた線に短く、閉、と書き添え、配給室へ戻る。
使える道の続きを先に描く。残りも、また見に来たかった。
*
配給室の奥の道は、荷を運べる幅があった。
オルトが壁へ立てていた盾を持ち直し、俺たちも道具を取った。
ゲンと工兵が低い天井を叩き、弱っている石の下へ短い支えを入れる。その間にトビが水場へ戻り、負傷した人を移す先が見つかったと知らせた。
給水路の裏を通れば、狭い点検口を曲がらずに、ここまで担架を運べる。上への大通りは閉じたままだが、巨人のいる戸の近くから、寝かせる場所を離せるだけでも違った。
トビが、担架を移す用意ができたと知らせて戻ってくる。俺たちは先へ進み、壁に細長い窓のある通路へ出た。窓の向こうは大きな空洞で、鉄の台や、頭上から下がる鎖が見える。対面の高い所には、外の広場へ通じる口があった。
床の真ん中を歩きかけたセラが止まった。
鎖が動いている。
俺も窓より手前で足を止め、後ろへ合図した。灯は壁の陰へ下げる。窓の端から見えた白い肩の高さで、向こうの床がずっと低いことが分かった。
巨人が、台の間へ立っていた。
五本の腕を広げ、背中を高い鉄の枠へ押し当てている。右の下には、あの踊り場で斬られた腕の残りがあった。
その上から、大きな鉤が下りてきた。
「下がれ。窓へ顔を並べるな」
リオンが小さく言った。俺は角の石まで戻り、そこから一人ずつ見られるよう、場所を空けた。
鉤が壊れた腕の残りを掴む。根元の輪が回り、白い殻の間が開くと、金属の擦れる音を立てて、腕が胴から外れた。
床へ落ちた残りは、それだけでも俺より大きかった。
別の鎖が動いた。横の台から、新しい腕が持ち上がる。指のある掌と、折れ曲がった肘。細い鉄の管が胴の穴へ向けて並び、鎖が少しずつそれを押し込んでいく。
「……取り替えてるんですか」
「見た通りだ。切られた所を、別の物へ替えている」
セラが窓の縁を握った。
俺は新しい掌が動くまで見てしまった。一昨日、ようやく一本落とした腕だ。それが元へ戻る。セラも、オルトも、リオンも、傷を残したままここまで来たのに。
新しい掌の指が、床の近くで順番に開いた。
頭上の鎖へ二本、左右へ刃のついた物が二本、その下へ、大きな掌が二つ揃っている。
俺は暗い所でもう一度数え、図板の端へ六と書いた。数字だけなら、最初へ戻すのは簡単だった。
「ロイ。横の台を見てくれ」
リオンに言われ、俺は腕が吊られてきた方へ目を移した。
二つの長い台があった。手前は空で、留め具の跡だけが白く残っている。奥には、もう一本、白い腕が横たわっていた。
床へ落とされた壊れた腕は、片づけられず、そのままだ。腕を持ち上げていた鎖は、空になった台へ戻って止まった。
巨人が身体を起こし、胸をこちらへ向けた。
黒い穴が見えた。リオンの矢が開けた囲いは割れたままで、その上へ新しい板が載ることもなかった。
「胸の傷は、塞がってないですね」
「ああ。腕だけ戻った。そこは、分けて覚えておこう」
リオンは、声を大きくしなかった。勝てるとも、もう無理だとも言わず、見えた物を隣へ渡す。
俺は空の台と、残った腕の位置を紙の端へ描いた。持っていく物を増やさずに残せるところは、俺にもある。
背後で、ゲンが壁の隅を指した。通路の先に低い鉄戸があり、その下の隙間から、水が細く流れている。
「向こうの台が、エルナの部屋の真下だ。こっちから柱を入れられる。戻って運ぶぞ」
戸へ寄り、俺は小さい穴から向こうを照らした。斜めの鉄の床。その下に張り出した金具。昨日の図で見たものが、今度は下から見えている。
足を置く台もある。柱を二本立てる場所が、ちゃんと、そこにあった。
俺は紙の線をつなぎ、顔を上げた。
白い胴が、鉄の枠から離れている。新しい掌が、広場へ続く口の鎖を掴んだ。
その出口は、俺たちが今見つけた台の、すぐ向こうだった。
六本に戻った巨人が、エルナのいる方へ歩き出した。




