12話 見られている道
「戻ろう。まだ気づかれていないうちに」
セラに肩を押され、俺は坂の手前まで下がった。倉庫の太い柱へ背中を寄せると、向こう岸にいた巨人が見えなくなる。見えなくなっただけで、いなくなったわけではない。分かっているのに、俺の頭は早くも、ここなら少しくらい図を広げられるのでは、と考え始めていた。
さっき見た街の道が、目を閉じても残っている。水路へ向かう坂、家の間を渡る橋、大きな門。どこへ通じるか分からない線を前にして、鉛筆を出さずにいられる人は、ほかに何を楽しみに生きているのだろう。
俺は袋へ手を入れかけ、代わりに水を取った。まず、生きてこの図を持ち帰るところからだった。
「いましたね」
「右の下の腕がない。昨日と同じものだ」
「こっちへ来ますか」
「動き始めたら分かる。あの大きさなら、鎖も足場も使わずには渡れない」
セラは柱から半分だけ顔を出していた。俺も少し覗く。白い胴は水路の向こうの建物へ移り、二本の腕で高い所の鎖を掴んでいる。胸には黒い穴が残り、その下の右側は、腕の付け根だけが空いていた。
壊した所は壊れたままだ。それを確かめて、今度は本当に息がつけた。昨日のあれが無傷で待っていたら、俺たちが逃げてきたことまで、夢だった気がしそうだった。
後ろから、板と道具の袋を載せた小さな車が来た。ゲンへ巨人の位置を伝えると、彼は交代の工兵を一人、倉庫の上へ戻した。八人で下りてきたうち、一人が連絡のために入口との間を歩く。残る七人も広い坂へ並ばず、壁の後ろへ分かれた。
「昨日、リオンさんが赤い灯を壊したあと、刃がそれましたよね。あれで俺たちの場所が分かるんでしょうか」
「そうかもしれない。だが、こちらも動いていた。灯のせいかは、まだ確かめていない」
セラが剣の鞘で、通りの壁を示した。
窓より低い位置へ、小さな丸い物が幾つも埋めてある。赤く光っている物もあれば、囲いが割れたままの物もあった。街の明かりだと思った一つが、こちらへゆっくり向きを変える。
あれ、灯の方が動くのか。
俺は柱の陰へ引っ込んだ。赤い光が入口の床をなぞり、俺たちの靴の少し先で止まる。
「魔力を追ってるんじゃないか。昨日の報告じゃ、三人が力を使ったあとに来たんだろう」
護衛の一人が小声で言った。セラはすぐには頷かなかったが、俺はちょっとだけ、その考えに惹かれた。強い魔力へ寄ってくるなら、英雄が別の所へ行っている間に、俺たちが歩けるかもしれない。
ただ、それを試す役が誰になるかまで考えると、急に信用したくなくなる。力の弱い者から順に並べたら、先頭が俺でも、おかしくなさそうだった。
「人を出す前に、車を動かせませんか。魔力を使わないで、灯も載せずに」
「下ろしてきた小さい方なら使える。だが、壊されるぞ」
「俺を出しても、そこは同じでしょう」
「車なら、その後の報告までお前に頼めるな。トビ、縄を長く取れ」
ゲンは資材を運んだ二輪の車から袋を下ろし、車輪へ挟んであった木を抜いた。トビが後ろへ縄を結び、柱の陰から少しずつ坂へ押し出す。俺は触らず、赤い灯の向きを見ていた。
空の車が坂を下り始めると、壁の丸い囲いが回った。
車に合わせて、赤い筋が道を横切る。その先で、もう一つ灯が点いた。最初の灯の前へ柱を挟んでも、二つ目は車の進む方へ向き直っている。
「止めてください」
トビが縄を留めた。二つの赤い光も止まったが、消えはしない。車輪を少し引き戻すと、今度は隣の建物の下で、三つ目が同じ方を向いた。
こっちの魔力が立派かどうかは、あまり関係なさそうだった。
水路の向こうで、鎖が鳴る。白い頭が車の方へ回り、上の二本の腕に力が入った。足が屋根を離れ、身体が水路の上へせり出してくる。
「引け。車もこっちへ」
ゲンとトビが縄を引き、車を柱の裏へ滑り込ませた。すぐあとで遠い屋根が潰れ、白い足が対岸の低い道へ下りた。まだ水路の向こうだが、先ほどよりずっと近い。
俺は顔を引っ込めたまま、赤い光が追ってこないか足元を見た。筋は倉庫の口で左右へ動き、それ以上は入ってこない。
「見失ったんですか」
「少なくとも、今はここまで来ていない。だからといって、同じ所から顔を出すなよ」
セラは俺を後ろへ下げ、ゲンへ場所を譲った。
車が隠れた瞬間、三つ目の灯は違う道へ向いたらしい。一つをそらせば終わり、という具合にはいかない。昨日も俺たちが角を曲がるたび、別の灯が巨人へ教えていたのかもしれなかった。
だとしたら、暗いから安心、という道の選び方はやめた方がいい。俺は目を凝らし、通りの左側に、屋根の低い通路があるのを見つけた。石のひさしが道へ張り出し、その奥は壁の灯から隠れている。
「あそこなら、壁に沿って行けそうです。角を一つずつ見ます。セラさんは、俺より前へ出ないでください」
「追いついてしまいそうなら、呼ぶ」
「その時は待ってます。置いていくつもりで速くなるわけじゃないので」
「分かっている。昨日も、あなたの方から戻ってきただろう」
そう言われると、先に帰るのが得意です、と自分で言っていたのは、少し説明が足りなかった気がした。
俺は柱の裏から二つ先の角まで歩き、ひさしを見上げた。下から顔を出さなければ、正面の灯には見られずに済みそうだ。戻る床へ荷を置かないよう頼み、右手で壁へ触れながら、その先へ進む。
最初の戸口には誰もいない。次の家の壁に、割れた赤い囲いがある。動く方は道の反対側で、窓の下をゆっくり見回していた。
軒先の切れ目が六歩ほど続いている。そこを渡れば、もっと奥の角へ隠れられる。俺は手前の敷石へ両足を載せ、床が沈まないのを確かめた。
渡り切れると思った。だが、向こうの灯が窓から道へ向きを変えた時、俺の靴へ赤い線が触れた。
考え直す暇を使わず、角の敷石へ戻る。
右の靴底が石を打ち、胸に留めた灯が跳ねた。先ほど俺がいた所へ、赤い光が細く集まっている。セラの剣が抜かれかけたので、俺は右手を振った。
「来てません。見られただけです。今の道は、続けて渡らない方がいい」
「戻った所には届くか?」
「ここは見えていないと思います。でも、向こうから来たら別です」
息を整え、もう一度、自分の足でひさしの奥へ進んだ。さっき戻った先の道を、頭の中で残しておけばいいわけではない。今度は切れ目の手前で止まり、家の裏へ通じる小さな戸口を覗く。
隣の角まで、壁を抜ける細い廊下が続いていた。戸は外れて床へ倒れている。奥を照らしてから通り、出口の石を踏むと、通りを横切らずに同じ場所へ出られた。
戻った時、トビはもう壁へ小さな印をつけていた。俺は自分が通ったのはどちらかを伝え、七人で一軒ずつ、その裏を進んだ。
少し奥の広い部屋で止まるまで、巨人の姿は見えなかった。代わりに壁の向こうから、水の流れる音が聞こえてくる。低い台と空の桶が並び、隅には、上で見たものに似た通話管の口があった。
トビが低い棚の下へ灯を寄せ、小さな戸を見つけた。隙間では埃が動き、向こうから風が来ているらしい。ただ、人が一人ずつ通るくらいの幅だ。彼はその位置を図の端へ書き込み、俺たちはひとまず、広い部屋で荷を下ろした。
*
夕方になる前に、連絡へ戻した工兵が追いついてきた。
リオンからは、道の図を最初の倉庫へ返し、次の指示が来るまでは水場で待つようにと伝言があった。工兵は次の班へ渡すための紙と、乾いた食べ物、それに俺の名前が書かれた包みを持っている。
「王都へ出した便が戻ったそうです。ミラさんから、本人へ渡す前に濡らさないでくれと」
細い紐をほどくと、折った軍の紙と、小さな封筒が出てきた。封筒の裏にアラン・クローネ、その下には、王都の南の外壁近くの住所がある。エルナが自分で書いてくれたものと同じだった。
俺は軍の紙を開いた。家も、父親も見つかった。そこまでは、望んでいた返事だ。
その先を読んだところで、封筒を持つ手が止まった。
「父親も、思い出せないそうです。家には、その人の部屋と道具があるのに」
工兵は低い声で言った。俺が目を止めた所を、上でも同じように読んだのだろう。セラも隣へ来たが、覗き込まず、紙を見下ろす俺の顔を待っていた。
軍の報告には、父親が机の引き出しから娘の手紙を出したことが記されていた。部屋の鍵は父が持っていた。名前も住所も、紙に書かれたものと合っている。それでも、いつ一緒に食事をしたか訊かれると、答えられなかったらしい。
「封筒は、本人宛てだろう。中は、開けないで持っていこう」
「……はい。俺が読む手紙ではないですから」
セラに答え、報告を折り直した。
父親なら覚えていてほしいと、昨日、住所を渡した時には思っていた。返事を聞くのが怖かったのに、どこかで、家まで連れていけばどうにかなると期待していたのだ。その家から、いまの報告が届いた。
それでも、手紙はあった。
封の端が少し斜めに折れていて、書いたあと何度も指で押さえた跡がある。表に書かれたエルナの名を見て、俺はもう一枚、乾いた布を出した。報告と封筒を分け、手紙の方を油紙でくるみ、上着の内側へしまう。
俺は描いた道の図を工兵へ預け、窓の位置も確かめたいと、上への返事を頼んだ。彼が戻るまでは、七人で水場の部屋に留まり、乾いた食べ物を分けた。
遠くの水音に、鎖を引く音が重なった。
図を届けた工兵が戻ると、窓と戸の位置を確かめる所まではよいと、リオンの返事を伝えた。巨人が水路を越えてこちら側へ来たら、すぐに引く。セラとゲンもそれを聞き、八人が揃った所で、次に見る場所を決めた。
今夜はどこまで近づけるだろう。俺は管の口の埃を払い、封筒の宛名と同じ人を呼んだ。
「エルナさん。ロイです。今、あなたのいる街まで来ています」




