11話 街が埋まっている
朝、目を開けた時には、右の靴が机に載っていた。
軍の医療の係が足を確かめたあと、泥だらけの物を寝床の近くへ戻したくなかったらしい。縫い目の切れた爪先に、昨日の石の粉が詰まっている。昼には地図を買うつもりでいたのに、夜までに腕の皮を裂いて帰ってきたのだから、俺の予定の立て方はあまり当てにならない。
寝床の端へ腰掛けると、左前腕の包帯の下が引っ張られた。傷へ当てた布は白いままだが、腕を回せば痛む。昨日は走ることしか考えていなかった。寝て少し落ち着くと、荷を持つ時に傷へ触れずに済むかが、急に気になってくる。
「その包帯は自分で外さないで。動かせるか見ますから、指先を見せてください」
係が椅子を寄せた。
俺は言われたとおりに左手を開き、指を一本ずつ動かした。動く。動いたから安心して握りそうになると、その腕で重い物を持つ許可は出していない、と先に言われた。
「道を歩くのは、いいですか」
「腕の傷だけなら歩けます。ただ、走ってぶつけるような所へは行かないでください。昨日はどうやって、その傷をつけたんです」
俺は返事を選んだ。
巨人に襲われて、と言えば、そんな場所へ戻るなと言われるに決まっている。別の道を確かめに行くだけです、と言えば、半分は本当だ。でも、そっちの道へあいつが来ない保証もなかった。
「昨日とは違う入口を、工兵と護衛と一緒に見に行きます。最初は、上の荷物用の階段です。腕を使う所へ入るつもりはありません」
「つもりで終わらせないで。布を替えられる人が同行すること、血が止まらなくなったら下がること。その条件で、隊へ伝えます」
係は左腕の包帯を替え、布と、傷を洗うための水の扱いを説明した。俺は眠いふりをせずに聞いた。これを軍の人へ任せきりにしたら、俺がどこで動けなくなったか、自分では分からなくなりそうだった。
セラは隣の待機所で、腿に巻いた布を確かめてもらっていた。立ったまま腰を曲げられるが、深くしゃがむと顔が強張る。医療の係は、今日は走るための足ではない、と彼女にも言った。
昨日、扉まで俺を引いてくれた人が、足を持ち上げる動作を一つずつ確かめている。今度も同じように助けてもらうつもりでいたら、俺が彼女を止まれない場所へ連れていくことになる。
「荷物用の入口までなら、私も行く。昨日の巨人が出たら、戦わず引く。そこの判断を遅らせないために、見える場所にいたい」
セラが俺を見て言った。
俺がまだ何も訊いていないのに条件まで説明するのは、昨日のあの踊り場から続いている話なのだろう。剣の手入れを済ませたから、もう一度勝ちに行ける、という顔ではなかった。
「階段が通れたら、下も少し見たいです。でも、下りる人数を増やす前に、戻れる所を決めます。昨日みたいな曲がり角の先へ、先に出ません」
「それなら行こう。あなたが前を見ている間、私は後ろを見られる」
セラは膝を伸ばし、ゆっくり立った。俺も歩幅を合わせて、軍の机へ向かった。
ミラは前夜の報告を、山の図へ書き込んでいた。俺たちが出た横穴には小さな丸があり、三人の兵が見張りについた印もある。どこまで分かっているかが一枚に載ると、昨日の道が、ただ怖かった場所から、もう使えない道へ変わって見えた。
リオンは机の隣に座り、左腕を昨日より太い布で固定していた。オルトは医療の係が肩へ布を巻く間、盾に触るのを止められている。強い三人をもう一度揃えれば済むと思えたのは、まだ怪我をして帰るところを見ていなかった頃の俺だ。
「上の確認は軍の救難に切り替える。昨夜、工務局へも伝令を出した。君に引き受けてもらった初動の捜索とは別だ」
リオンが机の紙をこちらへ向けた。
エルナの名は、救難の対象の欄にある。行方の分からない人という書き方ではなく、通話できていること、足を傷めていること、食料と水が限られることが続いていた。
「上の通話所には交代の兵を置いてある。今朝も、本人から声が返った。水は出るが、部屋の戸は開かないそうだ」
ミラが報告の紙を添えた。昨夜、戻ったことを兵から伝えてもらった。別の入口を調べるまで待ってほしいと。朝になっても俺はまだ地上で紙を見ているのだから、向こうはずいぶん待たされた気がしているだろう。次に話す時は、ここまで行けたと、見た道を伝えたかった。あとどれだけ待てばいいかも言えずに、待ってくれと頼むのは苦しい。
「今日から、下へ届く方法を探す。工兵と護衛の費用、道具の消耗は軍が持つ。君の待機と道の確認も、続けた日数で払う。危険があるから、普通の案内とは分ける」
「見ていない道を、使えると約束はできません。歩いて確かめるところまでで、その先へ誰を入れるかは、俺一人で決めないようにしたいです」
「そうしてくれ。今日の入口確認で通れないと分かったら、そこで止める。期限を越える前にも、もう一度、本人の状態と手段を見直す。戻る人間を決めず、下へ増やし続けることはしない」
ミラが受け入れの机と待機所を指した。交代する工兵、傷の手当をする兵、入口の見張りも紙へ分けてある。エルナを連れ出す人間だけ集めればいいのだと、俺は昨日まで思っていた。帰ってきた側が血を流していたら、運ぶ車も水も、同じ日に要る。
俺は期間と支払う日を確かめ、右手で名前を書いた。昨日の初動捜索の承認も添えてあるので、知らない間に、その四枚だけで何日も待つ仕事へ変えられることはなかった。
ミラから継続分の前金を十枚受け取る。机の上に並べられると、銀貨は昨日と同じ物に見えるのに、何に使うかは変わっていた。紙の棚へ回す前に、腕の布と、足を守る物を揃えなくてはならない。
「補給の方で靴を替えられますか。俺のは、ここへ来る前に縫い目が切れていて」
「替えた方がいいね。代金は私の判断では引けないけど、寸法が合う在庫を見てもらおう」
ミラが近くの兵を呼んだ。
俺は借り物をもらうつもりで手を出さず、三枚を払って新しい靴を受け取った。古い方を捨てるのは少し惜しいが、いまは爪先の穴へ石が入るたびに止まれない。革の硬い継ぎ目を足に合わせ、ひもを締める。足を浮かせて底を確かめると、切れた爪先をかばわず立てることが、思ったより嬉しかった。
*
荷物用の入口は、巡礼堂の西側にあった。
前線所から続く道を上がり、白い柱の下を回ると、斜面へ埋まった大きな扉が見える。人の入口より幅があり、その前の地面には、車輪が通ったと思える二本の浅い溝が残っていた。昨日の階段とは、岩の厚い壁を挟んだ反対側だ。
工兵が落ちた石を退かし、戸の前へ支柱を置く。ゲンは留め金の位置を指し、交代で来た二人へ押す場所を教えていた。トビは新しい灯を受け取り、予備まで腰へ掛ける。
今度は一つ落としても暗くならないようにしたらしい。俺も小さい方を一つ預かり、傷のない胸元へ留めた。
リオンは上の平らな場所へ弩を据え、昨日の兵へ装填を任せている。今日は入口の近くに留まり、交代する兵の判断をミラへつなぐ役だ。オルトは前線所に残った。運び出す場所を塞ぐ大きな石を、肩を使わず動かす方法について、工兵と話していた。
俺とセラ、ゲンとトビ、交代の工兵二人と護衛二人。下へ入るのは八人だ。
「まだ奥まで進まない。最初の広い床で止まり、入口との連絡を確かめる。灯だけでは間違えるから、声が届く人も途中に残す」
ゲンが図の最初の角を指した。
俺もそこまでを覚え、戸の向こうへ入った。上からの光が背中へ当たり、目が慣れるまで石の段が黒く見える。足で確かめると、一段が低く、幅も昨日の点検路の何倍かあった。歩いて下りる側と、荷を滑らせたらしい平たい斜面が、並んで続いている。
灯を先へ向けると、斜面の途中に四角い物が止まっていた。
古い荷台だ。車輪が半分外れ、後ろから落ちた石に押されて傾いている。あれを動かしたら、下にいる人へ落ちていくかもしれない。俺は荷台の下へ先に入らず、工兵が下側に木を噛ませるのを待った。
「昨日の道は、一人通れるかを先に見た。こっちは、荷を持った人が止まれる場所も見たいんです」
「なら、この角だな。台が落ちないよう留めたら、二人並んで待てる。入口からここまで、一便ずつ通そう」
ゲンが俺の灯を借り、壁の石を照らした。
その横に、人型の小さな機械が座っている。先に金属の足が見え、俺は一歩下がった。胸へ埋まった赤い囲いは割れ、片腕の手首がない。近づいたからといって必ず動くわけではないが、止まっているから安全だとも思えない。
護衛の一人が長い棒で足を押し、もう一人が盾を前へ置いた。機械は傾き、背中の奥から歯車が一度だけ鳴った。
肩が動く。
俺は角の上へ戻り、声を出そうとした。同時にセラが下り、機械の伸びかけた腕へ剣を合わせる。彼女は深く踏み込まず、刃を石の壁側へ押し流した。護衛がその足を棒で止めると、二度目の斬撃が胸の継ぎ目へ入り、薄い鉄板が開いた。
機械は、腕を伸ばしたまま動かなくなった。
昨日の巨人の手とは違う。セラの剣はこれくらいの物なら、ちゃんと届く。俺はその当たり前を見て、なぜか少しほっとしてしまったが、彼女は剣を抜くと右足を引き、壁へ背を寄せた。
「この一体で終わりか、まだ見えない。私の足が動くうちに、次の床を見て」
俺は頷き、護衛が機械を道の脇へ寄せるのを待った。ゲンが借りた灯を俺の胸元へ戻してくれたので、もう一度、角の先へ向ける。
さっきの斬り方なら、一体は倒せる。次が三体だったら、その次にもいたら、セラの足はいつまで動くだろう。昨日のあいつへ勝てなくても、俺よりずっと強いことは分かっている。だから余計に、彼女が剣を下げるところを俺から訊きにくかった。戸へ逃げる道を、先に見ておく方がまだできそうだ。
最初の広い床で、八人が止まった。
上の入口へ声を送り、リオンの返事が二人の兵を通って戻る。俺は下の段から戻るならここで止まると、壁際の石を指した。トビがそこへ白い印をつけ、時刻と位置を書く。誰かが魔法で道を伸ばしてくれたわけではない。俺の靴で歩いた段が、入口まで繋がっている。その先へ進めるのは、ここまでの道がまだ残っているうちだけだ。
この下は、古図には搬送場と書かれていた。
普通なら広い倉庫か、荷車を止める床があるのだろう。俺は図の線を見直し、下りの最後へ灯を向けた。奥から風が上がってくる。石壁の間だけで冷えていた空気とは違い、遠い水の匂いが混じっていた。
セラを待ち、二人で角を曲がった。
そこから先は、屋根のない広い坂だった。
いや、上に何もないわけではない。灯を持ち上げても届かないほど高い所に、岩の天井がある。その下に、建物が並んでいた。
石の道が坂の先で何本にも分かれ、道の両側に、窓のある家が重なっている。崩れた屋根を越えて、赤い灯の点いた通りが、何度も曲がりながら奥へ続いていた。昨日、管理口から覗いた灯は、その一本の端だったのだ。
俺は灯を少し下げた。
家と家の間には橋がある。道を横切る太い水路があり、その上に、大きな石枠が三つ並んでいる。前線所で三人の英雄が出てきた門より、ずっと高い。枠の真ん中は暗く、一つは根元から折れていた。
門へ向かう道の広さを、俺は目で追った。あそこを使えば、人だけではなく車も通れる。昔の図に搬送場と書いた人は、入口の倉庫だけを見ていたのではないのかもしれない。
何本もの道を、いっぺんに紙へ描きたくなった。
今すぐ図を広げて、右手の鉛筆で、せめて見えている角だけでも残したかった。俺の買った紙の線は、ここへ下りる手前で切れている。その先が、こんなに続いていた。
「あの人の部屋は、どこにあるんだろう」
セラの声で、俺は坂の下へ顔を戻した。
屋根の数が多すぎて、保護室の四角い箱を捜すことさえできない。エルナが言っていた街灯の列も、ここからならいくつも見える。灯があるというだけでは、近くへ行く道を選べなかった。
俺は下りた段を振り返り、入口へ戻れる曲がり角を確かめた。先に行けば、もっとよく見える場所があるかもしれない。そう思って足を動かしかけたところで、頭上から鎖の音が届く。
街の向こうで、赤い灯が順に点いた。
黒い水路を挟んだ反対側の屋根の上に、白い巨人が立っていた。




