09話 俺だけなら帰れる
鉄の扉は左後ろにある。ほんの数歩だ。そこまで行けば、岩の中を通る細い道へ逃げ込める。
俺は戸の脇に置いた灯を右手で拾い、取っ手を腰の留め具へ掛けた。左腕は胸へ寄せておく。狭い戸口へ傷をぶつけたくなかった。
さっきまで、この近さを見て安心していた。何が出てきたって、あの三人と一緒なら戻れるだろうと思っていたのだ。それなのに、戸までの床がもう半分ない。
「扉へ! 前を見るな、足元を見ろ!」
セラは剣を引き、俺と工兵の二人を戸へ押し戻した。足を置くたび、腿から落ちた血が革の裾を濡らしている。それでも先に逃げるつもりはないらしい。
巨人の掌が下から上がり、踊り場の縁を掴んだ。床が傾く。俺は後ろへ飛び退いたつもりで左腕を壁にぶつけ、痛みで何も分からなくなった。
「ロイ、奥まで行って! 戸の前を空けて!」
上着を引かれ、戸の内側へ押し込まれる。その勢いで二、三歩進んでから振り返ると、ゲンとトビに続いて兵が入ってきた。抱えた弩の片側をリオンが支えている。まだ外に残っているのは、オルトとセラだ。
オルトの盾の向こうで鎖が鳴った。巨人が白い胴を引き上げ、俺たちと同じ高さへ来ようとしている。腕を一本斬られたのに、あの重さを腕だけで持ち上げるのか。
「盾を寄せてください。戸を閉めます!」
ゲンが扉の裏の棒を引き、オルトが盾を引きずって下がる。最後にセラが飛び込んできたが、閉まりかけた隙間へ白い指が入り込んだ。
指先だけで俺の腕ほど太い。セラが継ぎ目へ剣を入れ、白い殻を割っても、中の黒い金属が戸を掴んだままだった。俺は落ちてくる石の粉を避けて下がったが、オルトは逆に前へ出る。
「俺が押す。金具を掛けろ!」
傷めた左腕を胸へ寄せ、右肩と脚で盾ごと戸を押した。指が外へ滑った隙にゲンが棒を掛け、トビの下ろした支柱を斜めに差し込む。
トビは槌の一打目を外した。床を打った音に本人までびくりとして、俺もつられて外を見そうになる。
「金具を見ろ。俺の手より下だ」
ゲンが支柱を押さえ直す。次の一打で楔が入り、ようやく戸が止まった。もう一本は使わず壁へ立てたまま、ゲンは俺たちへ手を振った。
「それで何秒か持つ。ここには残るな!」
言い終わる頃には、扉が内側へ膨れていた。盾の上を押されるだけなら、まだ何とかなったかもしれない。だが、巨人は戸も周りの石壁も、まとめて壊そうとしていた。支柱を受ける金具が曲がり、頭のすぐ横で石が割れる。
オルトが盾を外すと、リオンがその身体へ肩を入れた。吊った左腕が背に触れた途端、彼まで顔をしかめる。兵が弩を背負い、すぐ二人の間へ入った。
「離せ、俺は歩ける。盾の方を頼む」
オルトの言葉を受け、兵が盾の下端を持つ。返事は扉を打つ音にかき消され、俺は先へ走った。
大人が二人並べば肩がぶつかるくらいの通路だが、曲がり角の手前までは戻れる。入る時に自分で確かめた石を思い浮かべると、右の壁にある赤い灯が目の前へ来た。そこから先を見て、振り返る。
七人ともいる。
もう少し上の保守台まで俺だけならすぐ戻れる。先に灯を置いておけばいい。そう思ったのに、こっちへ来る六人を見たら足が止まった。
トビが灯を抱え、ゲンが背を押している。リオンと兵は盾を引きずり、オルトは壁から手を離せない。最後のセラが歩いた所には、間を置いて赤い跡が残った。
俺の戻る速さに、誰もついてこない。
能力で一緒に連れていけたら、と何度も思ったことはある。薬草採りを背負って坂を上がる時も、荷車の車輪が泥にはまった時も、そういう力なら楽だったのにと。いまほど、できないことが腹立たしかったことはない。
「ここは段が高いです。いったん灯を俺に――」
トビへ声を掛けた時、後ろから重い音がした。あの扉だと分かる。転がる石と一緒に粉が流れ込んできて、灯を渡しかけたトビが振り向いた。
足が段を踏み外す。落ちた灯で通路の半分が暗くなり、俺は帰り足で数歩手前へ戻った。
倒れてくるトビの上着を右手で掴み、肩を入れて壁際へ引く。胸が背に当たって二人とも崩れたが、通路を塞ぐ前に彼の膝を床へ下ろせた。
袖からまた血が出ている。逃げる間は忘れていたのに、熱いものが腕を伝ったら、さっきの痛みまで戻ってきた。トビは起こせても、俺がすぐに立てない。
「立てるか。膝をついたままじゃ、もう一度踏まれるぞ」
ゲンがトビの襟を掴む。俺にも手を出しかけたが、濡れた袖を見て上着の背を掴み、引き起こしてくれた。
立ち上がったトビは灯を拾おうとする。囲いが割れ、光が半分隠れていた。暗い道であれまでなくしたくないのは分かる。俺も放っておくつもりはなかったが、また頭の上で石が鳴った。
「こっちを使え。壊れた方は置く!」
ゲンが腰の小さな灯を外して渡す。トビが受け取ったのを見て俺も立ち、深く息を吸いかけて粉を咳き込んだ。
扉の方が明るくなる。
白い掌が、通路へ入り込んでいた。指で床を探り、横の壁を掴むと、押し破った穴をさらに広げていく。あんな狭い所へ胴は入らないはずだ。
入れないなら、入れるように壊すのか。
俺は曲がり角の先へ逃げ込んだ。戻りたい場所はもっと上にあるが、立て続けに帰り足を使えば息が苦しくなる。誰もいない所へ先に着いて倒れてしまっては、道を照らすどころじゃない。
「この先で右です。壁の内側へ寄って、立ち止まらないでください!」
「ロイ、それを押さえろ。縛るのは台へ出てからだ」
傷へ手を当てている俺を見て、ゲンが短い布を投げてよこした。柱を締めるための布だが、いまは何でもありがたい。押さえれば痛いし、緩めれば濡れるので、痛い方を我慢することにした。
角を曲がると、保守台へ上がる階段がある。トビを先へ通し、俺は壁へ寄って、盾を運ぶ人たちに道を譲った。足元を見ずに下がるのが怖い。俺が転んで全員を止めるなんて、さっきトビを助けた意味がなくなる。
上がった先には保守台の灯が見えた。来る時は道具を広げるのにちょうどいいと思ったのに、今はその広さが邪魔だ。次の階段まで、どうしても台を横切らなくてはならない。
向こうは街へ続く縦穴で、目の前に張られた鎖が揺れていた。
「そっちへ出るな!」
セラの声に、俺は壁の内側へ飛び込んだ。出そうになっていた足の先を白い刃が横切り、削られた石が頬と首に当たる。巨人は外側の鎖へ移り、下から腕を差し込んでいた。
ここにも赤い灯がある。俺たちの場所を、あれが教えているのだろうか。確かめてはいないが、このまま台へ出る気にはなれない。
「あの灯、壊してもいいですか。壁についてる、赤い方です!」
「踏み込むな。兵、右の金具へ据えろ」
リオンに言われ、兵が通路の口へ弩を下ろした。持ち帰った金具で石の上へ支え、リオンが右手で向きを変える。
あんな小さな的に、矢が惜しくないのだろうか。俺がそう思う間に、彼は赤い灯を射抜いていた。囲いごと壁から落ち、暗くなった台の奥へ巨人の刃が突き立つ。
俺たちから少しそれた。灯を壊したせいか、ただ狙いを外したのかは分からない。どちらでも、いまなら行ける。
「今、階段へ行け!」
兵が弩と金具を背負い直し、ゲンと一緒に盾の下端を支える。オルトが壁際へ盾を動かすと、セラもその陰を進んで俺たちへ手を振った。
壁の角も階段の入口も、来る時に歩いた。帰り足ならすぐ着くはずだ。そう言い聞かせても、俺はあの刃が通った所へ足を出せない。台へ出た途端、道ごと掴まれたらどうする。
考えているうちに盾が遠くなった。傷へ当てた布を握るばかりの俺へ、セラがもう一度叫ぶ。
「ロイ! 階段はまだある。そっちを見て!」
俺は盾の内側へ出た。
白い掌が上端を掴もうとするが、オルトが盾を傾けて滑らせる。ゲンが足を支え、リオンが最後の兵を壁際へ引き寄せた。俺とトビが階段へ上がると、セラも踊り場の入口まで下がってくる。
七人、いる。
声に出して数えようとしたら、舌が乾いて名前が続かなかった。トビを先へ行かせ、俺も二段上へ足を置く。この先の曲がり角まで戻り、次の灯を見せればいい。
その前に、頭上で金属が鳴った。
巨人が外の鎖を横へ引き、階段を支える太い棒を壁から剥がしている。壊れるのは少し上の段だ。俺はトビの背を引いた。
階段が下へ折れ、灯のついた踊り場ごと縦穴へ落ちる。風が顔を撫で、そのあとから石の雨が上がってきた。
さっきまで、俺だけなら帰れた場所だ。
その足場が、なくなった。




