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第三十九章:それが私の歌

 幕の向こう側から声が聞こえる。

 朱里さんに向けられたたくさんの声援。

 一部の生徒が悪ノリで「アンコール」と叫んでいる。

 それに続く多くの声。

 もちろん、ルール上再登場するわけにはいかない。

 この異様な盛り上がりは、次に登場する私たちにとって完全アウェー。

 今みんなが求めているのは、私たちではなく朱里さんだ。


「準備、お願いします」


 実行委員である女子生徒が、出番を促す。

 出なきゃいけないと分かってはいるが、震えた足は上がらない。


「く……」


 絶対に負けないと決意したはずなのに、前に出るのを身体が拒む。

 騒ぎ立てる生徒に、先生たちが「静かにしなさい」と軽く注意する声が聞こえる。


「行かなきゃ……」


 顔から熱が引き、貧血の時のように頭がボーッとする。

 何とかよろよろと前に出るが、数歩進んだところで、身体は止まった。


「優子ちゃん……」


 結弦くんがこちらに近づいて、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 どんな状況だって、やることは変わらない。

 私は無理やり笑顔を浮かべて、顔を上げる。


「だ、大丈夫だから……」


 強がってはみるが、コンディションは最悪だった。

 全身の震えは止まらないし、熱が引いた顔は、たぶん青ざめている。

 それでも、出ないわけにはいかない。

 今日のために、私たちは頑張ってきたのだ。

 たとえ求められていなくても、何もせずに引き下がるわけにはいかない。


「行こう、結弦くん……」


 胸の中では心臓が暴れるように動き、背中には嫌な汗が流れてくる。

 私は前に進むしかない。

 本当は、すごく怖い――

 幕が開いた瞬間向けられるのは、きっとがっかりした視線。

 この外から聞こえる声に、私たちは応えられない。


「すみません、時間が決められているので」


 準備室に取り付けられた時計を気にしながら、実行委員の子が再度告げる。


「優子ちゃん」


 その声を掻き消すかのように、結弦くんが声を上げた。

 彼は手にしていたエフェクターを床に置き、肩に掛けていたギターを背中に回す。

 先生に注意されたせいか、外の声が少しずつ静かになっていく。

 薄暗い舞台袖で、私たちは向かい合う。

 結弦くんが、一歩こちらへ近づいた。

 その瞬間、辺りの音がぴたりと止んだ。

 私たちと、実行委員の子が一人いるだけの空間。


「ごめんね」

「え……?」


 結弦くんはそう言って、私の体に両手を回す。

 そのまま、力強く彼に引っ張られる。

 視界が塞がれ、抱き寄せられたのだと気付いた。


「あ……」


 結弦くんの手が腰に回され、左手は私の頭に置かれている。

 全身を優しく包むような感触。

 彼の胸元に顔を埋めるような態勢になっていた。

 鼻孔をくすぐる、ベルガモットの香り。

 手を当てられた頭と腰から熱を感じ、緊張と汗で冷え切った身体が温かくなる。


「大丈夫、大丈夫だから」


 頭上から聞こえる、囁くような優しい声。

 私は驚きながらも、彼の胸に顔を寄せる。

 お気に入りの枕に、顔を押し付けたような心地よさ。

 それはたぶん、一瞬のできごと。


「特別なことはしなくてもいい、ありのままの君が一番だ」


 子供をあやすように、よしよしと動かされる手が、こそばゆい。

 目を細める――

 胸の奥でうるさく暴れ回っていた鼓動が、少しずつ落ちていく。

 代わりに、どくどくと別の音が耳に響いた。


「結弦くんの、鼓動が聞こえる……」


 頬を寄せると、胸の奥で心臓が脈打っているのが分かる。


「うん、ぼくも緊張してるから」


 その言葉は、意外だった。

 いつも楽しそうにしている結弦くんは、そういう感情とは無縁だと思っていた。

 だけど確かに耳には、早鐘を打つ心臓の音が伝わってくる。

 まるで私の緊張を吸収しているかのように、身体のこわばりが解けていく。

 冷たかった顔にも、熱が戻ってきた。

 今はむしろ、熱いくらいだ。


「んー……」


 思い切って、声を漏らしながら頬ずりする。

 それで、心はほわッと軽くなった。

 手を広げて、ハグし返したい衝動に駆られるけど、我慢する。

 できればこうやって、また甘えたいな。

 そう思いながら、ゆっくりと結弦くんから離れる。

 二人顔を合わせて、照れたように笑い合った。


「い、急いでくださいぃ……!!」


 顔を赤くして、声を裏返す実行委員の女の子。

 そこで、とんでもないことをしてしまったことに気付き、顔が一気に熱くなる。

 でも、あの嫌な感情を吹き飛ばすには、ちょうどいい。


「行こう、優子ちゃん」


 足元のエフェクターを拾い上げる結弦くんに、頷く。

 私たちは駆け足で舞台へと飛び出した。

 結弦くんはアンプまで移動し、ギターをセッティングする。

 私はスタンドマイクの前まで走り、手前に引き寄せた。

 調整ノブを回して高さを調整し、マイクの角度を口元に合わせる。

 いや、いっそマイクは手に持った方がいいのかもしれない。

 そう考え、ホルダーからマイクを取り外し、両手で持つ。

 振り返ると、結弦くんは繋いだエフェクターを足元に設置していた。

 コードが繋がったギターのストラップを肩に掛ける。

 そのまま、一弦ずつ音を鳴らしていく。

 スピーカーから流れるのは綺麗な音。チューニングはばっちりのようだ。

 結弦くんは声を上げる代わりに、右手を上げて親指と人差し指で円を作り、OKサインを掲げる。

 私はそれに頷いて、真正面を向いた。


「よし……」


 小さく呟いて、息を吐く。

 まだ閉じられたままの幕。

 向こう側から聞こえていた音は、すっかり静まり返っていた。

 状況は、良いとは言えない。

 朱里さんたちの歌によって、最高の盛り上がりを見せたライブ。

 だけど今、先生たちによって注意され気分は落ちている。

 観客がアンコールを望んでいる中、登場する私たちは完全に不利だ。

 実行委員の子がこちらの様子を確認し、幕を上げるためのボタンを押す。

 ステージと観客席を遮る幕が上がっていく。

 少しずつ、露わになる向こう側の様子。

 照明が落とされた体育館の中に、千二百人以上の生徒が床に座っている。

 その奥に設置された保護者席は満員で、二百人以上の人がいる。

 一斉に向けられる視線。

 だけどそれは、冷めきっているのが分かった。

 自分たちが期待していたアイドルはおらず、代わりに現れたのは地味な女の子。

 結弦くんたちのクラスの子が、何人か驚いた様子を見せる。

 でも、他の人には彼が女装男子とは分からないだろう。

 視線を上げると、お父さんが心配そうな顔をしているのが見えた。

 誰も私たちに期待していない。


「すぅ……」


 息を吸う。

 しっかりと目を開けて、その状況を受け止める。

 私は朱里さんのようなアイドルにはなれない。

 どこにでもいる、後ろ向きでネガティブな陰キャだ。

 そんな私が、この場所に立てている。

 ちらりと、結弦くんへと振り返る。

 彼は言ってくれた。

 ありのままの君が一番だと。

 嬉しかった。

 こんな私を認めてくれたことが――

 私にはキラキラと輝くような可愛さはない。

 私の中にあるのは、鬱屈とした思い。

 それを誤魔化すように、歌に込めて吐き出してきた。

 そんな後ろ向きな行動に、心を動かされたと言ってくれた人がいる。

 ならば……

 私の中にある全ての思いを、ありのままにぶつけよう。

 向けられる白けた視線と、憐れみを含んだ視線。

 朱里さんがかわいいという、輝くような感情で歌うのなら……

 私は、苦しいというどろどろとした気持ちを、吐き出すように歌う。

 それが、私の歌だ――

 手に持ったマイクをぎゅっと握りしめ、顔を上げる。

 こちらを照らすスポットライト。

 光に当てられ、私はきっと睨みつけるように、前方を見据えた。

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