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第三十四章:入道雲が浮かぶ夏の日

 夏休みは順調に過ぎていく。

 午前中は補習のために学校に行き、夕方からはライブの練習のためにスタジオに向かう。

 家に帰ったら課題があるので、また勉強。

 ハードなスケジュールではあるが、充実していてとても楽しい。

 ベッドに入ると、何も考えることなく眠りについてしまう。

 鬱屈した気持ちを頭の中に巡らせて、苦しみながら寝落ちしていた時とは違う。

 驚くほど爽やかな寝心地。

 起きてからも「やるぞ」という気持ちが湧いてくる。

 学校に行く時間は普段と変わらないので、起きて居間に行くと、お父さんとお母さんがいる。

 身支度をしてから朝食をとるためにテーブルに着く。

 ある日、お母さんがこう言った。


「優子、なんだか明るくなったわね」


 焼いた食パンを手にして、こちらを見るお母さんの言葉にハッとする。

 いつもはこれから勉強ということを考えると、憂鬱だった。

 でも、最近は補習を受けるのが苦じゃない。


「うん、毎日が楽しいから」


 グラスに入った冷たいコーヒーを口にして、笑顔で答える。

 放課後に楽しみが待っているからというのもあるけど、勉強を苦痛に感じないのは不思議な気持ちだ。

 成績を下げない理由ができて、意識が変わったからかもしれない。


「やっぱり、女の子は恋すると変わるのね」


 お母さんが言った言葉に、隣でコーンスープを飲んでいたお父さんが突然むせる。

 口を押さえて咳き込みながら、涙目でこちらを見てきた。


「優子……不純異性交遊はだめだからな。そもそも、学生の時に付き合うということ自体が……」

「だから、そういうのじゃないから!!」


 二人に向かって、声を上げる。

 恥ずかしさを誤魔化すため、バターを塗ったトーストを口に押し込む。

 否定はしたものの、相手を意識しているのは紛れもない事実。

 陰キャでそういうものとは縁遠かった私には、よく分からない気持ちではあるけど……。

 最近鏡を見るたび「そろそろ美容室に行ってこようかな」とは思う。

 心がふわふわと浮遊するような気持ち。

 それでも、地面をしっかりと踏みしめて、毎日を過ごしている。




 夕方になりスタジオにやってくる。

 結弦くんは先に来ており、扉を開けると真ん中に置いた机に向かっていた。


「結弦くん、こんにちは」

「うん、こんにちは」


 真剣な表情でノートパソコンの画面を見ている。

 どうやらDTMソフトに音符を入力しているらしい。

 音源を聞いて、ベース音を聞き取り、コードを特定する。

 時折、メロディを確認するため、横に置いたキーボードを演奏していた。

 コードやスケールなどの音楽理論が身に付いているのか、それはとても順調に見える。


「二人しかいないから、足りない音は音源を渡してスピーカーから流してもらうしかないね」


 パソコンを操作しながら声を上げる結弦くんは、とても知的に見える。


「ドラムはお母さんが収録してくれるって」

「え? 結弦くんのお母さんってドラムできるの?」

「楽器は一通りできるよ。元バンドマンだしね」


 その言葉に、スーツ姿でドラムを叩くお母さんの姿を想像する。

 見かけはとても格好いいし、様になっているように思えた。

 お母さんはどうやら音楽制作会社を運営しているようで、そのオフィスがこのビルにあるらしい。

 スタジオはインディーズはもちろん、メジャー品質のレコーディングや音楽制作をサポートするために作ったようだ。

 プロデュースもやっているとのことだった。

 結弦くんは、音楽に溢れる環境で努力してきたようだ。


「よし、一回合わせてみようか」

「うん」


 しばらく作業をしてから、セッションする。

 机を端に寄せて、スタンドマイクを立てて、音源をスピーカーから流す。

 『TUBASA』はいきなり歌声から始まる。

 伴奏が流れないので、歌い出しを合わせるのは難しい。

 それでも、もう何度も合わせているので、タイミングがずれることはほとんどなかった。

 静かな歌い出しと共に、それに合わせギターのバッキングが入る。

 歌詞の母音を伸ばすロングトーンと共に、ギターのストロークが増え、曲は激しく変調した。

 この入りは、何度やってもテンションが上がる。

 とりあえずは曲を通しで歌い、その後は探り探りワンコーラスを続けるのが定番になっている。


「優子ちゃん、本番ではガテラルボイスもやるんだよね?」

「もちろん」


 伴奏に入る前と、サビの途中にある叫び。

 喉の奥から空気を絞り出すような、いわゆるデスボイスというやつだ。

 下水道ボイスとも呼ばれる、排水溝が詰まったような「ゴヴォゴヴォ」という音。

 初めて聞いた時は、機械で声を編集して鳴らしているのかと思っていた。

 なにせ『TUBASA』を歌っている如月有海はアイドルだ。

 きらきらとした輝かしいイメージがある存在が、そんなグロテスクな声を出すとは思えなかった。

 しかし、ちゃんと地声で出しているらしい。

 本人の配信で見たので間違いない。

 それに衝撃を受けてから、私はガテラルを練習した。

 最初は空気が抜けるように、うまく声が出なかったし、出せてもふざけているようにしか聞こえなかった。

 デスボイスにはグロウルと呼ばれるものもあるが、発声の仕方が違う。

 喉を潰しやすいので、水分を摂りながら短時間やるのが良いが、最初は見事に喉を枯らしてしまった。


「じゃあ、あらかじめ収録せずに、生声でお願いします!! きっとみんな驚くと思うよ」

「了解!! 少し不安ではあるけど……」


 歌詞の途中にガテラルが入るので、失敗したら声が出ない可能性もある。

 でも、ステージであの叫びができたら気持ちいいはずだ。

 喉を潰さない程度に慣れておかなければならない。


「うんうん、良い感じに仕上がってきたね。ぼくはもう少しアレンジしてみるけど」

「すごいね……」


 本来は二人で音を重ねる部分も、結弦くんはアレンジして一人で弾こうとする。

 あらかじめ収録して音源として流すこともできるけど、そこは本人のこだわりなのだろう。

 私としても、ギターの生音が聞ける方がテンションが上がる。

 こんな感じで、順調に文化祭に向けて準備を進めていく。

 こんなに真剣に音楽に取り組むのは初めてのこと。

 それがとにかく楽しい。

 勉強を終えて学校を出る時は、いつも心が躍っていた。

 一つだけ懸念があるとしたら、朱里さんのこと。

 あれから、連絡は一度もない。

 朱里さんのことだ、このまま素直に引き下がるとは思えないし、何かしら考えがあるのだと思う。

 補習には一度も参加していないし、なんなら登校日にも来ていない。

 狭い町なので、一度駅前でその姿を見かけことはある。

 相変わらず流行のファッションに身を包み、その傍らには男の人が立っていた。

 朱里さんが言う『ピ』でも『ピッピ』でもない人。

 どうやら、夏休みを満喫しているようだ。

 お盆の前には、ライブに参加する人たちのミーティングと、リハーサルがある。

 そこで、顔を合わせることになるのだろうか。

 そう思っていたのだけど、結局その日にも朱里さんは現れなかった。

 ただ不思議なのは、ちゃんと出席扱いになっていたこと。

 私たちの演奏は仕上がってはいるけど、相手のパフォーマンスが見えないのは不気味だ。

 胸が高鳴るような毎日と、少しの不安。

 私たちの夏は少しずつ過ぎていく。

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