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第三十章:高すぎる壁を超えるには

 その日の夜、私は早速両親に話があると切り出した。

 「夏期講習について」と言ったら、夜に時間を取ってくれるということだった。

 今は、勉強しながら呼ばれるのを待っている。

 お父さんは空港で働き、お母さんはIT系の在宅ワークをしている。

 勉強のためにアルバイトができない私は、仕事がどういうものかよく分からない。

 でも、二人を見ていると大変そうなのは分かる。

 お父さんは帰りが遅い日もあるし、お母さんは納期前だと夜遅くに居間で仕事をしていることも多い。

 それは私を良い学校へ行かせるためでもあるのだと思う。

 だからこそ、なるべく言うことは聞いてきた。

 今日は、そんな両親に意見しなければならない。

 緊張でそわそわして、なかなか勉強に集中できない。


「ふぅ……」


 落ち着くために、机の上に置いたマグカップに入ったお茶を飲み、息を吐く。

 思えば、これまでわがままを口にしたことは、あまりなかったかもしれない。

 小さい頃から、欲しい物があっても、口に出せなかったのを思い出す。

 だからこそ、いざ意見しようと思うと、身体は強張る。


「優子、勉強が落ち着いたら、いつでもおいで」


 緊張を覚えながら勉強を進めていると、一階からお父さんの声が聞こえる。


「分かった。今行くね」


 返事をし、一旦机の上を片付ける。

 お父さんの声は裏返り、少し緊張しているように聞こえた。

 もしかしたら、私の言いたいことを察しているのかもしれない。

 教科書をブックスタンドに立てて、立ち上がる。

 電気を消して部屋を出る。

 階段を下る間も、心臓はどくどくと早鐘を打っていた。

 階段を下りきると、居間が広がる。

 前と同じで、お父さんとお母さんはカウンター横のテーブルに着いていた。


「優子、座って」


 そこまで近づくと、面接官のようにお母さんが前の席を示す。

 前回のことを思い出すと、胸がきゅっと締め付けられる。

 だけど、逃げ出すわけにはいかない。

 私は胸に手を当てて、小さく息を吐いてから、椅子を引く。

 座ってからお父さんに視線を向けると、ひきつった笑顔を浮かべていた。

 真正面を向くと、お母さんが冷静な表情でこちらを見ている。


「それで、夏期講習の話って?」


 早速切り出された議題。

 感情に任せて捲し立てないように、頭の中で言いたいことを整理する。

 お母さんには元々「成績が上がらないようなら、夏期講習を受けて欲しい」と言われていた。

 だけど、私は結弦くんと文化祭のライブに出たくて、時間が欲しかった。

 だから勉強を頑張って成績を上げた。

 これが私の主張だけど、それを一言も口にできていない。

 お母さんに視線を向ける。

 決して声を荒らげることはないけど、いつも冷静に問題点を指摘してくる。

 とにかく、私の主張を口にしよう。

 緊張によって出てくる唾を、ごくりと飲み込む。

 激しく動く心臓の音を感じながら、口を開く。


「夏期講習だけど、できれば受けたくない」


 テレビが消され、食洗機の音だけが聞こえる部屋に、私の声が響く。

 声は震えているけど、言いたいことは口に出せた。

 目の前のお母さんはピクリと肩を揺らすが、表情を変えずにこちらを見ている。

 お父さんは「やっぱりそうか」と言いたそうに、苦い顔をしていた。

 すぐに口は開かず、ジッとこちらを見返すお母さん。

 居たたまれなさを覚えながらも、視線は逸らさないように耐える。


「それは、どうして?」


 お母さんはただ静かに、そう聞き返してくる。

 抑揚のない声だけど、それは冷たくも聞こえ、場の空気が重くなる。

 足の先が震えた。

 それだけで、答えを口にするのを躊躇ってしまう。

 今までは、ここでいろいろと考え、悪い方に自己完結し、主張を引っ込めてきた。

 自分の主張を通すなら、まずはそれを訴えなければならない。

 夕方の結弦くんを思い出し、背筋を伸ばす。

 両手を膝の上に置いて、顔を上げる。


「文化祭のライブに出たい。そのために、夏休みに練習する時間が欲しい」


 驚くほど、口からすっと出てきた言葉。

 お母さんはすぐに反応せず、その言葉を吟味するかのように、間を空けた。

 辺りがまた静まり返り、食洗機のファンが回る音が聞こえる。


「どういうこと?」


 しばらくして返ってきたのは、そんな質問。

 怒っているわけではなく、純粋に説明を求めているようだ。

 居間の冷房は、暑がりな二人に合わせて低めに設定されているが、背中に汗が流れる。


「ギターをやっている友達がいて、一緒に出ないかって誘われた」


 経緯を簡単に説明する。


「最初は舞台に立つなんて無理だと思ったけど……考えているうちに、出てみたいと思ったの」


 不器用なりに、自分の考えを口にする。

 頭を掠めるのは、スタジオで結弦くんとセッションした時のこと。

 あの時の高鳴る鼓動は、今でも忘れられない。

 ステージに立つのは緊張すると思うけど、それ以上のときめきが、そこにはある気がする。

 お母さんは顎に手を当てて、考えている様子を見せる。

 お父さんは感心したような顔を浮かべていた。


「それは、勉強より大事なことなの?」


 そして、お母さんはそう返してくる。

 空気が、また重くなったような気がする。

 合理的な判断をするお母さんにとって、それは単純な疑問なのだろう。

 それとも、私の主張が納得いかなかったのか……。

 少しだけ考える。


「うん、大事」


 それから、ただそうやって頷いた。

 多くの言葉を並べても、言い訳にしかならない気がする。

 素直な気持ちを伝えればいい。

 だけど、流れる空気は重くなる一方。


「今、優子はとても頑張っているわ」


 顎に当てていた手をテーブルの上に置いて、お母さんは口を開く。


「だからこそ、今年中に頑張っておくべきだと思う。来年になったら、伸びしろが感じられなくなって、勉強するのが辛くなるわよ?」


 まるで、言い聞かせるような口調。

 言っていることは間違っていない。

 時が経てば経つほど、みんなの学力は上がって、差は縮まっていく。

 余裕を感じている今のうちにスタートダッシュをかけるというのは、正しいことだ。

 だけど、私にとって一番は勉強じゃない。

 頑張りたいとは思っているけど、それよりも大事なものができてしまった。

 自分の要望を頭に浮かべ、冷静に整理する。


「確かに、お母さんの言う通りだと思う」


 口にしたのは、相手に同意する言葉。


「勉強に対する意識が高くなれば、ついていくのも大変になるのかもしれない」


 それは理解しているつもりだ。

 中間テストで予想以上の結果を得られなかったからこそ、自分の認識が甘かったと実感し、絶望した。


「だったら、どうするべきか分かるでしょ?」


 あくまで静かに、そう促してくる。

 だけど……


「それでも私はライブを優先したい」


 はっきりと、そう口にする。


「優子……」


 お父さんが、私の名を呼ぶ。

 そこには、どんな想いが込められているのだろう。


「お母さん、前に話した時に言ってたよね?」

「え?」

「何かやりたいことがあるのって」


 前にそう問われて、私は何も口にすることができなかった。

 その時も、ライブに出たいという気持ちはあった。

 それなのに、なぜ何も言えなかったのだろう。

 簡単だ。

 それを語るだけの自信がなかったから、背を向けるしかなかった。

 でも今なら、はっきりと言える。


「ライブに出ることが、私のやりたいこと」


 大人から見たら、それは子供らしいわがままなのかもしれない。

 憧れの相手に傾倒して、一時的な想いに焼かれているだけ。


「あなたの言いたいことは分かったけど、それは来年でもできるんじゃないの? 今の良い流れを断ち切る必要はある?」


 私の思いを見透かしたかのように、お母さんはそう聞いてくる。

 やっぱり、想いを伝えるだけでは理解してくれない。

 目の前に、高い壁が立っているような圧迫感。

 胸がきゅっと締まる。

 だからと言って、このまま引くこともできない。

 押してもらった背中に感じる熱。

 引いているだけでは開かない扉がある。

 そういう時は、押すしかないのだ。


「今じゃないと、だめなんだ」


 膝の上に置いた手をぎゅっと握る。


「来年になったら、またお母さんと同じ話をして、私は逃げ出してしまうと思う」


 ついてしまった逃げ癖は、そう簡単には直らない。

 ここで折れてしまったら、私はまた自分の中のネガティブな沼にはまり込む。

 そうなったら、落ちていくだけだ。

 今日までずっと人に逆らわず生きてきた自分自身が、それを証明している。


「ちゃんと約束するわ。来年は自由にしていいから」

「んーん、それじゃだめなの」


 お母さんの言葉に首を振る。

 先延ばしにするだけじゃ、何も変わらない。

 例えお母さんが約束を守ってくれたとしても、私自身がダメになってしまう。

 それに、結弦くんの気持ちだって、離れていく。

 それじゃ意味がない。

 全てを手に入れるためには、ここでお母さんを説得するしかない。

 そのためには……


「たぶん私、このままじゃ、成績落ちると思う」

「え?」


 私が口にした言葉に、お母さんがピクリと反応する。

 やっぱり、お母さんにはその言葉が一番効くみたいだ。

 中間テストの結果が悪かったからこそ、焦っているんだと思う。

 だったら、後は言い様だ。


「なんで、私の成績が上がったと思う?」

「それは……」


 私の言葉に、言い淀むお母さん。

 言葉を詰まらせて、下を向く。

 代わりに、隣にいるお父さんが笑顔を見せた。


「はっは、なんだ。簡単なことじゃないか」


 お母さんの方を向いて、楽しそうに声を上げる。


「やりたいことが見つかったら、そのために頑張ったんだ。なぁ、優子」


 そして、こちらを向いてそう続ける。

 向けられる二人の目。


「うん、そうだよ」


 私は笑顔を浮かべて、頷いた。

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