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第二十九章:アオハルはここからはじまる

 二人だけの部屋に、再び沈黙が訪れる。

 目から零れそうになる涙を拭う。

 自分の気持ちを口にするだけじゃ、何も変わらない。

 分かってはいるけど行動に移すことはできない。

 それこそが、私の弱さだ。

 何もない自分が、人の心を動かせるはずがない。

 その偏見を、どうすれば取り払えるのだろう。

 自己肯定感が低い私は、自分の中にある深い沼に、自らの意思によって沈み続ける。

 どれだけ浮上しても、新たに生まれた暗い気持ちによって、引きずり込まれる。

 その苦しみに「助けて」と口にすることすらできなかった。

 全てを自らの否と認め、受容し続けたからだ

 自分のことは自分でするしかないと……結局何も出来ずに沈んでいく。

 その繰り返し――

 気付くと、こんな人間になっていた。

 周りを灰色に見せるフィルターは、結局自分で掛けたものでしかない。

 私が変わらない限り、この世界は色付かない。

 奥歯を噛みしめ、俯く。

 せめて、一歩踏み出せる勇気を出せれば。

 自分自身を鼓舞するが、お母さんや朱里さんの顔を浮かべると、身は竦(すく)む。


「んー」


 私の話を聞いた結弦くんは、何も答えずに呻く。

 何かを考えるように顎に手を当て、視線を天井に向ける。

 からんと、グラスの中の氷が音を立てた。

 隣の部屋から聞こえていた、派手な曲が止む。

 一瞬、部屋の中がシンと静まり返り……


「歌が上手いところ」


 ふと、そんな言葉が部屋に響く。

 視線を上げると、結弦くんが顎に手を当てたまま、口を開いている。


「難易度が高いボカロ曲を歌えるところ。男性ボーカルの曲を、原曲キーで歌えるところ」

「え……?」


 突然上がる、何の脈絡もないその言葉を、訝しく思う。

 それは、何に対してのものなのだろう。

 不思議に思うが、彼はその口を止めることはなかった。


「正確にリズムがとれるところ。声帯コントロールが上手いところ。声の表現力が高いところ」

「あ、あの……?」


 結弦くんは手を膝の上に置いて、楽しそうに言葉を紡いでいく。

 最初は難しそうな顔をしていたが、今は口元に笑みを浮かべていた。

 その行動の意図が分からず、私はあんぐりと口を開ける。


「声量があるところ、声が綺麗なところ、弾き語りができるところ」

「ゆ、結弦くん……?」


 おずおずとその名を呼ぶが、彼はそれを止めようとはしない。

 ついには興が乗ってきたのか、目を細めてパンと自分の太ももを右手で叩く。


「それだけじゃないか。瞳は綺麗だし、目はぱっちりしてるし、唇もツヤツヤで羨ましい」

「ふえっ!?」


 こちらの顔を見ながら口にしているのは、どうやら私を褒める言葉らしい。


「ほっぺたもピンク色が差しててかわいいよね。小顔なのもいいなー」

「え……え!?」


 ストレートに向けられる言葉に、体がそわそわしてくる。


「指も綺麗だし、爪も綺麗。鼻の形も綺麗」

「ちょ、ちょっと……結弦くん!?」


 なんだか、顔が熱くなってきた。


「肌も綺麗だよね。きめが細かいし、髪の毛も艶があってきれ……」

「も、もういいから!!」


 両手を前に出して、ぶんぶんと勢いよく振る。

 これ以上聞いていたら、恥ずかしさに耐えられなくなって、倒れてしまう……。

 冷房が効いた部屋なのに、じわりと汗が浮かんできた。


「ぼく、優子ちゃんの良い所、百個以上言えるよ」

「うえっ!?」


 笑顔でそう言われて、変な声が漏れる。

 私を元気づけるために、お世辞を言ってくれているのだろうか。

 でも、口にしていたのはとても具体的な内容だった。


「よいしょ」


 結弦くんが立ち上がり、こちらに近づいてくる。

 私は焦った。

 なぜなら、鏡を見なくても分かるくらい、顔が真っ赤だったからだ。

 テーブルの横を通って、私の前まで移動する結弦くん。

 マイクの持ち方を教えてくれたあの時のように、その場に屈む。

 そして、こちらを見上げる。

 ダークブラウンの瞳に見据えられ、私の顔はますます赤くなった。


「今言ったこと、嘘じゃないよ」


 さっきまで楽しそうに笑顔を浮かべていた彼が、真剣な表情でそう言う。


「優子ちゃんは、自分には何もないって言ったけど、そんなことはない」

「え……?」


 まるで空気を読んだかのように、辺りから音が消える。

 いろんなところから聞こえてた歌声が、一斉に止んだ。


「ぼくが優子ちゃんをライブに誘ったのは、その歌声に心が動かされたから」


 その言葉を聞いて、あの日カラオケに呼び出されたことを思い出す。

 ライブに誘われた時は驚いたけど、それはその後の私を変えるきっかけになった。

 あの時は「楽しんで歌っている私とライブに出られたら、最高だと思う」と言ってくれた。


「私の歌に、心を動かされた?」


 疑問の声を上げると、結弦くんは珍しく目を逸らす。


「うん」


 頷いて、生まれる間。

 歌は唯一の特技だけど、人の心を動かせるほどとは思っていない。

 人を感動させるのは、それこそ結弦くんのギターのような演奏のことを言うのだ。


「この仕事をしながら、時折聞こえる、優子ちゃんの曲を聴くのが好きだった」


 その言葉を噛みしめるように、結弦くんは目を閉じる。


「初めて全力で歌う君を見た時、心が震えた」

「そう……なの?」


 意外そうにつぶやく私に、彼は頷く。


「ぼくの知らない曲を歌ってた。それはとても力強くて、歌詞が直接心に響いてくるかのようだった」


 結弦くんが、こちらを見上げる。

 そこに浮かんだ表情は、今まで見たことのないもの。

 まるで、憧れの人に向けるような敬愛が感じられる顔。


「その日以来、優子ちゃんがお店に来るのが楽しみになった」 結弦くんはこのお店で二ヶ月くらい働いているみたいだけど、その存在を知ったのは最近だ。


 でも、相手は私のことを知っていてくれたらしい。


「話してみたいと思ったけど、仕事中に知らないお客様に声を掛けるわけにはいかない。部屋に行くことがあっても、優子ちゃんは歌うのに夢中で気づいてくれなかった」

「う、ごめん……」


 やっぱり、店員さんが中に入ってきても、気付かずに歌っていたんだ……。

 さっきとは違う理由で、顔が赤くなる。


「いいんだよ。だって、あの日出会えたじゃん」


 そう言って、結弦くんは立ち上がる。


「あの雨上がりの日に、文化センターの前で」


 そして、嬉しそうにそう続ける。

 それはきっと、初めて私が女装姿の結弦くんを見た時のことを言っているのだろう。


「ギターを弾いてたら、あの綺麗な歌声が突然聞こえた」

「え……?」

「凄く驚いた」


 巧みな指使いで『愛しのレイラ』を演奏していた結弦くん。

 その演奏に心を動かされて、思わず歌詞が口をついた。

 その瞬間、あの子は手を止めて、驚いた表情でこちらを見ていた。


「そっか……」


 あの時にはもう、私のことを知っていたんだ。

 心を奪われたのは、完全にこちらの方だと思っていたのに。


「話したかった相手が、向こうから来てくれるなんて、ちょっと運命感じちゃった」


 はにかんで、結弦くんは頬を掻く。


「だから、ちょっと勇気出して、声を掛けました」


 身体の前で両手を合わせて、ぺこりと頭を下げる。

 何でもそつなくこなしていると思っていたけど、結弦くんも、私に声を掛けるのに戸惑っていたりしたんだ……。

 それはやっぱり意外なことだった。

 しかも、そのきっかけは私の歌なのだという。


「だから、自信をもって。優子ちゃんは素晴らしい人間だよ。ぼくの心を動かしたんだから」


 そう言って、右手の拳で胸を叩く結弦くん。


「私の歌が……」


 言ってくれたその言葉が嬉しくて、反芻する。

 空っぽだと思っていた自分が、誰かの心を動かせるなんて、考えもしなかった。

 自分が気持ちよくなるために歌っていただけ。

 でも、私が誰かを感動させることができるのだとしたら、それは素敵なこと。


「優子ちゃん、ぼくのギターを聞いて、どう思った?」

「それは……凄いと思った。こんなに上手に曲を弾けるんだって感動した」


 あの雨上がりの日の出会いは、今でも記憶に強く刻まれている。


「ぼくも同じだ。優子ちゃんの歌で心が震えた」


 その言葉と共に、からんからんと、手元のグラスの氷が溶ける音がする。

 ずっと、一方的な憧れだと思っていた。

 歌だけが、相手にしがみつくための手段だと思っていた。

 でも私の歌は、ちゃんと相手の心をとらえていた。

 それは、何と言うか……これ以上にないくらい、嬉しい――


「想像してみてよ。そんなぼくたちが組んでさ、ステージに立ったらどうなると思う」

「それは……」


 言われた通り、考えてみる。

 私の心を震わせた、超絶テクニックのギター。

 それに合わせて、結弦くんの心を動かした曲を、私が歌う。

 目の前には、この閉鎖された空間とは比べ物にならない、広い空間。

 そこには千人を超えるオーディエンスがいて、こちらを見ている。

 天井には照明が輝き、私たちの音に合わせて、歓声が応えてくれる。

 それって、とっても……


「楽しそう」


 とくんと胸が跳ねる――

 顔を上げて、ダークブラウンの瞳を見返す。


「でしょ?」


 それに合わせて、結弦くんは首を傾げてウインクした。

 心の奥底から、湧き上がってくる胸が躍るような感情。


「今、どんな気持ち?」


 問われて、立ち上がる。

 それに合わせる様に、再び辺りから歌が聞こえてくる。


「すごく、わくわくしてる」

「それって、ライブに出る理由にならないかな?」


 十分すぎるほどの理由。

 だからこそ、私はそれを切望した。


「勉強は大切だと思うけど、こうやって楽しめるのは、今だけだと思う」


 希望を口にしたところで、お母さんにはきっと「それは大事なことなのか」と問われるだろう。

 将来と比べたら、それは重要ではないのかもしれない。

 だけど、結弦くんの言う通り、やれるのは今だけだ。

 時が経てば経つほど、受験が近づいて、勉強に追われていく。


「ぼくたちのアオハルは、今この瞬間に始まるんだ」


 文化祭には来年も出ることができる。

 だけど、今年を逃せば恐らく来年も同じ理由で流れていくだろう。

 このわくわくした気持ちは、今しか発揮できない。

 だったら、お母さんを説得できるのも、今しかない。


「ぼくは背中を押すことしかできないけど、優子ちゃんとライブしたい。わがままでごめんね」


 言われた言葉に、首を振る。


「大丈夫、私も結弦くんとライブがしたいから」


 背中は確かに押された。

 憧れた人が、こうまで言ってくれたのだ。

 あとは、私が頑張るしかない。


「やってみる」

「うん。優子ちゃんなら、きっとできるよ」


 こんな気持ちがあるのに、話もせずに背を向けるのはナンセンスだった。

 ずっと逃げるだけの人生だったけど、たまには立ち向かってみよう。

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