第二十六章:この気持ちはきっと
その日の夜、勉強を終えて伸びをする。
シェルフラックの上部に置かれたスマホに目を向けると、二十三時と表示されていた。
待機画面には、朱里さんからのLINE通知が大量に並んでいる。
恐らく良い内容ではないだろう。
見ていると心がざわついてくるが、メッセージを開く気にはなれなかった。
机の上に乗ったノートに視線を落とす。
苦手な英語の勉強は意外と捗り、たくさんの英単語が並んでいる。
難解だからこそ、余計な気持ちを追い出すことができた。
ノートを閉じて、木製のブックスタンドに仕舞う。
背もたれがついた学習チェアに身体を預け、天井を見上げる。
勉強が終わり気が抜けたことで、ぼーっとする頭。
その中を、様々な感情が駆け抜けていく。
ずっと気を遣ってきた朱里さんに、反抗する態度をとってしまった。
これからのことを考えると不安ではある。
LINEのメッセージもどう返していいか分からない。
ただ、幸いにして明日から三連休。
火曜日には顔を合わせることになるが、そこからはもう夏休みだ。
クラスカースト一位の彼女を怒らせた私は、どうなってしまうのだろう。
朱里さんは、機嫌が悪くなれば徹底的に無視してくる。
クラスでの人気は高いので、爪弾きにされる可能性もあった。
だけど、あの行為を間違っていたとは思わない。
あの時、一歩前に出ていなければ、私はもっと後悔していた。
結弦くんが「護ってくれてありがとう」と言ってくれたおかげで、冷静でいられる。
怖くはあるが、大切な人を見捨てなくてよかった。
「結弦くん……」
呟いて、両手を顔の前にかざす。
蘇ってくる温かさ。
強く握られた右手、そして、両手を添えられた左手。
その感触を思い出すだけで、どきどきする。
弦だこのある細い手は、女の子のものと錯覚してしまうほどだけど、その力強さは男の子らしかった。
両手を胸にあてると、なんだかそわそわする。
私はギターがうまい結弦くんに、憧れを抱いている。
だけどこの気持ちは、明らかにそれとは違う。
初めて顎クイされた時に感じた、あのときめきだ。
彼のことを考えると、思い浮かぶのは女装した姿。
「あー……」
突然感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、呻き声を上げて机に突っ伏す。
カラオケに行った時、マイクを持つ手に指を添えられて、ハラハラしたことがあった。
あの時は、男の子の姿だったのに……頭の中の結弦くんは、いつも女の子みたいにかわいい笑顔を浮かべている。
なのに、その声は驚くほどに低く、手を引く腕は力強い。
なでなでされたことを思い出して、顔がかっと熱くなる。
「もー、なんなの……」
腕に顔をぎゅっと押し付けて、身悶える。
だけど、心の内から溢れてくる感情は、嬉しさだった。
憧れの相手にそういう気持ちを抱くのは、おかしいことじゃない。
「ない……よね……?」
顔を横に向けて、誰ともなしに呟く。
出しっぱなしにしていた姿見に映った顔は、信じられないくらい赤かった。
「うぅ……」
呻いてから、立ち上がる。
勉強に集中することで、色んなことを忘れていたが、全ての感情が流れ込んでくる。
結弦くんのこと、朱里さんのこと、お母さんのこと……。
そのどれにも、答えは出ていない。
私はラックの上のスマホを手にして、ふらふらとベッドに向かう。
そして、そのまま薄い布団の上に倒れこむ。
柔らかなマットが、重い全身を包み込んでくれる。
枕に頭を置いて、スマホを手に取った。
LINEのアイコンについた赤々としたマークが気になったが、とりあえず無視する。
代わりに、その隣にある赤いYouTubeのアイコンをタップした。
お馴染みの再生マークが表示され、トップ画面が開く。
その一番上に表示されている動画を再生する。
「はぁ……」
ため息を吐きながら本体を横にすると、それに合わせて動画サイズが全体に拡大される。
広告の後に表示されるのは、結弦くんのYouTubeチャンネル。
最近は寝る前によく見ていた。
一切声を発することのない、ギターを弾いているだけの動画。
女装はしているが、映っているのは手元だけ。
それなのに、動画はどれも一万以上再生されている。
それだけ、彼の演奏は心を引き付けるのだ。
「あ、なないろだ……」
たまたま再生されたのは、上げられたばかりの新しい動画だった。
初めてスタジオに行った時に弾いてくれた、BUMP OF CHICKENの曲。
画面は二つに分かれていて、右側にエレキギター、左側にアコギが映されている。
「相変わらず、上手だなぁ……」
的確な指の動きで、しっかりと奏でられる音。
この曲は基本コードだけでなく、一本の指で複数の弦を押さえるセーハコードと、複雑なテンションコードが頻出する。
テンポはゆったり目だけど、初心者の私が弾くには、かなりの練習が必要だ。
ただ譜面を再現するだけではなく、指を押さえて音を切る、独自のミュートも多用している。
何より、その躍るような指を見ていると、弾いている本人が楽しんでいるのが伝わってくる。
「生き生きしてる」
自然と口元が緩む。
顔は見えないけれど、この動画の結弦くんはきっと笑っている。
私は演奏者ではないけれど、理解できた。
歌っている時は、本当に楽しい。
自分の思った通りに声が出せた時は、快感すら覚える。
「んー」
画面の演奏に合わせて、小声でハミングする。
爽やかで落ち着いたリズムと、私の歌声が綺麗にマッチした。
まるで、譜面の上で踊っているみたいだ。
「結弦くんと一緒にいるのは、楽しいな」
画面をなぞった指が、ギターを弾く結弦くんの指に重なる。
指先に熱を覚え、胸がほんのりと温かくなる。
今の私は、この存在を追いかけているに過ぎない。
「ライブ、どうしようかな……」
締め切りは夏休みの直前。
次の学校が始まるまでに、結弦くんに意思を伝えないといけない。
同時に、出場を諦めるのならば、夏期講習に行くのは確定だ。
「出たいな……」
それが私の本音。
だけど、その気持ちをお母さんに伝えられるかは分からない。
今の私なら、口にすることはできるかもしれない。
でも、明確な理由がなければ、押し負ける。
高校の進路を伝えた時と同じだ。
その道に進むのなら、はっきりとした答えがなければ、お母さんは認めない。
そのためには、自分の意思を固めなければならない。
ギターを弾く結弦くんの手を、じっと見つめる。
それだけで、胸はとくんと音を立てた。
「これってやっぱり、そういう気持ちだよね……」
口にして急に恥ずかしくなり、誰もいないのに、口元に拳を当てて隠す。
「好き」と口にすることすら恥ずかしい……。
陰キャ故に、恋愛とは縁のない人生を送ってきた。
高校生でこれは、子供じみていると言えるのだろうか。
朱里さんは複数の男の子と交際している。
それが当たり前じゃないとは思うけど、クラスの中には恋人持ちの生徒もいるようだ。
特進科じゃない他のコースであれば、そういう子はもっと多いと思う。
中学生の頃から、話はよく聞いていたから……。
「あ……ぅ……」
顎クイされた感触を思い出し、急に体が熱くなる。
頭の上から煙が噴き出していると言われても、信じてしまうかもしれない。
幼稚な心は、恋というものを簡単には理解できない。
ただ、もっと彼と話したいし、触れていたいとは思う。
私は、再び画面に手を伸ばす。
目まぐるしく、でも楽しそうに踊る彼の指。
昨日触れた弦だこがある、第一関節があるあたりに、人差し指をそっと重ねてみる。
ガラス越しの冷たい感触のはずなのに、指先から体温が伝わってくる気がする。
撫でるように指を動かし……
「あ……」
当然ながら、それはタップ入力と判定され、別の動画に切り替わってしまう。
スピーカーから『なないろ』の音が途切れ、画面には別の動画が表示される。
慌てるが、それは結弦くんのチャンネルの別の動画のようだ。
広告が流れ、画面が切り替わる。
「あれ?」
それを見て、声を上げる。
いつもは手元が映されて、そのまま演奏が始まるだけなのに、画角が違う。
明らかに引かれた場所にカメラが置かれ、部屋の中心に椅子が映されている。
白いフローリングの床に、紺色の壁。
天井は白く、広さは十畳ほど。
部屋の隅にはドラムやスピーカーが置かれている。
その場所には、見覚えがあった。
「あのスタジオだ」
今日行ったばかりの、あの場所。
いつもの動画とは、テイストが違う。
私は起き上がり、ベッドの縁に腰掛ける。
両手でスマホを持って、画面をしっかりと見つめた。




