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第二十五章:夏の暑さに溶けていく

 しばらく走って、家から離れた公園までやってくる。

 住宅街にある、滑り台と鉄棒が置かれただけの、小さな公園。

 空が濃いオレンジ色に染まろうとしている時間、敷地内には私たちしかいない。

 暑い中を走ってきたので、息は上がり、全身に汗が噴き出ていた。

 公園の入り口付近にあるベンチに、腰を下ろす。

 額に浮かぶ汗をハンカチで拭って、肩で息をする。

 夏休み明けには運動会もあるので、体育の授業でそれなりに走ってはいた。

 とはいえ、朱里さんを撒くまで結構な距離を移動している。


「大丈夫?」


 そう言って、立ったまま顔を覗き込んでくる結弦くん。

 その表情は涼し気で、息もほとんど上がっていないように見える。

 私の手を引きながら、ギターも背負っていたのに……。

 その逞しさは、男の子らしい。

 深く呼吸して、息を整える。


「うん、大丈夫……」


 落ち着いてから、返事をする。

 汗もかいているし、服も髪も乱れていて、顔を覗かれるのが恥ずかしい。

 目を逸らして、こっそりと服を整える。

 それよりも、結弦くんに謝らなければならない。

 私のせいで、迷惑を掛けてしまった。


「ごめん」


 膝の上に両手を置いて、頭を下げる。


「優子ちゃんは悪くないよ」


 言いながら、結弦くんはギターケースを背負ったまま、隣に座る。

 ちょんと触れる肩。

 その距離感の近さに、汗をかいていることが気になってしまう。

 対策はしているので、大丈夫だとは思うけど……。

 とにかく、朱里さんのことだ。

 結弦くんはあまり気にしてないようだけど、この事態を招いたのは、私の優柔不断な性格のせい。

 学校で問い詰められた時、本当のことを話して、きっぱりと申し出を断ることもできた。

 そうすれば、こんな事態にはならなかったかもしれない。


「私が曖昧な態度を取っていたせいだ……」

「ん?」

「もっとちゃんと、言っておけば……」


 「人に迷惑が掛かることはやめてほしい」という、たった一言を口に出来なかった。

 あの朱里さんが、私の言葉を素直に聞いてくれるとは思わないけど……。

 SNSのことを学校に報告するとか、他にも手があったはずだ。

 右手の拳を握り締めて、自分の甘さを悔やむ。


「まぁでも、ぼく自身が気にしてなかったからね」


 そんな私をよそに、結弦くんはそう言って空を見上げる。


「優子ちゃんはあの子のことを話してくれていた。だから、ぼくが直接話に行けばよかったね。こちらこそ甘かった。ごめん」

「そ、そんなことないよ!!」


 遠くを見たまま、謝罪の言葉を口にする結弦くんに、両手を振って答える。

 彼は完全に被害者だ。

 落ち度なんて何一つない。

 結弦くんが直接話に行けば、女装男子であることもばれていた。

 そうなったら、余計に面倒なことになっていたと思う。


「あ……」


 しかし、そこで思い出す。


「朱里さんって、動画撮ってたよね。だ、大丈夫かな……」


 ずっとカメラを回していたのなら、結弦くんの声も収録されているはず。

 相手にネタを与えてしまったと思うと、背筋が冷たくなる。

 朱里さんの行動は、倫理観が欠けている。


「流石にあの動画をアップしたら、炎上しちゃうでしょ。意図的にカットしたとしても、使える部分は少ないだろうし」


 私とは違って、あくまで冷静な態度。


「でも、男だってバレちゃうよ」


 ただ、それだけは問題だ。

 YouTubeでの活動も、顔を隠して声を出さずに行っている。

 コメント欄を見ると、彼を女の子と思っている人も多い。

 結弦くんのギターテクは本物だけど、そのかわいさに惹かれてる人もいると思う。

 男と公表されるのは、まずい気がする。


「え、それは別にいいけど?」

「いいの!?」


 結弦くんはこちらを向いて、きょとんとした表情を浮かべる。

 私自身が感じている深刻さとの差に、思わず大きな声が出た。

 戸惑っていると、彼は顎に右手の人差し指を当てる。


「これだけ仕上がっていれば、むしろ誇らしいでしょ」


 そのまま首を傾げる、あざといポーズ。

 揺れるツインテールを指先でくるくると弄りながら、ウインクした。

 口元を緩めた表情は、どこか蠱惑的で、初めて会ったときのことを思い出す。

 時折見せる、かわいさとも格好良さとも違う魅力。

 色気のようなその美点に魅せられて、私は脳を揺さぶられた。

 この可憐さで、男ということにはきっと誰もが驚く。

 だけど、その魅力が失われることはない。


「結弦くんは、とても素敵だと思うけど……」


 そう分かっていても、私はネガティブだ。


「炎上したり、しないかな……。結弦くんは何も悪くないけど、面白おかしく囃し立てる人もいるだろうし……」


 いろいろと考えてしまい、楽観的な気持ちにはなれない。


「んー……」


 私の言葉を聞いて、少しだけ考える様子を見せる。


「それでも別にいいかな」


 でも、すぐにそうやって笑顔を浮かべて頷く。


「自分の好きなことを、やりたいようにやっているだけだし。たとえ茶化してくる人がいたとしても、今まで通りにやるよ」


 やっぱり、結弦くんは強い。

 私だったら、今頃慌てふためいていると思う。

 隣に座っているはずの彼を、少し遠く感じていた。

 朱里さんも、感心はしないけど、自分本位に生きている。

 私は保身ばかりを気にして、何も主張できない。

 リスクを負ってでも、自分を高めようとしている二人とは違う。


「そっか……」


 私にも、そんな強さがあれば……。

 公園に静寂が訪れる。

 日が沈み、空はオレンジ色から少しずつ紫色に変わっていく。

 狭い公園に風が吹いた。

 ふわりと漂う、ベルガモットの香り。

 気持ちは少しアンニュイで、でもどきどきするような感覚が、僅かに胸を温める。

 ふと、右手を見る。

 朱里さんから逃げる時に、繋がれた手。

 そこにあった確かな感触を思い出し、感じた熱に少し汗ばむ。

 悲しさと嬉しさと、いつもの後ろ向きな気持ちが混ざった、不思議な感覚。


「あ、そうだ」


 と、静かな公園に、そんな声と手を合わせる音が響く。

 「どうしたのだろう」と思い、隣を見る。


「さっきは、護ってくれてありがとう」


 笑顔を浮かべた彼が、座ったままこちらを向く。

 膝と膝がこつりと当たった。


「あ……いや、護るなんて……そんな」


 距離の近さにどきまぎしながら、慌てて視線を逸らす。

 なんとかカメラに結弦くんが映らないようにしようと、前には出たけど……。

 結局、怖くて一歩も動けなかった。

 結弦くんが前に出てくれなかったら、泣いていたかもしれない。

 私に出来たのはその程度のこと。

 そう思っていると、ふと手に温かい感触を覚える。


「え……?」


 ベンチの上に置いた手に、添えられる結弦くんの手。


「怖く、なかった?」


 こちらに顔を近づけて、囁くような声で言われる。

 耳元に掛かる吐息。

 手に感じる温かさ。


「ひゃう……!!」


 私は驚いた猫のように身をびくつかせ、背を伸ばす。

 すぐそばに結弦くんの体があって、手にはその体温を感じる。

 細い指にできた弦だこの感触。

 爽やかな匂いの中に少しだけ混じった、汗の香り。

 ドキドキと、心臓が鳴る。


「ごめんね。もう怖くないからね」


 え、これ……どういう状況?


「は、はい!!」


 焦りながら、裏返った声を上げる。

 結弦くんが身体を近づけ、手には両手を重ね続けている。

 私を、励まそうとしてくれているのだろうか。

 全身の血が激しく回り、顔が熱くなる。

 早くなる鼓動の中に混じって、こみあげてくる、きゅんとした気持ち。

 なんだか今日は、色んなことがありすぎる。

 楽しくて、落ち込んで、怖くて、悲しくて……

 でも今は、とにかくドキドキしている。

 こんなに目まぐるしい一日。受験の時ですらなかった。


「あ……ぅ……」


 どうしていいか分からず、呻き声が漏れる。

 結弦くんは、ただ手を重ねて、こちらを見つめ続けている。

 彼なりに気を遣ってくれているんだとは思う。

 でも、この格好をしていると、変なスイッチが入ってしまうとも言っていた。

 私は手が幸せだから、いいのだけど……。


「よし」


 しばらくして、結弦くんが声を上げる。


「帰ろっか」


 手を離し、身体の前でポンと合わせる。

 感じなくなった熱を少し寂しく思いながらも、頷く。


「うん」


 立ち上がって、二人並んで住宅街を歩く。

 会話はなく、ただ二人の距離が少しだけ近く感じた。

 これから、どうなっていくかは分からない。

 ただ、今日のできごとは……私の中にあるいろんな感情を、変えるような予感を覚えた。

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