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第二十三章:十五センチの差

 帰り道、電車に揺られながら考える。

 自分のしたいことを、本気で考えたことなど、ほとんどなかった。

 ただ、流されるままの人生。

 やりたいことがあっても、我慢してきたというのはあるのかもしれない。

 高校受験を考え始めた時、今の学校のIT系か美容系のコースに通いたいという気持ちはあった。

 なぜそうしたいのか、お母さんに聞かれた時、私は明確な理由を答えられなかった。

 そのまま、なし崩し的に特進科に入学する。

 思えば、興味のない学科に一生懸命勉強して入るというのは、おかしなことだ。

 あの時、自分なりの気持ちを伝えられていれば、こうはならなかったのだろうか。

 自分の中にある、純粋な気持ちを考えてみる。

 視線を上げると、体が触れそうな位置に、結弦くんがこちらを見下ろして立っている。

 帰宅ラッシュの時間ということもあって、電車の中は人が多い。

 制服姿の学生はもちろん、スーツ姿の会社員の姿も見られる。

 普段はここまで人が多くないが、信号のトラブルで電車が大きく遅れたらしい。

 私は車内の端の壁側に立っている。

 乗車率が高く、周りの人との距離が近い。

 電車がカーブに差し掛かり、車体が大きく揺れる。

 この位置では吊革を持つことができず、私は壁に体を預ける。

 しかし、そっちとは逆側に体が引っ張られ、慌てて踏ん張った。

 そんな時、ふと体が軽くなる。

 肩に感じる、優しい感触。

 そちらに目を向けると、結弦くんの手が私の体を支えてくれていた。

 その華奢な手からは想像がつかないほどの、力強さが感じられる。

 支えがなければ、よろけていたと思う。

 結弦くんに顔を向けると、すぐに手を離して無言で首を傾げる。

 きっと「大丈夫?」と確認しているんだと思う。


「あ、ありがとう」


 私は小さくそう口にして、熱くなる顔を伏せる。

 左肩に感じる、温かさ。

 目の前に立っている彼は、こんなにかわいいのに、それは力強く男の子らしい逞しさを感じた。

 その感触を確かめるように、右手で肩を撫でる。

 それだけで、心臓は強く脈打つ。

 こうやって見下ろされていると、改めて身長が高いんだなって思う。

 私の想いは決まっている。

 結弦くんと文化祭の舞台に立ちたい――

 そのために、夏期講習は受けず、補習だけを頑張る。

 そこまでの気持ちがあるのに、私は本音を口にできなかった。

 お母さんに対しても、朱里さんに対しても、我の強い人を相手にすると怯んでしまう。

 意思は揺らぎ、間違っているのは自分ではないかと疑う。

 もし私が、ライブに出たいと言ったら、お母さんは何というのだろう。

 「今は遊んでいる場合じゃないでしょう」と静かに叱責されるのだろうか。

 その意見は間違っておらず、だからこそ何も言えない。


「……」


 考え込んでいると、とんとんと肩を叩かれる。

 顔を上げると、電車内に停車駅を告げるアナウンスが流れていた。

 結弦くんと顔を合わせて、頷く。


「すいません、下ります!!」


 電車が止まると、私は声を上げて扉に向かう。

 この駅で降りる人はほとんどいないため、移動に苦労する。

 扉が閉まるベルと共に、何とか二人して電車から降りる。

 多くの人が乗り込み、電車が発車すると、ホームから人が消えた。


「凄い人だったね」


 眉をひそめて、結弦くんはギターケースを肩に掛ける。


「そうだね。あ、支えてくれてありがとう」


 照れくささに口元を手で隠しながら、お礼を言う。


「んーん、触れちゃってごめんね」


 そう言って申し訳なさそうに手を合わせる結弦くんに、首を振って応える。

 あの温かさと力強さを思い出し、むしろもっと触れていて欲しいなどと思ってしまう。

 顔を赤くしながら、結弦くんの隣に並んで、改札口を目指す。

 一緒に降りた人たちは、すでに駅から出ている。

 人気の少ない田舎の駅には、視覚障害のある方を誘導するための「ポーン」というチャイムだけが、静かに鳴り響いていた。

 階段を登って反対側に移動し、再び階段を下りる。

 改札に人はいないため、買った切符をポストのような回収箱に投入する。

 交通系ICを持っている結弦くんは、設置された端末にカードを当てていた。

 ゲートはないので二人で素通りする。


「……」


 隣を歩く結弦くんを、ちらりと見やる。

 駅舎の中には数人の人がいるので、また口を噤んでいる。

 このまま駅前の交差点まで進んで、信号の所で解散。

 そう思うと、急に寂しくなってくる。

 できれば、もう少し隣にいたい。

 ここに立っていると、体がふわふわして夢心地になる。

 胸の中のもやもやも忘れて、代わりに身体に熱が湧き上がってくる。

 日を追うごとに、この気持ちは強くなっていた。

 もし私が手を伸ばして、着ている服の裾をぎゅっと握ったら、どうなるのだろう。

 「もう少し一緒にいたい」なんて言ったりしたら、遠回りして家まで送ってくれたりするのだろうか。

 浮かんでくる甘い妄想に、首を振る。

 十五センチの身長差。

 もし手を繋いだら、どんな感じなんだろう。


「うぅ……」


 自分の顔の前に右手をかざして、呻く。

 交差点に目を向けると、私たちと同じくらいの歳の男女が、手を繋いで横切っていくのが見える。

 縁のないことのはずなのに、また顔が熱くなる。

 オレンジ色に変わろうとしている空。

 日が陰り、気温は落ちているが、私はぱたぱたと手を仰いで熱を引かせようとする。

 交差点まで僅か百メートル足らず。

 それなのに、その短い距離を歩いているだけで、いろいろな想いが目まぐるしく押し寄せてきた。

 やがて、お互いに別れる信号へと差し掛かる。


「ありがとう、今日も楽しかった」


 こちらに振り返り、微笑む結弦くん。

 背に赤い光を受けて、その姿が輝く。

 揺れるツインテール。

 涼しげな切れ長の目に、スッと通った鼻筋。

 かわいらしい姿なのに、ギターケースを背負う姿は、かっこいい。

 お別れを言うのが名残惜しくて、下を向いて口ごもる。

 さっき思い浮かんだ妄想のような言葉を、口にしてみようかと考える。

 もちろん、そんな勇気はない。


「こちらこそ、楽しかった」


 寂しいけど、笑顔を浮かべてそう答える。

 せめて「また会いたい」という言葉が言えたなら……。

 胸に手を当てると、心が少しだけ痛くなる。

 この時間が終われば、私はまた……灰色のフィルターを掛けて生きていくことになるのだろうか。

 心の中に少しずつ広がっていく切なさ――

 沈みゆく赤い光が、急に物悲しく見えた。


「優子ちゃん」


 ふと、呼ばれる名前。

 視線を上げると、そこには明るい笑顔がある。


「また、一緒に遊んでくれる?」


 そして、紡がれる言葉。

 それは、私が今まさに求めていたもので、口にできなかったもの。

 その優しい言葉が胸に入り込み、心臓を叩く。

 切ない想いと、嬉しさが、私の中できゅんと音を立てた。

 どうしてこの人は、こんなに素敵な言葉を掛けてくれるのだろう。

 あまりにも自分にとって都合の良い状況に驚き、胸が熱くなる。


「結弦くん……」


 ただ名前を呼んだだけなのに、なんだか口元がむずむずする。

 耳の先まで赤くなっているのが分かる。

 でも、薄暗く赤い光が降り注ぐ今なら、誤魔化せているのかもしれない。

 彼の表情はとても純粋で、眩しい。

 それは期待しているような、青春という甘酸っぱいものとは違う。

 胸を焦がすような、じりじりとした感情。

 私はただ、頷けばいい。

 口元を緩めて、最高に明るい笑顔を浮かべて……

 息を吸う――


「見つけた、噂の美少女!!」


 その刹那、辺りに大きな声が響く。

 聞き慣れた声に、体がピクリと反応する。

 嫌な予感に震える体。

 呆然とする中現れたのは、スマートフォンを右手に構えた朱里さんだった。

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