第十九章:現実は何よりも高い壁
夜、ご飯を食べ終わった時間。
時計を見ると九時半になろうとしている。
窓の外を見るとすっかり夜の帳が下りて、コオロギの鳴き声が微かに聞こえた。
学校の課題に取り組んでいた私は、一度ペンを置く。
しばらくして、一階から聞こえる、私を呼ぶお母さんの声。
「今行くね」
返事をし、鞄から期末テストの解答と、成績表を持って部屋を出る。
階段を下りながら、緊張感に息を吐いた。
お父さんとお母さんが落ち着いたら、成績を見せて欲しいと言われている。
ついに、決断が下されるときが来た。
一階に降りて、居間に出る。
ダイニングとリビングが繋がった、広い空間。
カウンターの横にくっつけて置かれた、食事用のテーブルの奥の席に、お父さんとお母さんは座っている。
背筋を伸ばしている二人の姿は、まるで面接官だ。
「優子、座って」
テーブルに近づくと、お母さんが前の席を示す。
私は椅子を引いて、そこに腰掛ける。
ちらりと隣に座ったお父さんに目を向ける。
普段は優しい表情をしているけど、私と同じで緊張しているように見える。
髪は黒々としていて、パーマをかけた巻き毛のカーリーヘアが、若々しい。
今年で50歳になるけど、目が大きいせいか、とてもそうは見えない。
机の上に成績表とテストを並べて、お母さんに目を向ける。
ジッとこちらを見つめる表情は厳しい。
二人ともパジャマ姿だけど、一家団らんのような和やかな雰囲気ではない。
教育に熱心なのは、お母さんの方だ。
艶のある黒いロングヘア。掛けたスクエア型の眼鏡から覗く、切れ長の鋭い目。
中間テストの結果が芳しくなかったので、心配しているのだろう。
用紙を持った手が震える。
大丈夫、今回はしっかり頑張って、結果も出した。
「これが返却された解答用紙。こっちが成績表」
それを差し出すと、お父さんとお母さんはそれぞれ手に取って眺める。
普段はテレビの音が聞こえる居間は、静寂で満たされていた。
二人が紙をめくる音だけが、辺りに響く。
緊張で、喉が渇いてきた。
お母さんは、問題を指で追いながら、丁寧に見定めている。
一方、お父さんはぱらぱらと点数を追いかけ、成績表に目を向けていた。
そこには、今回のテストの結果はもちろん、成績の推移や順位が書かれている。
普段からお母さんに押されがちなお父さんが、明るい表情を浮かべる。
「おー」っと声を漏らしているのを見るに、好感触のようだ。
それを見て、少しだけ安心する。
お父さんも進学することを望んではいるが、その基準は厳しくない。
「大学に行けば初任給も上がるし、知識はあった方が役に立つから」という程度だ。
問題は、お母さん。
40代半ばのお母さんが若い頃は、就職氷河期と言われる時代だったらしい。
就職活動において、有名大学の卒業が人生の成功への切符とされ、採用の絞り込みにより非正規雇用を余儀なくされた時代。
就職活動には苦労し、惨めな思いをしたと言っていた。
お母さんが望むのは、有名な国公立大学への進学だ。
「なるほど」
長い時間をかけて解答用紙を確認し、最後に成績表を手にしたお母さんが、静かに呟く。
その表情に変化はない。
普段はやることをやっていれば、そこまで厳しくないけど、勉強については別だ。
自然と、背筋が伸びる。
成績は確かに上がった。
だけど、お母さんが納得するレベルかどうかは、分からない。
居間がシンと静まり返り、アナログ時計の秒針が、時を刻む音が聞こえる。
居心地の悪さを覚え、太腿の上に置いた両手を、ギュッと合わせる。
「うん、確かに成績は上がってるわね」
顔を上げたお母さんが、こちらを向いてそう口にする。
その表情は、先ほどに比べれば穏やかだ。
「特に国語は完璧だわ。苦手な問題も、間違ってはいるけど、解答は的外れじゃない」
テーブルの上に置いた解答用紙を指さしながら、的確に答える。
反応は悪くないが、安心はできない。
そこまで見ているなら、気付くこともあるはずだ。
「でも、英語はだめね。相変わらず長文を読み解く問題が弱い」
「う……」
鋭い指摘に呻く。
英語は中学生の時から苦手で、クラスの平均を下回っている。
基本はそれなりに出来ているけど、お母さんが指摘した問題で大きく点を落としていた。
「数学も一緒。基本は出来てるはずなのに、応用になると間違ってる」
解答用紙を入れ替えて、別の部分を示される。
同じく、数学もぎりぎり平均に届いていない。
とにかく基本を固めたため、理解は進んだと思うが、それを応用に活かせてないのだ。
「いや、でも頑張ったと思うよ。平均点を五点もあげるなんて、なかなかできることじゃない」
しゅんとした私を見かねて、お父さんがフォローしてくれる。
緊張感を中和してくれる明るい声が、ありがたい。
「それについては頑張ったと思ってる。クラス順位も、ここまで上がるとは思ってなかった」
珍しく上がる、賞賛の声。
特進科は入学が難しい。
ということは、入った時点でみんなの学力は高いということになる。
その能力は横並びで、だからこそ少しのミスで順位が大きく変わる。
そして、学力が同じである以上、突出するのが難しい。
「クラスの平均点が下がってるってことは、前回より難しかったってことだろう? そんな中で優子は点を伸ばしたわけだ。天才だよ」
「う、うん……」
お父さんに手放しに褒められて、少し恥ずかしくなる。
下を向いて、こそばゆい頬を掻いた。
そう、テストの内容は前回より明らかに難しかった。
そんな中で点を上げられたから、抜き出ることができたのだ。
これは、十分な評価になると思うけど……。
恐る恐るお母さんを見る。
成績表を眺める目は、やはり厳しい。
「偏差値はちゃんと上がってるわね」
口にした言葉に、ピクリと反応する。
お母さんが特に気にしているのは、その部分だ。
中間テストでは、全ての教科の点数が80点を超えていた。
それでもクラス順位が中の下ということは、偏差値は50を切っている。
それが、お母さんを心配させた原因だ。
どれだけ点が良くても偏差値が低ければ、一定の基準からあぶれたということ。
そして、今回の偏差値は54。
お母さんが、これをどう見るかだが……。
「でも、まだ足りないわね」
その部分を指でなぞって、はっきりとそう口にする。
隣にいるお父さんが、眉をひそめた。
「あなたが目指すべき大学の偏差値は、最低で55。安心感を得るなら、60以上は必要ね」
突きつけられる、厳しい現実。
「今は、その最低ラインにも達してない」
その言葉が、心に突き刺さる。
平均点を取れて、ようやく合格率は50%。
『C判定』に位置付けられ、合格を狙えるラインではある。
だけど、そこは同じ能力を持った受験生がひしめき合っている激戦区。
『B判定』であっても、合格率60%以上の合格圏内でしかない。
「足りてないのは、分かるわね?」
自分の中で計算した数値と、その言葉が重なる。
現状は、痛いほど理解している。
これだけ頑張ってもC判定だからこそ、先が見えず苦しい。
お母さんの言ってることは正しいが、頷く気にはなれなかった。
これでも、しっかりと頑張った結果なのだから。
「将来のためにも、今が頑張り時だと思う」
目が細められ、熱のこもった声をあげる。
この空間を満たす空気が、ピリッと音を立てた気がした。
「夏期講習、申し込んでいいわね?」
「え……」
続けて言った言葉に、心臓が強く胸の内を叩く。
それは、私が一番恐れていた言葉。
喉の奥に感情が詰まり、エアコンの風が急に冷たく感じる。
視界がぼやけ、音が遠くなる。
ただでさえ補習があるのに、夏期講習を受けるとなると、ほとんど自由な時間はない。
そうなれば、結弦くんと遊ぶ時間も作れない。
それだけが希望で、頑張ってきたのに……。
「ちょっと待ってよ、それはあんまりじゃないか?」
呆然としていると、お父さんがお母さんの方を向いて、反論する。
「これだけ点が上がってるんだから、優子は一人でも頑張れるってことだ。君の気持ちは分かるけど、これ以上締め付けるのは良くないよ」
お父さんらしい、相手を尊重しながらの反対意見。
それはまさに、私が言いたかった言葉。
少しだけ、胸が軽くなる。
だけど……
「優子が頑張ったのは確かね。それは偉いと思う。だけど、偏差値を上げるのなら今のうちよ。学年が進むにつれて、みんな勉強をして学力を底上げしてくる。そうなると、益々偏差値は伸びなくなる。その時に苦しい思いをするのは、優子自身だと思うの」
あくまで冷静に、お父さんにそう返す。
言っていることは、確かに理解できた。
受験が近づけば、みんな嫌でも勉強する。
そうなれば、今回のように大きな差はとてもつけられない。
私は、唇を噛む。
お母さんが感情的に反論したのなら、私も言いたいことを言えた。
だけど、それはあまりにも的確だ。
「分かるけど、折角頑張ったんだし……」
「それは別のことで労う。努力が数字に表れているのは、確かだからね」
何かを言いかけたお父さんも、言葉を詰まらせてしまう。
口元に笑みを浮かべたお母さんを見て、私は何とも言えない気持ちになった。
お母さんは意地悪を言っているわけではない。
国公立大学を目指すのならば、妥当な判断だと思う。
ただ……
私自身は、それを強く望んでいるわけじゃない。
理解が進むという感覚は嫌いじゃない。
でも、やっぱり勉強は苦手だ。
いい会社に入るために、受験を頑張るという意見も分かる。
でも、私が本当にやりたいのは……
「優子」
お母さんがこちらを向く。
「な、なに?」
私は、震える唇で答える。
「あなた、今やりたい事や目指したいものって、ないわよね?」
まるでこちらを見定めるように、向けられた質問。
その厳しい目は、こちらを見透かしているようで、たじろいでしまう。
泳ぐ視線――
背中に冷たい汗が流れ、強すぎるエアコンの風に、鳥肌が立つ。
私は何と答えるべきなのだろう。
将来を、本気で考えたことなどほとんどない。
結弦くんが、クラウドエンジニアを目指したいと言った時、他人事のように「すごいな」と思った。
私には、はっきりと口にできる夢はない。
だからこそ、両親の意見に流されてきた。
「……」
どう答えようか迷い、口ごもる。
文化祭のライブに出たいから、練習がしたい。
と、素直に口にすればよかったのかもしれない。
だけど、それは将来のことと比べたら、重要なことではない気がする。
訴えたところで、目の前の母親を納得させることはできるだろうか。
頭の中に、結弦くんの笑顔が掠める。
彼の期待に答えるのであれば、自分の意思を示さなければならない。
ライブに出たい――
その言葉が、喉まで出かかる。
だけど、それを夢だと言えるほど、私はまだ胸を張れない。
プレッシャーによって、喉が閉まる。
こうなってしまったら、私は歌えない。
「ないみたいね」
悩み、沈黙する私を、お母さんは肯定と捉える。
「個別指導の塾だから、夏期講習は八月から。受け付けは七月二十九日までね。強制はしないけど……」
そこで言葉を止め、改めて成績表に目を落とす。
「優子なら、分かるわよね」
息を吐きながら言う言葉に、胸が締め付けられる。
「し……締め切りまでは、一週間以上ある。ゆっくり考えればいいよ」
慌ててフォローするお父さん。
その気遣いは、ありがたい。
だけど、お母さんにそう言われてしまったら、断ることはできない。
本音を言えば、夏期講習になんか行きたくない。
私だって普通の高校生だ。
夏休みは少しでも遊んでいたいと思う。
やりたいことができた今なら、尚更だ。
それなのに、自分の気持ちを口に出来ないことに、苛立ちを覚える。
パジャマのズボンを、ぎゅっと掴む。
やっぱり私は、結弦くんや朱里さんの様には、なれないのだ。




