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グレンツシュタイン検認録  作者: 篇乃綴り堂
第一部 食い違いの線
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3/15

第三話 羊は北で草を食む

 封緘したちつは、ポルツを発つ前に、逓送ていそうの袋に紛れて王都へ上らせた。テオドール・ブレンナーの手元に残ったのは、その控えの写しと、同期ヴィルヘルム・ケラーの便り一通と、割り切れない数字の記憶だけだった。三十歩、五十歩。ポルツの北境の石は、まだテオの頭の中で、謄本と食い違ったまま立っている。

 北部路線の検認地は、あと二十を数える。次の任地は、ポルツから北へ三日の道のりだった。

 三日といっても、官道はとうに尽きている。街道は細り、やがて牛一頭ぶんの幅の畦道になり、二日目の午後には、道と草地の見分けもつかなくなった。七号は相変わらず、リーケが引けば歩き、テオが引けば石になった。

 「なぜ、私のときだけ止まるのでしょう」

 「あきらめろ。備品に好かれる才能ってのは、あんたには無いんだ」

 道が高くなるにつれ、麦の畑が減り、代わりに羊が増えた。斜面のあちこちに、白い綿くずのような群れが散っている。風は春のものより一段乾いて、遠くの山際には、まだ融け残りの雪の筋が見えた。ヴェルデンローエ王国の、いちばん北の縁である。

 「坊や。あの山の向こうは、もう国じゃないのか」

 「いえ。国です」テオは携えた検認地の一覧を検めた。「山際のもっと手前に、辺境伯へんきょうはく御領地ごりょうちがあります。次の任地は、その縁のあたりで」

 「辺境伯」リーケは口の中で転がすように言った。「偉いのか」

 「王国の北辺を、王に代わって預かる家柄です。四百年の古い家で、家印かいんは王印に次ぐ格式――と、教本には」

 「へえ」リーケの関心は、もう羊のほうに移っていた。「あの群れ、一頭くすねても誰も気づかんだろうな」

 「気づきます。それに官吏の窃盗は」

 「規程だろう。分かってる。飯の話をしただけだ」

 二日目の晩は、街道からはずれた羊飼いの小屋を借りて泊まった。小屋の主は宿賃という言葉を知らなかったが、リーケは例によって白紙に受取証を書き上げ、主の親指にかまどの灰を捺させて、認め印の代わりにした。印の一つも持たぬ相手から証憑しょうひょうを取る算段を、テオは半年ぶんも先取りして見せられている気がした。

 「灰で、よろしいのですか」

 「本人が捺したという事実が残ればいい。墨でも灰でも、要は、後で本人が『捺しとらん』と言えなくすることだ」

 「印が利かなければ、証憑としては」

 「利かんでも、あかしにはなる。利く印は、書き換えられん証。利かん印は、書き換えられる証。どっちも、無いよりましだ」リーケは灰の指の跡を陽にかざした。「あんたら役人は、利く印しか信じん。だが街道じゃ、灰の親指一つで人が死ぬこともあれば、生きることもある」

 妙に実の詰まった言い草だった。テオは、その言葉の底に、何か古いおりのようなものが沈んでいる気がしたが、灰の受取証は様式として非の打ちどころがなかったので、ひとまず帳外に置いた。

 三日目の夕、丘をひとつ越えると、谷あいに石屋根の家並みと、水車の羽根と、教会の低い鐘楼が見えた。ポルツよりは大きい。宿屋の看板の軋む音まで、風に乗って聞こえた。宿がある、というだけで、リーケの背筋が心なしか伸びた。

 北部路線、二つ目の任地。ミュールバッハという村だった。


   *


 ミュールバッハの村役場は、二間あった。ポルツの倍である。

 だが、テオを迎えたのは書記ではなく、村長を名乗る小太りの男と、その背後にずらりと並んだ村の顔役たちだった。皆、余所行きの上着を着ていた。百年ぶりの検認官を、村を挙げて出迎えるつもりらしかった。

 「お城から、はるばる」村長は揉み手をした。額に汗が浮いている。「何もない村ですが、精一杯の御もてなしを。宿はひのきの間を空けさせました。夕餉は、その、羊を一頭」

 「巡回検認官のテオドール・ブレンナーです。石を検めに参りました。村の境界石は、記録では十四基」

 「十四基、さようで、さようで」

 同じポルツの老書記は、お城の客に眉ひとつ動かさなかった。ミュールバッハの村長は、眉を動かしすぎて忙しかった。同じ北辺でも、村の気性は一村ごとに違う。テオは、緊張の裏返しの饒舌というものが、田舎役場にもあることを知った。

 「三日で検めます。作法どおり、銘を読み、拓本を採り、中央の謄本と照合します。村の台帳も、正本と副本を拝見したい。文書保存規程第九条により、二通あるはずですので」

 村長の笑みが、わずかに強張った。二通、と言われて数えるように瞬きをしたのを、テオは見逃さなかった。ポルツで一度、二通を数えて三冊出てきた男がいる。以来、テオは「二通あるはず」という自分の言葉を、少しだけ疑うようになっていた。

 だが、ミュールバッハの台帳は、几帳面に二通あった。正本と副本。綴じ紐は――麻ではなく、やはり羊毛だった。テオはもう驚かなかった。北の村は、麻より羊毛のほうが手近なのだ。規程は王都で書かれ、羊は北で草を食む。その距離を、テオはこの数日で少しだけ学んでいた。

 宿の帳付けにも、ひと悶着あった。檜の間のある宿には、看板が二枚かかっていた。古い屋号と、代替わりの新しい屋号である。宿泊記録の記載欄に、テオはどちらを書くべきか半刻悩み、結局、両方を併記して脇に「新旧同一家屋。屋号の異同につき両掲」と朱書きした。リーケは呆れ顔で、その脇に宿賃の受取証を一枚、涼しく貼り付けた。

 初日は、川下の四基。銘、読み上げ。拓本。照合。

 「一致、です」

 「一致です」

 「一致、です」

 四基とも、石と謄本は寸分違わなかった。テオの声が、そのたびに半音上がった。指摘する護衛は、村長が用意した昼餉の相場を宿の主人と交渉するのに忙しく、そばにいなかった。


   *


 その晩、ミュールバッハは、村を挙げての宴になった。

 役場の二間の板壁を取り払い、卓を継ぎ足し、村じゅうの燭台をかき集めて、羊が一頭、丸ごと火にかけられた。ポルツの後家の麦粥を思うと、別の国に来たようだった。

 「さあさ、検認官さま。手前どもの羊は、山の草で育てておりますで」

 「恐れ入ります。ですが、その」テオは木匙を宙で止めた。「これは、村の御手配ですか。それとも」

 「もちろん、村からの、心ばかりの」

 「心ばかりの、謝礼」テオの匙が卓に戻った。「でしたら、受け取れません。官吏は、職務に係る謝礼を受け取れないのです。大検認特別規程第三十一条――」

 「坊や」

 卓の向こうから、リーケが羊の骨をしゃぶりながら言った。すでに三皿を空にしている。

 「これは謝礼じゃない。宴だ」

 「宴も、饗応です。饗応は謝礼に準じます」

 「あんたのぶんは、な」リーケは骨を置いた。「あんたは検認官だ。検認官の食う羊は、謝礼になる。だが、あたしは護衛だ。護衛は、村に何の検認もしとらん。護衛が、腹が減ったから羊を食う。それの、どこが謝礼だ」

 テオは、匙を持ったまま考え込んだ。護衛官は官吏か。護衛官の饗応受領は、記録官のそれと同じ規程に服するのか。人事の書式では、護衛官は「検認官附」の傭上ようじょうであって、正官ではない。正官でないなら、職務の謝礼を禁じる条は、字義どおりには及ばない――かもしれない。

 「……いえ、しかし、傭上の者にも準用する旨が、附則の第二条に」

 「準用」リーケは新しい皿を引き寄せた。「準用は、するかしないか、まだ揉めてる話だろう。揉めてる間は、あたしは食う。決着がついたら、そのとき返す。羊は返せんが、相場の銀貨で返す。受取は、もう取ってある」

 彼女は懐から、いつの間にか村長に書かせた受取証を取り出して、ひらひらと振った。日付、頭数、村長の認め印。印は紙の上でわずかに沈み、それきり動かなくなっていた。もう誰の手でも書き換えられない、と紙のほうから言っている。

 テオは、羊の湯気の向こうのその印を、しばらく眺めていた。癪なことに、また、筋が通っている。金は一枚も動いていないのに、いつでも動かせる形に、きちんと畳んである。書類に全力で無関心なはずの女が、なぜ、経費のことになると、こうも澱みなく帳尻の逃げ道を設計するのだろう。その線引きは、やはりテオには分からなかった。

 「まあ、食え」リーケは四皿目をテオのほうへ押した。「あんたのぶんは、決着まで、あたしが預かって食っといてやる」

 「それは、いよいよ謝礼では」

 「あたしへの、な」

 村長が、狐につままれた顔で二人を見比べていた。テオも、狐につままれた顔で羊を見下ろした。宴は夜更けまで続き、村じゅうの認め印が、その晩、いくつも紙の上で静かに沈んだ。竈の火入れの祝いに、嫁入りの目録に、貸した鍋の受取に。北の村の暮らしも、王都の役所と同じ、小さな印で回っていた。


   *


 二日目の午前、村の西の境、羊の放牧地の外れに、五基目の石はあった。

 銘を読み上げる。拓本を採る。膝の上で謄本を開く。同じ石の頁。

 指が、止まった。

 石の銘。「ミュールバッハ西境は、狼岩おおかみいわより北へ十二歩、古き牧柵ぼくさくの跡に沿う」。

 謄本。「北へ二十歩」。

 テオは石に向き直り、指で刻みをなぞって読み直した。十二歩。拓本を検めた。十二歩。角灯もいらぬ真昼の光の下で、謄本はなお二十歩と言っていた。

 ――また、だ。

 背筋を、ポルツで覚えた悪寒がなぞった。石には十二、謄本には二十。どちらにも正規の署名があり、正規の印章が捺されている。二つの正しさが、また食い違っている。しかも、今度もまた、村の境の、北側で。

 念のために、村の正本と副本を確かめた。両方とも、十二歩と書いてあった。石と、同じ。合わないのは、中央から携えてきた謄本ただ一つ。

 ポルツの三号石と、同じ形だった。石と村の控えが一致し、中央の謄本だけが外れている。偶然の写し誤りなら、外れるのはどれか一冊のはずだ。それが二つの村で、二度とも、中央の側で起きている。テオは謄本の頁の隅を検めた。照合印が三つ。三人の照合官が、二度とも、そろって同じ数字を見落としている。

 偶然の頻度としては、多すぎた。


   *


 その放牧地の斜面に、羊飼いの老人がいた。

 柵の残骸に腰かけ、長い杖を膝に立て、群れを見るともなく見ている。テオが拓本の墨を片づけていると、老人のほうから、しゃがれた声がかかった。

 「お城の人かね。その黒いのを塗るのは」

 「拓本と申します。石の銘を、紙に写しとるのです」

 「ふうん」老人は杖の先で、足元の地面を指した。「その石はな、わしが子供の頃には、もう傾いとった。狼岩から――」

 「北へ十二歩」テオはつい先回りした。「石には、そう」

 老人は、初めてテオの顔を正面から見た。それから、皺の底で少し笑った。

 「よう読める人じゃ。ここらの若い者は、もう銘なんぞ読まん。境がどこかも知らん」

 「境を知らずに、羊は困りませんか」

 「困らんよ。羊は、境を知らんでも草を食む」老人は近くの一頭を杖で示した。その耳に、小さな朱の印が捺されていた。「じゃが、羊が誰のものかは、印が知っとる。この耳の朱はな、捺した者の認め印じゃ。よその者が己の羊じゃと言い張っても、印は動かん。利く印は、嘘を通さんからのう」

 草地の帰属も、漬物の甕も、国境の石も、根は同じ一つの理屈でできている。テオが教本の第一頁で覚え、ポルツの漬物の匂いの中で腑に落としたあの文句が、今度は羊の耳の朱の上にあった。署名と印章を伴う言葉には、力が宿る。

 「昔はな」老人は、杖を北の、山際のほうへ向けた。「羊はもっと北で、草を食んどった。あの、いま御領地になっとる、なだらかな一帯じゃ」

 テオは手を止めた。

 「御領地、と」

 「入会いりあいの草地じゃった」老人はゆっくりと言った。ポルツの老書記と同じ、言葉のほうが腰より先に曲がるような喋り方だった。「村の羊も、隣村の羊も、皆であそこで草を食ませた。誰のものでもない、皆のものじゃった。それがな、いつの頃からか、御領地になった。柵が立ってのう。それきり、羊は入れんようになった。この牧柵も、そのとき、境をこっちへ引き直して立てたものよ」

 「境を、引き直した」

 「草地を取られてのう。仕方なく、村の羊を、この痩せた斜面へ移したんじゃ。わしの祖父さまの、そのまた祖父さまの頃じゃと。ずうっと昔の話じゃよ」

 テオの中で、何かが小さく音を立てた。だが、それが何の音か、まだ形にならなかった。老人は、線が動いたとは言っていない。草地が御領地になった、と言っている。囲い込み。よくある話だ。土地の力の強い家が、皆のものだった草地を、いつの間にか自分のものにする。台帳に載る、載らないの、いつもの揉め事。

 ――だが、と頭のどこかが呟いた。この石は、その「引き直した境」の石ではない。この石の銘は「古き牧柵の跡に沿う」だ。もっと北にあったはずの、古い牧柵の跡。石は、その古い境を覚えている。謄本だけが、二十歩と、余分に北を指している。

 テオは、その考えを、まだ言葉にしなかった。老人に礼を言い、拓本を巻いた。

 「爺さま、名は」帰りぎわ、リーケが訊いた。いつの間にか斜面を上ってきていた。

 「ヴェンデルじゃ。羊飼いに、名なんぞ要らんがな」

 「いい斜面だ」リーケは痩せた牧草地を見渡した。「見晴らしがいい。逃げ道も、隠れる場所も、どっちも多い」

 妙な褒め方だった。ヴェンデル老人は不思議そうな顔をしたが、テオはそのとき、リーケの目の位置に気づいた。彼女は羊を見ていなかった。斜面の上の、岩陰のほうを見ていた。


   *


 三日目の午後、村の東の境で、六基目の食い違いが出た。

 石の銘。「ミュールバッハ東境は、三つまたならより北へ八歩」。謄本、「十四歩」。石と村控えが八歩、中央謄本だけが十四歩。西の五基目と、寸分同じ形だった。北へ、余分に。

 テオは検認記録簿の「不一致」の欄に、二度目と三度目のしるしを付けた。二度目は、まだ手が震えた。三度目は、震えなかった。震えなくなった自分に、少し寒気がした。大検認特別規程第二十二条により、不一致は封緘して中央へ照会する。テオは西と東の二件を、それぞれ帙に収め、封蝋に検認官印を半分だけ重ねて捺した。半分は蝋に、半分は己の名に。ポルツで一度した手が、今度は迷わなかった。

 だが、封じる前に、控えの写しを取った。石の数字と、村控えの数字と、中央謄本の数字を、一枚に並べて。ポルツの分と同じ体裁の、比較の控えである。証拠は、送り出す一通のほかに、手元にも残す。それが、この数日でテオが自分に課した作法だった。

 その晩、宿の檜の間で、テオは卓に検認図面を広げた。北辺一帯を描いた、王都の謄本室で受領した図だった。村々の位置、境界石の番号、街道の筋が、細い墨で描き込まれている。

 テオは、控えの写しを繰りながら、食い違いの出た石に、順に小さな点を打っていった。

 ポルツ、川手の三号石。

 ミュールバッハ、西の五号石。

 ミュールバッハ、東の六号石。

 それから、ケラーの便りを開いた。同期は任地の名を書いていなかったが、東隣の路線だと言っていた。石は二十五、謄本は十五。テオはケラーの発った辞令の路線を思い出し、図面の東の縁、おおよその見当のところに、四つ目の点を打った。

 打ち終えて、テオは、その点の並びを見た。

 最初は、何も思わなかった。次に、思った。

 ――北へ、寄っている。

 いや、それだけではない。点は、テオが旅してきた南北の道筋には、並んでいなかった。もし写し損じが旅の道づれに起きるなら、点は道に沿って縦に並ぶはずだ。だが四つの点は、道を横切って、東西に――北辺に沿って、細長く、帯のように延びていた。ポルツはその帯の南の縁、ミュールバッハの二基は帯の中ほど、ケラーの一件は遥か東。四つとも、王国の北の縁を、東から西へなぞる一本の帯の上に載っている。

 そして四つとも、外れているのは中央の謄本で、外れる向きは、北。

 偶然は、こういう形をしない。写し誤りは、地図の上に模様を描かない。誰かの手が――いや、テオはそこで思考を止めた。誰の手が、とは考えなかった。考える材料が、まだ一つも無い。分かるのは、食い違いが、この北辺に沿って、規則正しく並んでいるということだけだ。規則があるなら、それを作った何かがある。それが何かは、この帳面のどこにも書いていない。

 卓の向こうで、リーケが領収書を日付順に検めていた。宿の分、宴の分、七号の飼葉の分。彼女は顔を上げずに言った。

 「その図面、さっきから睨みすぎだ。穴が空くぞ」

 「点が、並んでいます」

 「点は並ぶもんだ。あんたが並べたんだからな」

 もっともだった。テオは図面から目を離せないまま、口だけが動いた。

 「リーケさん。傭兵は、契約で戦うと聞きます」

 「戦う」リーケの手が、領収書の上で止まった。

 「では、その契約に――たとえば、雇い主が兵の損失を負わない、という条項が入っていたら。免責の条項です。読み落とすと、どうなりますか」

 しばらく、返事がなかった。テオが顔を上げると、リーケは領収書を見ていた。見ているのに、読んではいなかった。焚き火もない部屋なのに、彼女の目から、何かが、すうと引いていくのが分かった。冷えた、というのが近い。豪快な護衛の顔から、急に十も歳を取ったような、そういう冷え方だった。

 「――読み落とすやつが、悪い」やがて、リーケは短く言った。「それだけだ」

 それきり、彼女は領収書を検め終え、束を几帳面に揃えて、紐で括った。話は、そこで閉じられた。テオは、開けてはいけない綴りを一冊、うっかり開いてしまった気がした。ポルツで漬物の甕を無理に開けようとした嫁の話を、なぜか思い出した。捺した本人でなければ、解けない封がある。人にも、あるらしかった。

 「坊や」リーケは立ち上がり、窓の板戸をわずかに開けて、外を一瞥した。すぐに閉めた。「今日、東の境からの帰り道、ずっと後ろに一人いた。羊飼いじゃない。羊飼いは、あんなに足音を殺さん」

 「……村の者では」

 「村の者は、客の後ろを、日がな一日つけたりせんよ」

 テオの背に、今日二度目の寒気が這った。図面の上の四つの点が、急に、誰かに見られている印のように思えた。


   *


 二人が食事に下りている間の、四半刻ほどのことだった。

 戻ると、部屋の空気が、出たときと違っていた。テオには、何がどう違うのか、すぐには言えなかった。ただ、綴りの背の並びが、指一本ぶん、乱れていた。几帳面に揃えて置いたはずの控えの束が、わずかに斜めになっていた。

 リーケのほうが速かった。彼女は一足で荷のそばへ寄り、剣の柄に手をかけたまま、部屋を端から検分した。窓の掛け金が外れている。板戸に、こじ開けた真新しい傷。

 「誰か入った」リーケの声は低かった。「まだ近くにいるかもしれん。動くな」

 テオは動いた。護衛の制止を、生まれて初めて聞かなかった。彼の手は、勝手に控えの束へ伸びていた。荷の中を検める。旅装、検認具、謄本、辞令の写し、封蝋。財布も、王印に準ずる検認官印も、そこにあった。銀の判子は、盗人がいちばん先に狙うはずのものだ。それが、手つかずで残っている。

 抜かれていたのは、一綴りだけだった。

 この二日で作った、ミュールバッハの二基の食い違いの、控えの写し。西の五号石、東の六号石。石と村控えの数字と、中央謄本の数字を並べて書いた、あの二枚。

 それだけが、束の中から、きれいに抜き取られていた。

 テオは残った控えを繰った。一致した石の記録は、一枚残らずあった。図面もあった。ケラーの便りもあった。財布も印も。金目のものも、権の重いものも、すべて置いていかれていた。盗人は、この部屋の何がいちばん高価かを、まるで分かっていなかった。あるいは――分かった上で、それには一切、用がなかった。

 「金も印も、残してある」背後で、リーケがようやく剣の柄から手を離した。「金に用のない盗人は、盗人じゃない。誰かに言いつかって来た手だ。ほしいものだけ迷わず抜いて、あとは指一本ぶんだけ動かして出ていった。素人じゃないな」

 「なぜ、これを」テオの声は、自分でも情けないほど掠れた。「一致した石の記録なら、いくらでもあります。なぜ、食い違いの、二枚だけを」

 リーケは答えなかった。答えの持ち合わせが、剣の管轄には無かった。

 窓の外で、風が羊の柵を鳴らした。それきり、部屋は静かになった。

 荒らされた卓の上で、消えているのは食い違いの記録――ただ、それだけだった。


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