第二話 三通目の控え
夜が明けきる前に、テオドール・ブレンナーは涸れ沢の底にいた。
手には、後家から借りた麻縄が一巻き。ひと晩たっても、境界石の食い違いは消えていなかった。消えていないことを、テオはこの縄で確かめに来たのだった。放っておく、という選択肢を、彼は持ち合わせていない。正確を期せば、放っておくやり方を、習ったことがない。
昨夜、川手の三号石はこう刻んでいた。ポルツの北境は、二本楡の古株より西へ三十歩、涸れ沢の底に沿う。膝の上で開いた中央台帳の検認謄本は、こう書いていた。西へ五十歩。どちらにも正規の署名があり、正規の印章が捺されている。二つの正しさが、三十と五十とで食い違っている。
だから、歩いた。いや、歩測は信用しない。歩幅には癖が出るし、テオは自分の身体を規程より信じたことがない。だから縄で測る。
二本楡の古株に縄の端を結び、西へ張る。三十歩ぶんの縄の先で、地面が落ちていた。涸れ沢の縁だった。念のために五十歩ぶんまで伸ばしてみると、縄の先は沢を越え、対岸の、境も何もないただの草土の上に着いた。そこには沢もない。目印になる石も、木もない。
石は、地面と合っている。
謄本は、合っていない。
――と、そこまでは分かる。テオは縄を巻き戻しながら、頭の隅で自分を戒めた。分かるのは、そこまでだ。地面が石に味方したからといって、謄本を誤りと決めてよいわけではない。石にも謄本にも、王国の認めた署名と印章がある。印章を捺された記録は、地面がどうであれ、それ自体で一つの完結した正しさなのだ。歩いて測れば、どちらの文言が土に馴染むかは分かる。だが、どちらの記録に責を負わせてよいかは、いくら歩いても出てこない。
昨夜、角灯の下で行き着いた場所に、明るくなってから戻ってきただけだった。石が誤っているなら、正しい台帳で石を検められる。台帳が誤っているなら、正しい石で台帳を検められる。だが、どちらが誤っているのかを検める三冊目は、テオの手のどこにもない。縄にも、ない。
「朝飯だ、坊や」
声のほうを見ると、沢の縁にリーケが立っていた。片手に麦の麺麭、片手に湯気の立つ木の椀。護衛対象が夜明け前に宿を抜け出して縄を張っていることに、この女はもう眉ひとつ動かさない。
「縄で境が動くなら、あたしの剣で国が広がる」
「境は動きません。動いたのは、記録のほうです」
「そいつは剣の管轄外だな」
リーケは沢を降りてきて、椀を押しつけてよこした。粥だった。後家の竈で炊いたのだろう、湯気の匂いが、冷えた指にありがたかった。
「あんた、ゆうべ帳面を睨んでた顔のまま朝になったな」
「不一致の欄に、記入をしていません」
「食え。空きっ腹で睨んでも、五十は三十にならん」
もっともだった。癪なことに、この護衛の言うことは、いつも一々もっともだった。テオは粥を啜り、それから、麦の麺麭を半分に割った。半分は自分の分。もう半分は、規程第百十二条の三の上限に照らして、正しくリーケの分だった。リーケは黙って受け取り、一息で飲み込んだ。
*
ポルツ村の役場は、朝もやの中でも一間きりだった。
バルタザール・クルムホルツは、炉に薪をくべていた。テオが入ると、老書記は昨日と寸分違わぬ調子で顔を上げた。
「お城から来なさったか」
「昨日も参りました。巡回検認官の」
「そうじゃったな。百年ぶりじゃ」
三度目に入る前に、テオは用件を切り出した。川手の三号石――村の北境の石について、この村の帳面には何と記されているか。それを見せてほしい。中央の謄本と、現地の石と、それから村の控えと。三つを並べたかった。ゆうべ欲しくてたまらなかった三冊目を、テオはこの棚の中に探しに来たのだった。
バルタザールは、しばらくテオの顔を眺めていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。
「北境の石なら、控えがある」
「村の台帳に、国境の石の銘まで写しておられるのですか」
「写しとる。祖父さまの代からじゃ。お城の連中は、百年に一度しか読みに来んからのう」
老人は棚の奥へ手を伸ばし、羊毛の綴じ紐でくくった綴りを一冊、抜き出した。屋号順の、あの読みにくくて几帳面な手跡。テオが頁を繰ろうとすると、バルタザールは待て、というように手を挙げた。
「そっちは正本じゃ。汚すといかん。おまえさんに見せるのは、控えのほうがええ」
そう言って、今度は炉の脇の、床下へ通じる小さな戸を開けた。石造りの小さな穴倉から、油紙にくるんだ綴りを、さらに一冊。
テオの手が止まった。
「……クルムホルツ書記。いま、同じ台帳を、二冊お出しになりましたか」
「三冊ある」老人は事もなげに言った。「正本が棚。副本が、そこの二番目の棚。それから、控えが床下じゃ。三通目はな、湿気らんように油紙でくるんで、ここに置いとる」
テオの背筋を、聞き覚えのある悪寒が這い上がった。文書保存規程第九条。公文書は、正本一通及び副本一通を作成し、これを超えて複製してはならない。二通までだ。三通目は、規程の許す枚数を、まるまる一枚、超過している。
「三通目は……規定外です」
「規定外か」
「規定外です。文書保存規程第九条、複製は正副二通まで。三通目の控えを作る条項は、この国のどこの規程にも――」
諳んじかけて、テオは口をつぐんだ。悶えるように諳んじるのが癖であることは、自分でも知っている。だが諳んじ終える前に、三冊が炉の明かりの下に並べられていて、テオの目は、もう文言のほうへ吸い寄せられていた。
正本、北境の項。二本楡の古株より西へ三十歩。
副本、同じ項。三十歩。
床下の三通目、同じ項。三十歩。
三冊が、寸分違わず三十歩と言っていた。石と、同じ。中央の謄本だけが、五十歩と言っている。
テオは、しばらく声が出なかった。
「三つとも……合っています」
「合わせとるんじゃない」バルタザールは湯を沸かしはじめた。「合っとるんじゃ。三つ写して、三つ突き合わせる。一つでも狂うたら、どれかが写し損じじゃ。すぐ分かる。五十年、一度も狂うたことはない」
規程からは、外れている。だが帳面としては――正しい。正しいどころではない。この老人は、たった一人で、中央がやっているのと同じことをやっている。三人の照合官が読み合わせて捺す照合印。あれと同じ検算を、屋号順の綴りと、床下の穴倉と、五十年の頑固さでやってのけている。テオの中の分類棚が、また収め場所を見つけられずに軋んだ。
「なぜ、三通目を」
「紙は焼ける」老人は短く言った。「二冊が同じ棚にあったら、同じ火で焼ける。だから一冊は、離して置く」
それ以上は言わなかった。テオも、それ以上は訊かなかった。訊かなくても、床下の穴倉の、石で囲われた几帳面さが、答えの半分を語っていた。
「クルムホルツ書記。この三通目の控えを、写させていただけますか。北境の項だけで結構です。……検認官の判断で、証拠として携えたいのです」
「持っていきなされ。控えというのはな、そのためにとってあるんじゃ」
*
写しを取り終える間もなく、役場の戸が、内側へ勢いよく倒れ込んできた。
正確には、戸に取りついた二人の男が、先を争って首を突っ込んだのだった。片方は赤ら顔で息を切らし、片方は青筋を立てて何か怒鳴っている。二人の後ろから、鍬を担いだ女房が二人と、犬が一匹、面白がってついてきていた。昨日、拓本の墨を珍しがった子供たちも、その脚のあいだから覗いている。
「書記どの! 東窪の野郎が、境の石を動かしやがった!」
「動かしとらん! 西窪が先に畔を削ったんだ!」
テオは筆を置いた。置いた指が、行き場を失った。
人が、怒鳴っている。台帳に載っていない事態だった。石が黙って食い違っているのとは、まるで種類が違う。どちらの声も速く、大きく、要点が定まらず、どこから照合してよいのか分からない。テオの頭の中で、繰るべき頁が、いっせいに白紙になった。
「――お役人さまが、ちょうどおられる」
言ったのは、鍬の女房のほうだった。二人の男が、同時にテオを見た。二対の目に、期待とも威嚇ともつかない光が点った。
「お城の検認官さまだ。境のことは、お城がいちばん詳しかろう」
まずい、と思った。こういう予感に限って、よく当たる。
「私は、国境の石の検認官です」テオは一歩退いた。「畑と畑の境は、その、管轄が」
「境は境だべ」
反論の余地のない土地の論理だった。境は境。石は石。お城の紙の役人なら、どんな石の言い分でも読めるはずだ、と二人の顔に書いてある。テオはリーケを見た。リーケは戸口に肩を預け、麺麭の残りを齧りながら、面白いものを見る目をしていた。助ける気は、まるでなさそうだった。
「坊や」と、そのリーケが齧りかけの麺麭で炉のほうを指した。「棚に、答えがあるかもしれんぞ」
テオの目が、三冊の綴りに戻った。
――そうだ。これは石の喧嘩ではない。畑の境の喧嘩だ。畑の境なら、村の帳面に載っている。載っているなら、これは怒鳴り声の問題ではなく、記録の問題だ。記録の問題なら――テオの戦場だった。
白紙になっていた頁が、いっせいに繰り戻される音がした。
「クルムホルツ書記。東窪と西窪の、畑の境の項を」
「屋号順じゃ。東窪は『ひ』、西窪は『に』」老人はもう綴りに手をかけていた。「じゃが、境のことなら、二軒別々には載っとらん。あれは一件で載っとる。二十年前の、地境の約定じゃ」
バルタザールが繰り出した頁に、テオは屈み込んだ。
几帳面な細字。二十年前の日付。東窪の畑と西窪の畑の境は、大楢の木の根方から、用水の分かれ口まで、まっすぐに引く。両家立ち会いのうえ、これを定む。そして文の裾に、印影が二つ。だが署名は、いまの二人の男の名ではなかった。
「これは……お二人の、お父上の代の」
「親父同士が決めた」赤ら顔の東窪が、決まり悪そうに言った。「もう二人とも死んじまったが」
「なら、この約定は、動きません」
テオの声が、自分でも意外なほど静かに出た。
「地境を定めた約定です。両家のお父上が、それぞれの認め印で封じておられる。印は、捺した本人にしか解けません。……そして、お二人とも、もうおられない」
役場が、しんとした。青筋の西窪が、口を半分開けたまま固まった。
「昨日、私は同じことを、漬物の甕で教わりました」テオは続けた。「湯治に出た姑さまの印は、姑さま本人でなければ解けない。それと、根っこは同じ理屈です。亡くなった方の印は、この世の誰にも解けない。息子どのにも、村役場にも、――お城の検認官にも、解けません。印は、官命でも動かないのです」
「じゃ、じゃあ」東窪が唾を飲んだ。「境は、どこにあるんだ」
「約定のとおりです。大楢の根方から、用水の分かれ口まで、まっすぐ」
「その大楢が、去年の雷で焼けて、根っこしか残っとらんのよ」西窪が食い下がった。「根方がどこか、二軒で言い分が食い違うから、こうなっとるんだ」
新たな食い違いだった。テオは一瞬ひるみかけ、それから、床下の三通目を思い出した。
「クルムホルツ書記。三通目のほうに、余白の書き込みは」
バルタザールが油紙の綴りを繰った。同じ約定の頁。だがその余白には、正本にはない細字が一行、書き足されていた。この日、東窪の爺が、境の目印にと大楢の東二歩に石を据える。晴れ。豚十四頭。
「――石を、据えている」テオは思わず声を上げた。「二十年前に、目印の石を。大楢の東、二歩の位置に」
男たちがいっせいに畑へ走った。犬も走った。子供も走った。半刻の後、赤ら顔の東窪が、泥まみれの、ひと抱えほどの石を抱えて戻ってきた。用水路の脇の土に、半ば埋もれていたのだという。石を据え直し、そこから用水の分かれ口へ縄を張れば、境は決まる。誰の印も解かずに、二十年前のまま、決まる。
二人の男は、それでもしばらく畦の上で睨み合っていたが、やがて、どちらからともなく、決まりの悪い握手をした。
「お役人さま」帰りぎわ、西窪が上目遣いに言った。「うちの鶏を、二羽ばかり」
「受け取れません」テオより先に、戸口から声が飛んだ。リーケだった。「官吏は職務の謝礼を受け取れん。規程だ。――が」
彼女は指を二本立てた。
「その鶏、離れの後家どのに渡せ。あたしらは、あの人の離れで世話になってる。飯も出てる。二羽ぶん、あたしが割るはずの薪を、後家どのに減らしてもらう。おまえたちの礼は後家どのの手に渡り、あたしの薪の借りは二羽ぶん軽くなる。金は一枚も動かず、誰の帳尻も合う」
男たちは、狐につままれた顔で頷いた。テオは、狐につままれた顔で護衛を見た。書類に全力で無関心なはずのこの女は、なぜ、金と物のことになると、こうも澱みなく帳尻を合わせるのだろう。その線引きは、やはりテオには分からなかった。
*
「なあ、書記どの」土間の子供が、握手を眺めながら訊いた。「もう二度と、境は動かせんのか」
テオが答えた。バルタザールより先に、つい口が動いた。
「動かせません。封じた約定は、消せないのです。……ただ、正すことはできます」
「消せんのに、正せるのか」
「消すのと、正すのは、別の手続きです」テオは指を折った。「もし東窪どのと西窪どのが、二人とも生きていて、二人で新しい境を決めたいと思ったら――古い約定を消すのではなく、その裾に、二人の連名の印で『訂正』を書き足すのです。古い一行は残したまま、新しい一行を継ぐ。それを、更正といいます」
「ややこしいのう」
「帳面とは、そういうものです」テオは少し楽しくなってきた。「そして更正は、いつでも通せるわけではありません。新しい約束を結べない時期でも――むしろ、そういう時期にこそ、帳簿の訂正は通すものなのです。決算のときに、まとめて」
「決算」バルタザールが茶を注ぎながら、ゆっくり繰り返した。「年の瀬の、名なしの十三日か」
「俗にそう呼ぶと聞きました。日の名を持たない十三日。あのあいだは、新しい契約は結べません。ですが、あれは休みではないのです。あれは――」
「坊や」
戸口のリーケが、遮った。
「誰も、年の瀬の話はしとらん。今日の畑の話だ」
テオは我に返った。子供は、とうに犬のほうへ走っていっていた。バルタザールは澄ました顔で湯呑みを差し出した。テオは、諳んじかけた続きを、茶と一緒に飲み込んだ。年の瀬は、まだ遠い。春の、雪解けの、麦の若い季節だった。
*
残りの八基は、二日で片づいた。
四号石、一致。五号石、一致。子供たちが毎回ついてきて、拓本の墨を珍しがり、リーケに追い払われては、また戻ってきた。六号から十一号まで、テオの「一致です」は、そのたびに半音上がった。上がっていない、とテオは言い張ったが、リーケはそのたびに「上がってる」と言った。八基のうち一基でも食い違っていたら、と思うと、テオの胃は縮んだ。だが八基は、寸分の狂いもなく謄本と合っていた。
合わないのは、川手の三号石ただ一つ。
最後の記録を作る朝、テオは離れの卓に、検認記録簿を開いた。
「一致」の欄と、「不一致」の欄が、並んでいる。この様式を作った誰かは、不一致というものが起こり得ると知っていた。知っていて、欄を作った。テオは着任のときまで、その欄を、様式の設計者の几帳面さの表れだと思っていた。使う日が来るとは、思っていなかった。
筆を執る。職名、氏名、日付。それから、生まれて初めて、「不一致」の欄に、しるしを付けた。
しるしは、思ったより、あっけなかった。墨がひとつ、乾くだけだった。
大検認特別規程第二十二条。検認において不一致を認めたときは、当該記録を封緘のうえ、遅滞なく中央へ照会する。テオは石の銘の拓本と、中央謄本の該当頁の写しと、そしてバルタザールの三通目の控えの写しとを、一つの帙に収めた。三十歩、五十歩、三十歩。三つの数字が、封じられる前に、もう一度テオを見上げた。
封緘には、封蝋を使った。溶けた蝋を帙の合わせ目に落とし、そこへ検認官印を、半分だけ重ねて捺す。半分は蝋に、半分は己の名に責を掛けるため。研修の教官の言葉が、こんなところで戻ってきた。
印を離すと、蝋の上の印影が、わずかに沈んで、それきり動かなくなった。もう誰の手でも開けられない、と封のほうから言っていた。世に言う、印が「利く」というやつだ。漬物の甕も、関所の手形も、二十年前の畑の約定も、そしてこの封緘記録も、根っこは同じひとつの理屈でできている。署名と印章を伴う言葉には、力が宿る。教本の第一頁のあの文句が、こんな苦い場面で、また腑に落ちた。
「封蝋は、経費で落ちるのか」
卓の向こうから、リーケが訊いた。
「官給品です。院の携行具に含まれます」
「なら受取はいらん。……いや、待て。使った分を帰任後に補充するなら、消耗の記録は要る。何匁使った」
テオは量りを持っていなかった。リーケは持っていた。護衛の荷から小さな竿秤が出てきて、削った封蝋の欠片が、几帳面に量られた。この女の荷には、いったい何が入っていないのだろう、とテオは思った。
封緘記録は、次の逓送に託した。ポルツ村に飛脚はいないが、三日に一度、隣村までの荷を運ぶ馬方が通る。その荷に、王都行きの官の袋がある。テオは袋の受取に馬方の認め印をもらい、リーケは馬方の駄賃を規程の里程で検算し、馬方は駄賃を値切られたことに気づかないまま、笑って去っていった。
王都まで、官道十二日。返書が来るとして、早くて一月の後。テオはそう見積もった。照会というのは、そういうものだ。急いても、道は縮まない。
その見積もりが、まるで的外れだったと知るのは、翌日のことだった。
*
出立の朝、テオは離れの前で、七号に行李を積んでいた。
官給ラバの七号は、行李を積まれても平然としていた。積み終えて手綱を引くと、案の定、動かなかった。リーケが引けば歩く。備品に嫌われる官吏、という称号を、テオは着任から数日で確固たるものにしていた。
そこへ、昨日の馬方が、息せき切って戻ってきた。
「検認官さま! これを、王都へ上る便に紛れて。お宛てが、あんたさまで」
差し出されたのは、油紙の包み。表に、見覚えのある字があった。同期のケラーの手だ。ヴィルヘルム・ケラー。あの朔日の大広間で、テオの右隣にいて、肩を叩いて「達者でな」と言った男。彼もまた、十二本の当たり籤を引いた一人だった。辞令で、東隣の路線へ発っていったはずだった。
テオは包みを開いた。中の紙は、ケラーらしい、勢いのいい癖字で埋まっていた。
最初の頁は、愚痴だった。任地の宿にも蚤がいる。村の書記が同じ話を三度する。ラバが自分の言うことだけ聞かない。読みながら、テオは思わず口の端を緩めた。どこの任地も、同じらしい。同じ苦労を、同じ順番でしているらしかった。
だが二頁目で、テオの指が止まった。
――ところで、変なことがあった、とケラーは書いていた。俺の担当地の境界石が一つ、謄本と合わなかった。石は二十五、謄本は十五。どちらにも正規の署名と印章がある。気味が悪いから、規程どおり封緘して、中央へ照会を上げた。
テオは頁を追う速さが、自分でも分かるほど落ちた。
――お前も知ってのとおり、王都まで十二日だ。だから返事は一月先だと思っていた。ところがだ、テオ。返書が、五日で来た。
五日。
テオは、その二文字の上で止まった。ケラーの任地から王都まで、ケラーの言うとおりなら十二日。行きだけで十二日。問いを乗せた馬が、まだ王都の門も見ていない頃合いに、答えのほうが、もう戻ってきていた。
――中身は、木で鼻をくくった一枚だった、とケラーの字は続く。「記載のとおり処理されたし」。それだけだ。俺の照会の、どこにも触れていない。まるで、こっちが何を訊くか、先に決まっていたみたいだった。まあ、お城のやることだ。深く考えるだけ損だろう。そっちは達者か。……ケラー。
テオは便りを畳んだ。膝の上で、三つに畳んだ。
風はなかった。それなのに、七号が、耳を伏せて、低く鼻を鳴らした。テオの言うことは聞かないくせに、こういうときだけ、この獣は何かを聞いているような顔をする。リーケが、手綱を握ったまま、テオの畳んだ手を見ていた。何も言わなかった。
石と帳面の食い違いは、ポルツひとつの病では、なかった。




