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グレンツシュタイン検認録  作者: 篇乃綴り堂
第一部 食い違いの線
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第一話 出張旅費仮払願

 百年に一度の貧乏くじは、天鵞絨びろうど張りの盆に載せられ、恭しくやってきた。

 王立文書院、朔日の大広間。集められた下級官吏は三百十七名。テオドール・ブレンナーは入場のときに数えたので知っている。壇上では式部官が、第四回大検認の開始を告げる勅令を読み上げていた。四百年前の文語だから半分も聞き取れないが、要旨は誰もが知っている。

 大検認。百年に一度、王国中の境界石グレンツシュタインの契約を検め直す国家事業。境界の銘は文字どおり境を守り、契約は文字どおり土地を縛る――ヴェルデンローエ王国の土台は、そういう紙と石とでできている。そして石は、向こうから王都へ検められに来てはくれない。誰かが行くのだ。石のあるところへ。つまり、王国の隅から隅へ。

 「当たりくじは十二本。引いた者は、本日付をもって巡回検認官を拝命する」

 式部官がそう締めくくった途端、大広間の空気が一斉に薄くなった。三百十七人が同時に息を詰めると、そうなる。

 盆が列を巡ってくる。籤を引き終えた同僚たちが、順に生き返った顔になっていく。テオの左隣の書記補は籤紙を開き、白紙であることを三度確かめてから、知っている聖人の名を端から唱えはじめた。

 テオの番が来た。

 両手で受け、折り目を検め、開く。

 「当」の一字。院の割印。

 ……様式に、瑕疵がない。

 「引いたぞ」と、どこかで声がした。「ブレンナーが引いた」

 押し殺しきれない安堵のさざめきが、広間の後方へ波のように広がっていった。庶務の席次係が、早くもテオの机と椅子の行方を目で測っているのが見えた。

 「ご愁傷さん」右隣の同期が肩を叩いた。「北だか南だか知らんが、達者でな」

 「ブレンナー君、机はいつ空く」席次係はもう隣まで来ていた。「席次表の書き換えには三日かかる。急いでくれると助かる」

 弔いと引っ越しの相談が同時に来た。この庁舎で人望と席は、だいたいこの速さで動く。

 「行き先は、まだ決まっていません」テオは籤紙を裏返して見せた。「ご覧のとおり、籤には路線の記載がありません。当籤とうせんの効力は検認官の身分に係るのみ。路線の割当は、追って発される辞令によります。様式のうえで、まったく別の手続きです」

 「……おまえ、そういうやつだから引くんだよ」

 どういう理屈だろう、と思ったが、反論はしなかった。籤は公正だ。籤が公正であることを、テオは疑ったことがない。十二を三百十七で割るだけの、恨む相手のいない算術だ。

 それより困るのは、当たり籤の折り目がわずかに斜めなことだった。長期保存に障る。伸ばしてよいものだろうか。当たり籤の原状の扱いに関する規程は、はて、どこに――

 「当籤者は前へ! 宣誓ののち、検認官印を交付する!」

 我に返って、前へ出た。宣誓の文言は昨夜のうちに官報で予習してあったので、式部官より正確に諳んじ、式部官をいくらか複雑な顔にさせた。

 検認官印の交付には、受領簿への署名と、受領の認め印が要った。印を受け取るために印を捺すのはどういう順序なのか、と一瞬考え、考えるのをやめた。四百年続いてきた様式に、下級記録官が口を挟むことではない。

 交付された検認官印は、掌に載る小さな銀の判子だった。軽い。あまりに軽いので、続いた式部官の一言が、すぐには重さと結びつかなかった。

 「――その印は、境界石の再認証に限り、王印に準ずる」

 王印に、準ずる。

 国璽の隣に並べて語られる道具を、テオドール・ブレンナー、二十二歳、下級記録官は、いま自分の掌に載せている。大広間の喧噪が、一拍だけ遠くなった。


   *


 文書監コンラート・ヴィンターの執務室は、書類の峡谷のいちばん奥にあった。

 積み上がった綴りの間を縫って進むと、老いた文書監は机に着いて、別の綴りを読んでいた。テオが入室の礼を執っても、顔は上がらなかった。

 「ブレンナー記録官。君は昨日、大広間で官吏の数を数えていたね」

 「……三百十七名です。癖でして」

 「結構」

 どこで見ていたのだろう。コンラートは綴りを一枚繰り、机の端の書面を、指二本でテオのほうへ滑らせた。

 「辞令だ」

 拝受して、読む。巡回検認官テオドール・ブレンナーを北部路線に充てる。発令者、文書監コンラート・ヴィンター。署名。職印。日付。様式は完璧だった。完璧すぎて、かえって何も読み取れない。

 「北部路線、ですか」

 「不満かね」

 「いえ。ただ、割当の理由をうかがっても」

 「君は、理由のない辞令は受け取れないかね」

 質問に質問が返ってきた。この人と話すといつもこうなる、という噂は、庁内の書記たちの間で台帳より正確に共有されている。

 「受け取ります。様式に瑕疵がありませんので」

 「結構」

 それきり沈黙が落ちた。退出の頃合いと見て踵を返しかけたとき、

 「護衛が付く」と文書監は言った。書類から顔を上げないまま。「主計室で引き合わせる。出立は三日後。検認地の一覧と、中央台帳の検認謄本は、明日、謄本室で受領しなさい。……よい旅を」

 よい旅を、の五文字だけ、なぜか少しゆっくり聞こえた――ような気がした。気のせいかもしれない。テオに読み取れたのはそこまでで、それ以上のことは、この老人の顔のどこにも書かれていなかった。


   *


 主計室の前まで来ると、廊下に怒鳴り声が響いていた。

 「だから、前金の但書を読めと言ってるんだ。『護衛官の装具は自弁とする。ただし官用に供する消耗はこの限りでない』。砥石は装具か? 違うな。剣を官用に振るための消耗品だ。院持ちだ」

 「し、しかし前例が」

 「前例はあたしがいま作ってる」

 窓口に仁王立ちしているのは、上背のある赤毛の女だった。腰の剣は柄革が使い込まれて飴色になり、肩の革帯には古い切創の補修痕が走っている。窓口の主計官は、半泣きで規程集をめくっていた。

 嫌な予感がした。こういう予感に限って、よく当たる。

 「フリーデリケ・アイゼンハウアー」振り向いた女は、テオを上から下まで一度で検分した。「あんたが検認官か。リーケでいい。護衛だ」

 「テオドール・ブレンナーです。一年余の長旅になります。よろしくお願いします、アイゼンハウアーさん」

 「リーケでいいと言った。で――それが仮払願か。見せろ」

 答える前に取り上げられた。元傭兵の女剣士、書類仕事には全力で無関心、と人事の書記から聞かされていた。現に彼女は、テオが型どおり浄書した辞令の写しには一瞥もくれなかった。くれなかったのに、出張旅費仮払願だけは、一行目から検分が始まった。

 「……飼葉料が入ってない。荷駄はラバだろう。ラバは霞を食うのか」

 「官給ラバの飼料は院のうまやが」

 「王都の厩はな。街道に出たら誰が払う。項目を立てろ。それから渡し賃。春は雪解けで増水する。倍額を上限に取って、但書だ。『減水時は実費精算』。蹄鉄の打ち替え、宿の荷置き料、それから雨具の損料――あんた、雨具は自分の外套で済ませる気だったな?」

 「私物で済むものは私物で、と」

 「私物と官用の按分ができるほど、あんたの外套は上等か。損料の枠を取れ。足りない分を懐から立て替える――それを美徳だと思ってるなら、いますぐ捨てろ。立替は帳尻の敵だ」

 リーケは仮払願をテオの胸に押し戻した。

 「書き直し。枠は正しく広く取る。但書で逃げ道を作る。取り過ぎた分は、帰ってから一枚残らず返す。それが正しい仮払だ」

 テオは呆然と、突き返された書面を見下ろした。癪なことに、言っていることが一々正しい。文書院の主計官より精密かもしれない。書類仕事に全力で無関心な人間が、なぜ経費にだけ、これほど。

 「あの。あなたは、書類がお嫌いなのでは」

 「嫌いだ」即答だった。「あたしがしてるのは金の話だ」

 その線引きはテオにはまるで分からなかったが、分からないものは、ひとまず帳外に置くことにした。出張旅費仮払願は都合三度の書き直しになり、三度目を受理した主計官は、なぜか少し泣いていた。

 「……ふん。字は綺麗だな」帰り際、リーケが書面を眺めて言った。

 「恐縮です」

 「褒めてない。綺麗な字で間違った枠を書くやつが、いちばん質が悪い」


   *


 出立の朝、王都アクテンブルクの北門は、春のもやの中にあった。

 官給ラバの七号――院の備品簿にそう載っている――は、検認具と謄本の行李を積まれても平然としていた。歩き出しも従順だった。リーケが手綱を引けば、だが。

 「なぜ、私のときだけ止まるのでしょう」

 「さあな。備品に嫌われる官吏ってのは初めて見た」

 北への官道は十二日。テオは初日の夕方には早くも、この旅の帳尻がそう簡単には合わないことを悟った。

 「規程第百十二条の三。出張中の食費は、一人一日につき銀貨二枚を上限とする」

 「読めるよ。あたしが訊いてるのは、なぜ護衛の上限が記録官と同じかってことだ。あたしはあんたの倍食べる」

 「体格は規程の考慮事項ではありません」

 「じゃあ規程が間違ってる」

 「規程は間違いません。……いえ、正確を期せば、規程に誤りがあった場合の改定手続きは第七条に定めがあり――」

 聞いていなかった。リーケは既に宿の主人をつかまえ、領収書を三枚、日付別に切らせている。主人が最後に認め印を捺すと、印影は紙の上でわずかに沈み、それきり動かなくなった。もう誰の手でも書き換えられない、と紙のほうから言っているのだった。世に言う、印が「利く」というやつだ。竈の火入れの届けから酒樽の封、嫁入り道具の目録まで、この国の暮らしは小さな印で回っている。

 「坊や。夕飯、あんたの上限の分もあたしが食べていいか」

 「よくありません」

 旅は、おおむねこの調子で進んだ。

 三日目に雨が降り、渡し賃は果たして倍になり、リーケは但書の勝利に杯を上げた。五日目の関所では、関守が二人の通行手形に検めの印を捺した。印が利けば本物、利かなければ偽物。関守は文字が読めないそうだが、偽の手形だけは十年間ひとつも見逃していないという。ついでに七号の備品札まで検められ、七号は本物の官給ラバであると証明された。本物は、その晩もテオの言うことだけを聞かなかった。

 七日目には、街道が二つの伯領の境をまたいだ。路傍の境界石は旅人に読まれるために立っているのではないが、テオはいちいちラバを止めて銘を読み、いちいちリーケに襟首を掴まれた。

 「仕事は任地からだ」

 「ですが、いい銘でした。彫りが深く、様式が古典的で」

 「石を褒める男と一年か」

 食費の上限問題は、結局リーケが実力で解決した。上限が動かせないと知るや、宿に着くなり主人と相場の交渉を始め、銀貨二枚の枠の中へ倍量の皿を押し込むのである。値切り倒された主人はなぜか皆、最後には笑って樽の栓を抜いた。規程の内側にこれほどの広さがあることを、テオは十二日間で学んだ。

 夜は夜で、焚き火の前に帳面が二冊開く。テオは検認日誌を書き、リーケは領収書の束を日付順に検める。あるとき、束の向こうから声がした。

 「なあ。石なんか数えて、何が楽しい」

 「数えて、照らし合わせて、一致すると、気持ちがいいのです」

 「……変な坊やだ」

 そう言ったリーケの手元では、領収書が一枚の狂いもなく日付順に揃っていた。どちらが変なのか、テオは記録を差し控えた。

 その夜の検認日誌の末尾に、テオは備考として一行書いた。護衛官、有能。翌朝読み返して、職務記録に私見は不適切だと気づき、二重線で消して訂正印を捺した。消した字が透けて読めるのが、この様式の困ったところだった。

 十二日目の午後、街道が最後の丘を越えると、谷あいに石壁の家々と、豚の声と、麦の若い緑が見えた。

 北部路線、最初の任地。ポルツ村だった。


   *


 ポルツ村の役場は、石造りの一間きりだった。

 「お城から来なさったか」

 炉端から立ち上がった老人は、腰より先に声のほうが曲がっているような、ゆっくりした喋り方をした。村書記、バルタザール・クルムホルツ。歳は七十をいくつか越えているだろう。

 「王立文書院の」

 「お城から来なさったか」老人はもう一度言った。「百年ぶりじゃ。わしの祖父さまが、前の検認の話をようしとった。お城から来なさった、と」

 「巡回検認官の」

 「百年ぶりじゃあ」

 同じ話が三度目に入ったので、テオは職務挨拶を諦めて辞令を差し出した。バルタザールは辞令を炉の明かりに透かし、じっくりと眺めてから返してよこした。読んだ気配は、あまりなかった。

 「まあ、座んなされ」

 役場の台帳は、壁際の棚に詰まっていた。テオは茶を待つ間も惜しんで棚へ吸い寄せられ――そして、立ち尽くした。

 まず、綴じ紐が麻ではない。羊毛の撚り糸だ。文書保存規程第三十一条、公文書の綴じ紐は麻の三つ縒りとする。次に、背に類別の記載がない。代わりに屋号が書いてある。「鍛冶ん家」「橋向こう」「二本楡ん家」。家名の索引は、ない。極めつけに、開いた頁の余白には、几帳面な細字でその日の天候と豚の頭数が書き込まれていた。

 「クルムホルツ書記。これは……この綴りは、その」

 動揺すると規程を諳んじるのはテオの癖である。文書保存規程第三十一条、第三十四条、第四十条の二。ひととおり諳んじ終える頃、バルタザールは澄ました顔で湯を沸かしていた。

 「五十年、こうやっとる」老人は動じない。「家名で綴じてどうする。村の者は互いを屋号で呼ぶんじゃ。帳面はな、使う者の順に並べるもんじゃよ」

 「使う者の、順」

 「お城の連中は紙しか見んからのう。まあ、茶を飲みなされ」

 反論の条文は喉まで出かかっていた。出かかっていたが、テオは頁を三枚めくって、それを茶と一緒に飲み込んだ。記載そのものは、恐ろしく丁寧なのだ。誤記は二重線に訂正印、日付はただの一日も飛んでいない。五十年ぶんの村の暮らしが、癖の強い、しかし読みやすい手跡で、几帳面に積もっている。規程からは外れている。それなのに、帳面としては――正しい、と言いたくなる何かがある。テオの中の分類棚が、収め場所を見つけられずに軋んだ。

 「おまえさん、紙の扱いがええな」不意にバルタザールが言った。「頁をめくる前に、指を拭いたじゃろう」

 「は。癖でして」

 「ええ癖じゃ」

 そこへ、戸口から村の女が首を突っ込んだ。義母ははの漬物甕が開かない、という訴えだった。聞けば、姑が自分の認め印で甕の口を封じたまま湯治に発ってしまったのだという。嫁がいくら結び紐を解こうとしても、指の下で紐は石のように固い。

 「印は、捺した者のものじゃ。捺した婆さま本人でなけりゃ、解けん」バルタザールは湯呑みを置いた。「文を書いて呼び戻しなされ。それとな、次からは嫁と連名で捺すことじゃ。二人の印で封じれば、二人のどちらでも開けられる」

 「お役人さまなら、御命令で開けられんかね」と女は食い下がった。テオは首を振った。

 「印は、官命でも動きません。動いたら、誰も印を信じなくなります」

 女は、来たときより少し明るい顔で帰っていった。国家資格の銘章も、王国の境を守る石も、姑の漬物甕も、根っこは同じひとつの理屈でできている。署名と印章を伴う言葉には、力が宿る――教本の第一頁にあるその文句が、漬物の匂いと一緒に腑へ落ちたのは、テオには初めての経験だった。

 「それで、検認官どの」バルタザールが茶を注ぎ足した。「石は、いつ検めなさる」

 「明日の朝から。村の境界石は十一基と記録にあります。三日で検めます」

 「十一基」老人はゆっくりと繰り返した。「なら、川手の三基から回るがええ。あっちの道は、乾いとるうちに済ませるもんじゃ」

 宿は、と訊けば、村に宿屋はなく、「橋向こう」の後家の離れが空いているという。帳簿に記すべき家名を尋ねると、バルタザールは不思議そうな顔で「橋向こうじゃ」と三度言った。宿泊記録の記載欄をどう埋めればよいのか、テオは着任半日にして早くも王都が恋しくなった。

 離れは掃除が行き届き、夕餉の麦粥は熱かった。宿賃の領収書という概念はこの村に存在しなかったが、リーケが懐から白紙を出してその場で受取証を書き上げ、後家の認め印をもらって解決した。紙がなければ作る。印が利けば正規の証憑。彼女の経費の流儀は、王国のどこでも通用するものらしかった。


   *


 検認の作法は、大検認特別規程に事細かに定められている。

 まず、石の銘を声に出して読み上げる。次に拓本を採る。それから、王都から携えてきた中央台帳の検認謄本と、一字ずつ照合する。一致すれば、検認記録簿の「一致」の欄に印を付け、再認証の署名を入れ、検認官印を捺す。署名は職名、氏名、日付の順。印は署名の裾に半分だけ重ねて捺す。半分は紙に、半分は己の名に責を掛けるためだ、と研修の教官は言っていた。石の契約は、それでまた確かめられたことになる。記録簿には「不一致」の欄もあって、テオはそれを、様式の設計者の几帳面さの表れだと思っていた。

 出がけには、バルタザールが戸口まで見送りに出た。川手の道は乾いとるうちがええ、という助言が三度目だったので、テオも礼を三度言った。

 朝のうちに、川手の一号石。銘、読み上げ。拓本。照合。

 「――一致、です」

 昼前に、二号石。子供が三人と犬が一匹ついてきて、拓本の墨を珍しがった。銘、読み上げ。拓本。照合。

 「一致、です」

 「あんた、『一致です』って言うとき、声が半音上がるな」

 「上がっていません」

 「上がってる。まあいい趣味だ。仕事が楽しい護衛対象は、守りやすい」

 昼餉は後家が持たせてくれた黒麦の麺麭パンと干し肉だった。現物の厚意は経費に計上のしようがない、とリーケが妙な唸り方をし、代わりに薪割りで返すと言い出して、後家の家の薪棚を二冬ぶん積み上げる約束をしていた。

 春の日は長いようで短い。三基目に着いたのは、日が山の端にかかる頃だった。大検認特別規程第十四条、検認記録は当日中に作成する。テオは角灯を灯し、リーケは呆れ顔で薪を集めた。

 川手の三号石は、古い流れの名残の窪地に、半ば苔をまとって立っていた。ポルツの北の境を、四百年、そこで守ってきた石だ。テオは角灯を掲げ、銘を読み上げた。

 「『ポルツの北境は、二本楡の古株より西へ三十歩、涸れ沢の底に沿う』……」

 膝の上で謄本を開く。同じ石の頁。同じ文言。指で追う。

 その指が、止まった。

 ――五十歩。

 謄本には、そう書いてある。二本楡の古株より西へ、五十歩。

 読み間違いだろう。テオは石に向き直り、今度は指で刻みをなぞりながら読んだ。三十歩。拓本を採り直した。三十歩。角灯を謄本に寄せた。五十歩。墨は古く、擦り消しの跡はなく、頁の綴じにも乱れはない。写し誤り――いや、頁の隅には照合印が三つ並んでいる。三人の照合官が読み合わせて、三人そろって見落とす数字ではない。

 石には、三十歩とある。

 台帳には、五十歩とある。

 そして、どちらにも正規の署名があり、正規の印章が捺されている。

 石の周りも検めた。二本楡の古株は現にあり、涸れ沢も現にある。歩測は明朝の光を待つほかない。だが、たとえ歩いて測ったところで、それが示すのは「どちらの文言が土地の現状に合うか」だけだ。文言と文言との食い違いは、地面をいくら歩いても埋まらない。

 あり得ない。謄本は中央台帳から作られ、中央台帳は、この石の銘から書き起こされたはずなのだ。写しとは、一致するから写しと呼ぶのだ。テオの中の帳面から、頁が一枚、音もなく抜け落ちていくような感覚がした。

 不一致の場合の手続きは、ある。あるはずだ。動揺のさなかにも、頭のどこかが勝手に条文を繰っていた。だが、いま欲しいのは手続きではなかった。この世でいちばん信じてきた二つのものが、目の前で初めて食い違っている。その置き場が、テオの中のどこにもなかった。

 「おい」リーケの声がした。「夜露だ。紙が湿気る」

 返事ができなかった。振り向いたテオの顔を見て、リーケは何かを言いかけ、やめたようだった。薪の爆ぜる音だけが、窪地に落ちた。

 角灯の明かりの下、検認記録簿の「一致」と「不一致」の欄が並んでいる。この様式を作った誰かは、不一致というものが起こり得ると知っていた。知っていて、欄を作った。ならば、その誰かに訊きたい。石が誤っているなら、正しい台帳で石を検められます。台帳が誤っているなら、正しい石で台帳を検められます。ですが――どちらが正しいかを検めるための三冊目は、どこにあるのですか。

 石は四百年、動いていない。刻んだ銘は、署名と印章で封じられている。

 台帳は間違わない。台帳は間違わない、という一行から始まる仕事を、テオは今日まで積み上げてきた。

 夜風が、角灯の火を細くした。

 石が、嘘を吐いているのか。それとも。

 ――台帳が、嘘を吐いている。


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