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グレンツシュタイン検認録  作者: 篇乃綴り堂
第三部 名なしの十三日
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第十一話 里程を測る

 夜が明けても、図面の上の村は消えなかった。

 テオドール・ブレンナーは、行李の蓋に広げた検認図面を客間の薄明かりでもう一度検めた。北辺一帯、縮尺千分の一。ゆうべ、自分の指が置いた一点――いまの白い杭の線の南へ一里、辺境伯領のただ中。図面のその場所には、何もない。村の印も、家の印も、かつて何かがあったという注記の一つもない。それなのに、そこには、フィエルミュリという名の村があったという。歌がそう覚えている。

 あってはならない場所に、村がある。

 紙にないものを、テオは信じない。信じないことで、この一年、石と謄本の食い違いを一つずつ検めてきた。だが、信じないだけではもう済まなくなっていた。図面の村は朝が来ても消えない。消えないものを、検認官はいつまでも欄外に置いてはおけない。

 「……起きてたのか」

 毛皮の山からリーケが身を起こした。戸口の番の位置は崩れていない。眠っていて、崩れていない。傭兵の眠り方だった。

 「眠れませんでした」

 「顔に書いてある」リーケは炉に泥炭を足した。「それで。その紙を睨んで、答えは出たか」

 「出ません」テオは図面から目を上げた。「出ないので、測りに行きます」


   *


 昼までに、話は四人と一頭のものになった。

 「もう一度、言ってみて」ルチアが毛織の肩掛けから顔だけ出した。南訛りの悪態を蓄える口が朝から不機嫌に尖っている。「あなたは、いまから、北の――そのまた、北へ、行くと言った?」

 「線を、測りに行きます」テオは図面を畳んだ。「歌は里程を数えていました。白杭より北へ二里、羊の谷。谷より北へ二里、フィエルミュリ。この二里も、あの二里も、里程です。里程は、実際に歩けば測れます。歌が正しいか、地図が正しいかは――どちらも机の上では決まりません。ですが、地面の上でなら決まります」

 「地面が、雪の下でも?」

 「雪の下でも、地面はあります」

 ルチアは天を仰いだ。仰いだところに梁の闇しかなかったので代わりに舌打ちをした。

 問題は、費目だった。リーケが特命別紙を膝に広げ、指で条を追っている。

 「路線外照合の裁量。これは、いい。冬営装備の枠。これも、ある。だが――禁制の帯へ雪の山を登るのは、どの費目だ。『検認の完遂に必要と認める照合』か? あんた、あの白い杭を検認するのか」

 「杭は、検認できません」テオは即答した。「無銘だからです。銘のない石は検認の対象になりません。読み上げる銘も、照合する謄本もないので」

 「なら、なぜ登る」

 「杭は検認できませんが」テオは、そこで自分でも意外なほど落ち着いた声を出した。「杭が、いまある場所は測れます。検認官は、境界が記録どおりの場所にあるかを縄で測る権を持っています。大検認特別規程第二十二条、及び、実測の作法。ポルツ村の三号石で私は縄を張りました。あのときは、石の足元の三十歩を測りました。今度は――線の足元の二里を測るだけです。理屈は、同じです」

 リーケはしばらくテオを見ていた。それから、別紙の余白に鉛の芯で何か書き足した。

 「――『冬季山地における境界実測。護衛官・案内人の危険手当を含む』。枠を広く取る。但書で逃げ道を作る。使わなかった分は、帰ってから一枚残らず返す」彼女は別紙を畳んだ。「案内人が、要る。この山を、経費の勘定だけで登るのは無理だ」

 その案内人は、戸口の外にもう立っていた。

 「客人」

 毛皮の頭巾を目深にかぶったシグリドが、風と一緒に滑り込んできた。細い声は、昨夜の客間のときと同じ細さだった。

 「歌の里程を、地面で検める。……そう聞いた」

 「聞かれましたか」テオは頭を下げた。「はい。あなたの証言を、物差しにします」

 「なら、案内は、わたしがする」シグリドは頭巾を下ろした。物静かな顔の底で、ゆうべと同じ何かが決まっていた。「あの山は、里の者しか道を知らない。里の者でも、たいていは行かない。……でも、行かなければ、村は図面の外のままだ。名を、地面に戻せない」

 「氏族長は」

 「ハルヴァルドは、石を検めることは許した」シグリドの目が、ほんのわずか伏せられた。「線を測ることも――石のうちだと、言えなくはない。ハルヴァルドは、たぶん見て見ぬふりをする。それが、あの人にできるぎりぎりだ」

 書いてはならない歌を、この娘は雪の地面へ写しに行こうとしている。テオは、その決心の置き場を規程のどこにも見つけられなかった。見つけられないので、ただ頭を下げた。

 「よろしくお願いします、シグリドさん」

 「支度を」シグリドは、もう外の空を読んでいた。「明日の朝、風が凪ぐ。凪ぐのは、二日。二日で、往って、還る」


   *


 翌朝、風は言われたとおりに凪いでいた。

 一行は、スケルヴィクの入江を背にして、山へ入った。テオ、リーケ、ルチア。先頭は、シグリド。そして官給ラバの七号が検認具と縄と、二日ぶんの食糧を積んでいる。

 道は、道ではなかった。芝土の斜面が尽きると、岩と根雪の斑になり、やがて根雪が膝を没する雪になった。シグリドは、雪の下の地面を足の裏で読むように進んだ。ここは硬い、ここは踏むな、ここは古い沢の上だ――口数は少ないのに、彼女の選ぶ一歩は一度も雪を踏み抜かなかった。リーケがその足取りを横目で追っている。

 「あんた、雪の下が、見えるのか」

 「見えない」シグリドは前を向いたまま言った。「聞こえる。雪は、下に何があるかで音が違う。……客人の護衛どのは、剣の間合いを目で測らない。あれと、同じ」

 「――なるほどな」リーケはめずらしく素直に頷いた。「あんた、いい傭兵になれたぞ」

 「傭兵は、知らない。わたしは、歌い手だ」

 「同じことだ。危ないところで、頭が冷えてる。それが、生きて還るやつだ」

 昼の休みに、シグリドは雪の斜面へ短い時間だけ姿を消し、白い野兎を二羽と、氷の下から掬った小魚をひと掴み当たり前の顔で持ち帰った。銅貨は一枚も動かなかった。リーケが感に堪えたように唸った。

 「――経費で、落ちない食糧だ。いちばん、安い」

 「北は、山が財布だ」シグリドは兎の皮を剥ぎながら言った。「財布に、心付けは、要らない」

 「あんたとは、うまい酒が飲めそうだ」

 テオは、その二人の脇で縄の結び目を検めていた。氷が縄に噛んで目盛りが読みにくい。ルチアは肩掛けにくるまり、それでも膝の布包み――鑑定の道具一式――だけは離さなかった。

 「北の生まれか」リーケが、兎を火にかざしながらシグリドに訊いた。

 「そう。ソルケルの娘だ」シグリドが問い返した。「護衛どのは」

 「街道生まれだ」リーケは火を見たまま言った。「物心ついたときにはもう荷駄の上にいた。どこの生まれかは、知らん。荷駄隊が拾って育てた。……街道で二十年、というのは、数え間違いじゃない。ほんとうに、二十年だ」

 シグリドはそれきり訊かなかった。訊かないことがこの二人の作法らしかった。テオは、縄の目盛りから顔を上げず、けれど耳の隅で、その短いやりとりを日誌の綴じ目のような場所にそっと挟んだ。


   *


 山の背が変わったのは二日目の朝だった。

 尾根を一つ越えると、風がやみ、音がやんだ。落葉松はとうに尽き、白い斜面が、空の下へなだらかに広がっている。その斜面の、はるか向こうの稜線に――白い点が、等間隔に、並んでいた。

 白い杭の線だった。

 峠から遠望したあの線を、テオは、いま同じ高さで見ていた。近づくにつれ、点は一本ずつの杭になった。人の背より高く、雪をかぶり、何も刻まれていない。無銘の白。四百年、この山際を、東西へ、目の届く限り区切ってきた線である。

 その、手前で、七号が止まった。

 テオが引いても動かないのは、いつものことだ。だが今度は、リーケが引いても、シグリドが宥めても、ラバは一歩も進まなかった。耳を後ろへ倒し、鼻先を白い線のほうへ向けて、喉の奥で細く長い声を漏らしている。渡しのほとりで方位銘が狂った、あの朝と同じ声だった。

 「ここまでだ」シグリドが手綱を岩に結んだ。「獣は、賢い。賢いから、あの向こうへは、行かない。荷は、ここから、人が負う」

 テオは懐の方位銘を取り出した。掌ほどの銘牌。中央の針は、北を刻んだ銘に利いていつでも北を指す――はずのものだった。

 針は、回っていた。

 北を指しては流れ、流れては戻り、また流れる。渡しのときのような、迷う揺れではない。もっと、大きく、静かに、針は、どこも指すまいとするように、回りつづけていた。テオは牌を伏せ、掌で温め、開いた。針は、また回りはじめた。

 「銘が、利きません」テオは低く言った。「渡しより、ずっと。……ここでは、北が、決まらない」

 テオの頭の中で、南の小講堂で聞いた老学者の声が勝手に鳴った。北の山際の一帯にだけ、大帳簿が、地の表に剥き出しになっている場所がある。伝票が要らぬ場所。ただ書けば、ただ強く念じれば、それがじかに記帳されてしまう場所。行った者は、たいてい、帰ってこん――露頭。証拠は一つもない、異端の仮説だ。だが、この斜面では、書かれたものの効き目が、崖から落ちるように薄れていた。まるで、ここだけ、時間の外にあるように。

 テオは、日誌を開こうとして、手を止めた。

 開いて、何を書くのか。この線の下に立っている、と書くのか。ここへ来た、と書くのか。――強く念じれば、じかに記帳される。もし仮説がほんとうなら、ここで軽々しく紙に落とした一行は、どこへ行くのか。生まれて初めて、テオは、書くことがこわかった。書くことで生きてきた男が、書く手を止めていた。

 「客人」

 シグリドが、隣に来ていた。声が、いつもより、さらに細い。

 「ここから先は、声を張ってはならない。歌っては、ならない」彼女は白い線のほうを見なかった。「里の掟だ。理由は、誰も言わない。ただ――あの向こうで大きな声を出した者は、還ってこない、とだけ。だから、わたしは、ここでは、歌わない」

 歌い手が、歌わない。名を歌わなければ村は二度死ぬ、と言ったこの娘が、村へいちばん近い場所で、口を噤んでいる。その沈黙の重さを、テオは量りかねた。ハルヴァルドの言葉が頭をよぎった。歌は、署名より古い。古いものは、古いなりの器で運ぶ。ここは、その器を開いてはならない場所なのだ。たぶん。

 「――分かりました」テオは声を落とした。「静かに、測ります」


   *


 白い杭の線を、一行は南へ越えた。

 越えると、斜面は少しずつ下りになった。方位銘の針が、ふらつきながらもまた北を探しはじめる。効き目が、戻ってくる。線の向こう側――辺境伯領の側へ、テオたちは、一歩ずつ下りていた。

 「シグリドさん」テオは声を殺した。「歌のとおりなら、村はこの線の南へ一里です。谷は、南へ三里」

 シグリドは、雪の斜面を目で測った。

 「あの、二つの岩のあいだ。窪んで、平らになっている」彼女は指した。「あそこが、谷だ。羊の谷。……歌が、そう言っている」

 三里を下ると、雪の下から平らな窪地が現れた。夏なら草の生えるなだらかな谷である。いまは、ただ白い。テオは検認図面を出し、この目で見た地形を、細い鉛の線で図面の羊の谷に重ねた。合った。図面の谷と、目の前の谷が、寸分たがわず重なった。谷は、確かに辺境伯領の側にある。図面のとおり、線の南だ。

 だが、歌は、この谷を「白杭より北へ二里」と数えていた。

 「ここから」テオは縄を解いた。「南へ、二里。歌が、この谷を『白杭より北へ二里』と数えるなら、歌の白杭は、この谷の南へ二里にあったことになります。その跡が雪の下に残っているはずです」

 リーケが縄の一端を持ち、テオが歩測で補い、シグリドが雪の下の傾きを読んで、直線の狂いを正した。山道の二里は、平地の二里よりずっと短い。一里は、大人の足で、一刻ぶんの道のり。山では、その半分。四半刻を二つ、雪を掻き分け、縄を張り直し、また掻き分けた。ルチアは、後ろから南訛りで数を数えていた。数えることだけは、彼女は決して手を抜かなかった。

 二里の終わりに、雪の下から、苔むした岩の帯が現れた。

 いや、岩ではなかった。

 テオは膝をつき、手甲で雪を払った。苔を剥いだ。その下に――穴があった。円い、人の手で穿たれた穴。底に、黒く朽ちた木の根のようなものが残っている。半歩、横へ動いて、また雪を払う。もう一つ、同じ穴があった。等間隔に。東へ、西へ、雪の下を、まっすぐに。

 「杭の、穴です」テオの声が、掠れた。「朽ちた杭が、まだ、底に残っている。……等間隔に、東西へ。これは、線です。杭の、線です」

 ルチアが布包みを開いた。皮肉屋の顔から、皮肉がすっかり抜けていた。彼女は朽木の一片を穴から抓み出し、陽にかざし、匂いを嗅ぎ、割れ口を拡大鏡で検めた。

 「……古い」やがて、彼女は言った。「向こうの、白い杭より、ずっと古い。この朽ち方、この向きの風の当たり方――百年やそこらじゃない。この木は、何百年も、この穴に立っていた。まっすぐな、線として」

 白い杭の線が、二本、あった。

 いまの、無銘の白い線。そして、その南へ二里、苔の下に眠る、もう一本の、朽ちた線。

 テオは、縄を、その朽ちた線から、いまの白い線まで張り渡した。谷を越え、村のあるはずの場所を越え、下って、また上って。歩測が、縄を補った。数字が、出た。

 「――五里」テオは、日誌ではなく、雪の上に指で書いた。「朽ちた線から、いまの白い線まで、山道にして、五里。徒歩、半日。……線は、南から、北へ、五里、動いています」

 誰も、口をきかなかった。

 歌は、正しかった。白杭より北へ二里、羊の谷。それは、朽ちた線を基準にすれば寸分たがわず正しい。谷は、朽ちた線の北へ二里にある。村は、その北へ二里。歌が数えていたのはいまの白い線からの里程ではなかった。百年前まで、そこにあったもう一本の線からの里程だったのだ。

 線が、動いた。動いた線の内側へ――羊の谷も、消えた村も、みな、辺境伯領の側へ、囲い込まれた。ヴェンデル老人の羊が、入会いりあいの草地を失ったのと、同じことが、ずっと大きな尺で、この山際に起きていた。テオは、雪の上に指で書いた「五里」の字を、掌でそっと消した。ここでは、強く書いてはならない。だが、消しても、五里は、地面に残っていた。


   *


 撤収にかかった、そのときだった。

 リーケが、剣の柄に手をかけて白い線の側の尾根を見上げた。

 「上に、いる」

 尾根の雪庇の陰から、白い外套の騎影が、三つ。馬は雪に脚を取られて使えず、男たちは徒歩で斜面を下りてくる。先頭の上背には見覚えがあった。ポルツで、渡しで、二度、リーケと剣を合わせた相手。フェルンブルク家従士、クルト・アシェンバッハ。

 辺境伯領の側で、辺境伯の従士に出会った。当然だった。ここは、囲い込まれた土地の内側なのだ。

 「図面を」リーケが短く言った。「テオ、図面と日誌を、懐へ。ルチアは、道具を。シグリドは――こいつらの足場を、教えてくれ。どこが、崩れる」

 シグリドの目が、斜面を素早く走った。

 「そこ。彼らの、真上」彼女の声が、初めて緊張で硬くなった。「雪が、乗りすぎている。斜面が、この二日の凪で緩んでいる。……大きな声も、大きな足音も、いけない。あの向こう側だけの掟じゃない。この斜面は――音で、落ちる」

 クルトが、剣を抜いた。抜いて、動かなかった。渡しのときと同じ、間合いを測る抜き方だった。彼は何も奪いに来ていない。ただ、テオたちが「測り終えた」ことを確かめに来たのだ。測り終えた者を、どうするかはその次の話だった。

 「――そこまでに、していただきたい」テオは、声を精一杯低く保った。「この斜面は、崩れます。あなたも、私たちも、雪の下です。剣は、雪には勝てません」

 クルトは、答えなかった。従士の一人が、じれて、斜面を一歩踏み込んだ。

 その一歩が、大きすぎた。

 地の底で、太い布を裂くような音がした。テオの足の裏から、それは伝わってきた。シグリドが、叫ばなかった。叫ぶ代わりに、テオとルチアの襟首を掴み、横の岩の張り出しへ、力いっぱい突き飛ばした。リーケは、逆に斜面へ半歩踏み込み、じれた従士の胸倉を掴んで、同じ岩陰へ、投げ込むように引き倒した。敵の男を、である。

 白い斜面が、上から、静かに、動きだした。

 音は、意外なほど、なかった。ただ、地面そのものが、白い川になって、下へ滑り落ちていく。クルトが、部下の一人を掴んで、雪庇の岩へ跳ぶのが、白い流れの縁に、一瞬見えた。それきり、雪煙がすべてを白く塗り込めた。

 張り出しの岩陰で、テオは、ルチアの布包みと、自分の懐の図面を両腕で庇っていた。頭上を、雪の川が、地響きだけを残して越えていった。シグリドが、テオとルチアを岩へ押さえつけたまま、目を閉じて、何かを声に出さずに、唇だけで数えていた。三つ、数える結びのように。頭を、冷やすように。

 雪が、鎮まった。

 どれくらいの時が経ったのか。雪煙が薄れると、斜面は様変わりしていた。さっきまで男たちの下りてきた道は、白く均されて、消えていた。リーケが、投げ込んだ敵の従士の襟を掴んで雪から引き起こす。男は、抗う気力もなく、ただ、荒く息をしていた。

 「クルトは」テオは訊いた。

 「岩へ跳んだ」リーケが尾根を見上げた。「あいつは、生きてる。ああいうのは、簡単には死なん。……だが、今日は、もう来ない。斜面が、道ごと、消えた」彼女は、引き起こした従士を雪の上へ座らせた。「こいつは、置いていく。凍える前に、仲間が拾うだろう。……剣は、川へ、投げておく」

 シグリドが、目を開けた。唇の、声にならない数えが止まっていた。彼女は、テオとルチアから、そっと手を離した。

 「……無事か」

 「無事です」テオは懐の図面を確かめた。折れても、濡れてもいない。「あなたが、突き飛ばしてくれなければ」

 「歌わずに、黙っていたから、聞こえた」シグリドは、白く均された斜面を見た。「あの音が。……村へいちばん近い場所で、黙っているのはこういうときのためだと、祖母が言っていた。声を惜しめ。惜しんだ声の分だけ、耳が、開く」

 リーケが、めずらしく、シグリドの肩を一度だけ、叩いた。

 「――いい共だ」彼女は言った。「あんたとなら、次も、生きて還れる」


   *


 その晩、一行は、七号の待つ岩陰まで下りて火を焚いた。

 ラバは、四人が揃って戻ると、ようやく耳を立て、鼻を鳴らすのをやめた。シグリドが解いておいた荷から、二日ぶんの食糧の残りが出た。ルチアは、肩掛けの奥で、まだ手が震えていると言い張って干し肉を二切れ余計に取った。誰も、それを咎めなかった。

 テオは、火から少し離れて、図面と日誌を膝に広げた。ここまで下りれば、書いてよい。方位銘の針も、迷いながら北を指している。

 書くべきことは、一つだった。線は、南から北へ、五里、動いた。

 だが、その一行を書くと、次の問いが、当然のように、頁をめくって出てきた。

 誰が、動かしたのか。

 白い杭は、無銘だ。無銘だから、動かしても、どの台帳にも痕が残らない。テオは、この一年、線そのものの記録を探して見つけられなかった。当然だった。載っていない線は、動かしても、載っていない。線を、いくら繰っても、動かした者は出てこない。

 だが――と、テオは思った。

 線を動かした者は、線だけを動かして済ませたわけではない。動いた線に合わせて、北辺の謄本を書き換えた者がいる。石とずれる向きに、六つの謄本を静かにずらした者が。石は動かせない。石は、四百年、正しく刻んで、そこにある。動かせるのは、写しのほうだ。中央の、検認謄本のほうだ。

 検認謄本に、手を入れられる者。

 それは、検認官だ。

 テオの背を、火の暖かさとは別のものが伝った。中央台帳の検認記録に、正規の署名で手を入れられる者は、この国にそう多くはない。まして、北辺一巻を、まとめて。それができるのは、その巻を検めた検認官――百年に一度、その路線を任された者だけだ。

 百年前。

 効き目は、三代、百年で崖に来る、とアウレリオは言った。北辺の謄本が、いま崩れはじめている。崩れが、ちょうど百年めに噴き出しているなら、書き換えられたのは百年前だ。百年前の検認は――第四回の、前。第三回大検認である。

 テオは、日誌を繰った。携えてきた検認地の一覧。中央台帳の目次の写し。北部路線の歴代の検認の記録。だが、そのどれにも、百年前に北部路線を検めた検認官の、名は載っていなかった。目次の、その頁だけが、なぜかそっけない。第三回、北部路線――担当、と記された、その先が、空白に近い。

 火が、爆ぜた。

 入江のほうで、氷が、長く、鳴いた。

 テオは、日誌の新しい頁に静かに書いた。線は、南から北へ、五里。書いて、筆を止めた。その下に、もう一行を書きたかった。だが、書くべき名を、テオは持っていなかった。

 ――第三回大検認、北部路線。その検認官の名を、テオは、まだ知らない。


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