第十話 冬館の歌
通行手形は、テオドール・ブレンナーの手の中で、まだ宙に浮いていた。
北の関は、紙を受け取らない。年かさの見張りは槍を立てたまま、海と氷の色の目で、一行を見下ろしている。百年前も、王国は、そう言うて検めに来た――その一言が、峠の風より冷たく、まだそこに残っていた。
テオは、差し出したままの手形を、自分の目でもう一度検めた。様式に瑕疵はない。署名、職印、関の検めの欄。欠けているのは、受け取る手だけだった。受け取られない紙は、様式がどれほど正しくても、ただの紙である。この旅の間に、テオは日付のない紙を二度受け取った。受け取られない紙は、これが初めてだった。
テオは手形を畳み、懐へ納めた。
「では、教えていただけますか。この関を、紙で通れないのなら――あなたがたの作法では、旅の者は、どうやって通るのですか」
見張りの青い目が、初めて、わずかに動いた。
「……作法を訊いた王国の役人は、おまえが初めてだ」
作法は、あった。名と、用向きと、空の手。旅の者は氏族長の館を訪ね、塩と火を乞う。塩と火を受けた者は客人であり、客人は館の名にかけて守られる。ただし刃は、柄を紐で封じる。それだけだった。
「その掟は、どちらに書かれていますか。写しを検めたいのですが」
「書かん」見張りは短く言った。「書いた紙は、燃える」
テオは、返す言葉を探して、見つけそこねた。紙は焼ける、だから一冊は離して置く――ポルツの床下の、あの穴倉の理屈が、頭の隅で軋んだ。同じ問いに、北は、まるで逆の答えを出している。焼けるものには、初めから書かない。では、どこに書いてあるのか。それを訊く前に、リーケが剣の柄に革紐を巻きはじめた。結び目は複雑で、しかし彼女の指は迷わなかった。
「あなたは、この結びをご存じなのですか」
「街道で二十年だ。北の傭兵と組んだ冬もある」リーケは結び終えた柄を検分した。「平和紐だ。解くのに三つ数える。三つ数える間、頭が冷える。……悪い掟じゃない」
ルチアは毛皮の肩掛けの中から、革紐と槍と青い目を等分に眺め、「最悪。紙のない国」とだけ言った。言ったが、その目は、鑑定のときの目だった。
関の丸太が、内へ開いた。
峠を下ること二日、道は雪と岩の間を縫い、やがて風の匂いが変わった。塩の匂いだった。眼下に、鈍色の入江が細長く口を開け、その最奥に、石と芝土で葺いた低い屋根が身を寄せ合っていた。屋根の一つは他より長く、棟から泥炭の煙が真っ直ぐに昇っている。
北の旧領イスフィヨルド。その東の外れ、氷海が細く陸へ喰い込む入江の奥に、石屋根を寄せ合う小さな集落があった。名は、スケルヴィク。あの長い屋根が、氏族長の冬館だった。
*
冬館の中は、外より暗く、外より暖かかった。
床に切られた長い炉に泥炭が熾き、梁の高い闇に煙が溜まっている。壁際の長椅子に男たちが座り、その一番奥、高座に、白いものの混じった鬚の大男がいた。氏族長ハルヴァルド・エイナルソン。歳は六十をいくつか越えているだろうに、肩幅は戸口ほどもあった。
塩と火の儀は、短かった。
木の小皿に粗塩がひとつまみ。炉から折った、火のついた泥炭がひとかけ。ハルヴァルドは自らそれを捧げ持ち、客人の前に置いた。テオは見よう見まねで塩を舐め、火に手をかざした。リーケとルチアが続いた。それで、終わりだった。署名も、印章も、立会人の欄もない。あるのは塩の辛さと、火の熱だけである。
「塩と火は、遣わした」ハルヴァルドの声は、氷の下の海のように低かった。「今宵より、おまえたちはこの館の客だ。客人よ、名と用向きを」
「王立文書院、巡回検認官、テオドール・ブレンナーです。大検認の職務により、貴地に立つ王国の境界石を、検めに参りました」
「王国の、検めか」
氏族長は、関の見張りと同じ言葉を、同じ調子で繰り返した。館のあちこちで、男たちの座り直す音がした。
「石は、そこにある。検めるがよい。石は嘘をつかん。……だが、わしらの帳面は出さん。北は、紙を飼わんのでな」
「承知しました。石だけで結構です」
「物分かりのよい役人だ」ハルヴァルドの目は、笑っていなかった。「百年前も、王国は、そう言うて検めに来た。検めるとは、貸し借りを数え直すことであろう、客人よ。……百年前に数え直して、北へ何が返った。わしは知らん。わしの祖父も、知らなんだ」
館が、静まった。炉の泥炭が、低く音を立てた。
「……存じません」テオは言った。「何が返るはずだったのかも、私はまだ知りません。知らないものを、返ったはずです、とも、返らなかったのでしょう、とも、私は申せません。数えていない帳尻を、口にしない。それだけが、私の作法です。――ですから、検めに参りました」
沈黙が、一拍、長かった。
ハルヴァルドは、鬚の奥で、何かを噛むように黙っていた。それから、高座の背に体を戻した。
「……変わった役人だ。百年前のは、もっと、よく喋ったと歌われとる」
歌われている。書かれている、ではなく。テオの耳は、その言い回しを、帳面の隅に書き留めるように覚えた。
「今宵は宴だ」氏族長は手を挙げた。「客人を飢えさせては、掟が廃る。食え。飲め。北の冬は、それからだ」
*
宴は、羊の骨付き肉と、黒い麦酒から始まった。そこまでは、よかった。
異変は、樽ほどもある木の壺が運ばれてきたときに起きた。若者が二人がかりで蓋を開けた途端、冬館の空気が、目に見えて変わった。匂いである。強いていえば、革と、磯と、この世の終わりを煮詰めた匂いだった。
「冬の魚だ」隣の男が誇らしげに言った。「三年、土に埋けた。客人から食うのが掟だ」
テオは、木匙に載ったそれを見下ろした。頭の中で、諳んじられる限りの規程が、猛烈な速さで繰られた。出張中の食費の上限。謝礼と饗応の禁止。傭上への準用。――どの条文も、これを断る根拠をくれなかった。大検認特別規程は、辺境の検認官を、何一つ守ってくれなかった。
「……いただきます」
味は、匂いのとおりだった。ただし匂いの三倍濃かった。テオの目の縁に滲んだものを、館の男たちは大笑いで迎え、なぜか麦酒を注ぎ足してくれた。泣いた客人は見込みがある、という掟らしかった。
リーケは、同じものを三匙、続けざまに平らげた。
「悪くない。腐りの角度がいい」
「角度、とは」
「腐りかけと、腐りの間に、うまい線が一本ある。これは線の上だ」
北の男たちが、どよめいた。以後、リーケの周りにだけ、壺が置かれた。
ルチアは、匂いを一嗅ぎして「最悪」と宣告し、羊に専念した。ただし壺の木肌と封じ方は仔細に検分し、「三年は、嘘じゃないわね。木の脂の抜け方が、それくらい」と誰にも頼まれない鑑定を下した。嘘でないと分かって喜ぶ者と、食えと迫る者で、彼女の周りも騒がしくなった。
悶着は、腕相撲だった。
麦酒が回った大男が、卓を叩いてリーケを指名したのである。護衛は面倒くさそうに袖をまくり、面倒くさそうに、三人抜いた。四人目は年寄りが止めた。「やめとけ。腕が飯を食えんようになる」。冬館は、割れるように沸いた。敗れた大男が、なぜか一番うれしそうにリーケの杯へ麦酒を注いだ。強い客人は、館の誉れであるらしかった。
七号は七号で、厩のほうで一仕事していた。北の子供らに囲まれ、干し草を山と食み、たてがみを好きなだけ編まれて、されるがままになっているのだという。様子を見に立ったテオが手綱に触れると、官給ラバは一歩も動かず、子供が引くと歩いた。備品に嫌われる官吏の噂は、その晩のうちに冬館の隅々まで知れ渡り、テオは北の男たちに、初めて名前で呼ばれ、肩を叩かれた。笑われて縮まる距離というものが、この世にはあるらしかった。
その喧噪の隅で、テオは一人、検認日誌と睨み合っていた。
この宴を、どの欄に載せるか。職務に係る饗応は受け取れない。だが、これは饗応ではなく、掟である。断れば侮辱にあたり、侮辱は職務の遂行を不能にする。ならば受領はやむを得ない。やむを得ないなら、相当額を算定して――算定して、テオの筆が止まった。塩ひとつまみと、火ひとかけと、三年物の冬の魚。相場が、この世のどこにもない。
「坊や。何を唸ってる」
「宴の、相当額を」
「掟に、値札はない」リーケは杯を置いた。「これは謝礼じゃない。塩と火だ。断れば戦で、戦のほうが高くつく。帳簿に載らん取引ってのは、あるんだ。……あたしも、南で習った」
テオは、しばらく考え、日誌の備考欄に小さく書いた。掟により受領。相当額、算定不能。――算定不能、という四文字を公文書に書いたのは、生まれて初めてだった。書いてみると、思ったより、腹は痛まなかった。
そのときである。
館の奥で、誰かが泥炭を継ぎ足した。火が一段静かになり、煙の匂いが変わった。男たちが、申し合わせたように声を落としていく。誰かが言った。「歌だ」。別の誰かが言った。「シグリドを」。
冬館が、ひとつの耳になった。
*
進み出たのは、若い娘だった。
細い。声も細いだろうと思われた。娘は炉の火明かりの縁に立ち、館を見渡すでもなく、手を組むでもなく、ただ立った。それから、歌う前に、こう言った。
「――わたしはシグリド、ソルケルの娘。歌は祖母より受け、祖母はその師より受けた。冬の初めの夜に、羊の谷の歌を」
名乗りだった。誰に向けたものとも知れない。聴衆に、というには、目が誰も見ていない。テオは、歌より先に、その作法に指を止めた。歌う前に、名と、系譜を名乗る。署名は文の裾に置くものだが、この名乗りは、歌の頭に置かれている。順序は逆でも、していることは――いや、と思考を戒めた。まだ、何も聴いていない。
シグリドが、歌いはじめた。
細い声だった。細いのに、梁の高い闇の隅々まで、まっすぐに届いた。節は古く、言葉も半ば古語で、それなのに、なぜか一語ずつ、意味が胸に落ちた。誰も杯を取らない。あれほど騒がしかった冬館で、いまは泥炭の燃える音が聞こえた。
歌は、夏を歌っていた。雪解けに羊を追って高地へ上る、昔の夏の日々である。乾し草の山に子供が眠り、橋の下で鱒が跳ね、夕べには谷のあちこちから、夏の野営の煙が細く昇っていく。誰かの暮らしの、なんでもない一日一日が、古い節に載って、梁の闇を渡っていった。やがて歌は、道のりを数える段に入った。
――白杭より北へ二里、羊の谷。
――谷より東へ一日、九つ橋。
テオの手が、膝の上で止まった。
白杭より、北へ二里。
頭の中で、頁の繰られる音がした。検認図面、北辺一帯、縮尺千分の一。羊の谷という地名は、確かにある。この目で図面に読んだ。あるが――それは白い杭の線の南側だ。線から南へ三里、辺境伯家の私領のただ中である。そして歌は、杭の北で羊を放し、乾し草を積み、九つ橋の下で鱒を捕った日々を、当たり前の暮らしとして歌っている。杭の北は、建国このかた、誰ひとり立ち入れないはずの土地だ。
歌が間違っているのか。地図が間違っているのか。
どちらかが、嘘を吐いている。
歌は、谷の段を歌い終え、次の段へ渡るかに見えた。渡らなかった。節が、切り株のような断面を見せて、ふつりと終わった。館の男たちは、当たり前の顔で杯を取り直した。昔からそこで終わる歌なのだ。終わりを不思議がったのは、おそらくテオ一人で――いや、もう一人。歌い終えたシグリドの目が、ほんの一瞬、終わりの先の闇を見た。見た、ように見えた。
宴の輪の中で、テオひとりが凍りついていた。リーケが横目でそれに気づき、杯を持ったまま、何も言わなかった。
*
テオは、立ち上がっていた。
「シグリドさん、と申されましたか。いまの歌を――検認の記録として、写させていただけませんか」
冬館が、一瞬、意味を測りかねて静まり、それから、笑いが弾けた。
「聞いたか。歌を、写すとよ」
「歌に判子が捺せるかい、お役人」
「歌は酒の肴だ。役所の紙にはならんよ」
悪意のない笑いだった。悪意がないぶん、根が深かった。自分たちの歌は紙にならない、と、北人自身が一番先に笑っている。その笑いの中で、年長の男が一人、笑わずに立った。
「――王国は、百年前、紙で北を検めた」低い声だった。「石を検め、紙に写し、持って帰った。今度は、歌まで持って帰るか」
笑いが、退いた。炉の火だけが、変わらずに燃えていた。
「持ち帰るのではありません。照らし合わせたいのです」テオは、退かなかった。退けなかった。「いまの歌は、道のりを数えていました。里程と、方角と、日数を。私はこの一年、王国の北辺の台帳を検めて歩きましたが――あの歌より正確な節で数えられた帳面を、一冊も知りません。正確に数えられたものを、私は、記録と呼びます。呼ばずにいられないのです」
ざわめきが、妙な形にねじれた。褒められたのか、奪われかけているのか、館が決めかねている。シグリドは炉の縁に立ったまま、組んだ手を胸の前で握り込んで、目を伏せていた。
「客人よ」
高座から、ハルヴァルドの声が落ちた。館が黙った。
「歌を紙に写すことは、ならん。この館では、ならん」
取り付く島のない断だった。テオが引き取るべく頭を下げかけたとき、氏族長の声が、笑った男たちのほうへ向き直った。
「――それから、笑うな」
誰も、もう笑っていなかった。それでもハルヴァルドは言った。
「歌に印はない、とおまえたちは笑う。判子の国の客人の前で、先回りして笑う。……覚えておけ。歌は、署名より古い」
署名より、古い。
テオは、その言葉の意味を測ろうとして、測りきれなかった。古いから尊い、という自慢の言い方ではなかった。もっと乾いた、たとえば規程の条番号を読み上げるときのような、事実の言い方だった。
「古いものは、古いなりの器で運ぶ。それだけのことよ」ハルヴァルドは、それきり話を畳んだ。「宴は仕舞いだ。客人は、休むがよい」
男たちが立ち、長椅子が鳴り、冬館は寝支度の館に戻っていった。テオは頭を下げ、下げながら、炉の縁を目の隅で探した。
シグリドは、もういなかった。
*
客間は母屋の端にあり、泥炭の小さな炉が切ってあった。
夜半、その戸が、遠慮がちに三度、叩かれた。
戸口の内で番をしていたリーケが、先に気配で気づいて、テオを見た。開けると、毛皮の頭巾を目深にかぶったシグリドが、風と一緒に滑り込んできた。ルチアは毛皮の山の中で寝息を立てている。娘は炉の前に膝を折り、頭巾を下ろし、しばらく火だけを見ていた。
「……客人は、歌を、記録と言った」
「言いました」
「嗤わずに」
「嗤う理由が、ありません」
シグリドは、火から目を上げた。物静かな顔の底で、何かが決まるのが見えた。
「あの歌には、続きがある」
声は、細いままだった。細いまま、まっすぐだった。
「宴で歌う段は、谷で終わる。昔からではない。……終わらされてから、昔になった。続きの段は、歌ってはならないと、長たちが禁じた。何代も前のこと。理由は、誰も言わない。歌えば禍がある、とだけ」
「あなたは、その続きを」
「祖母に、習った」シグリドは、炉の火へ、言葉を一つずつ置くように言った。「祖母のアスヴェイグは、あの続き歌の村の生まれ。村は、祖母が幼い頃に、失われた。どう失われたのかは、祖母も多くを語らなかった。訊けば、竈の火だけを見て、黙った。……ただ、続き歌だけを、夜、家の者がみな寝てから、声を殺して、わたしに遺した。譜面はない。書いてもならない。ひと冬かけて、一節ずつ、口から口へ。名を歌わなければ、村は二度死ぬ、と言って」
名を歌わなければ、村は二度死ぬ。
テオは、動かなかった。動けば、この細い声が途切れる気がした。
「一度目は、村が失われたとき」シグリドの声が、さらに低くなった。「二度目は、名を覚えた最後の口が、閉じるとき。……祖母は死んだ。いま、あの名を持っているのは、わたし一人。わたしが落とせば、名は、それきり」
彼女は、息を吸った。
「客人。歌ってもいいか。ここでなら、館の歌ではない。わたしの声だ」
テオは、リーケを見た。リーケは戸口で、外の気配を測り、それから、頷くかわりに戸に背を預けた。誰も近づけない、という意味だった。
シグリドは、歌った。
囁くほどの声だった。それなのに、宴の歌と同じく、一語ずつ、まっすぐに届いた。続き歌は、谷の先を歌っていた。
――谷より北へ二里、フィエルミュリ。
――泥炭の煙、九つの竈。井戸はふたつ、舟は五艘。
歌は、数えていた。竈の数を。井戸の数を。舟の数を、橋板の数を、冬を越すための干し魚の棚の数を。家々の名が、ひとつずつ、節に乗って呼ばれた。テオは、膝の上で拳を握った。これは歌ではない。いや、歌だ。歌のかたちをした――村の台帳だ。生まれた者を記帳し、建った家を記帳し、それを節に刻んで、代から代へ、口から口へ写してきた、焼けない台帳だ。
歌が、終わった。
「……フィエルミュリ」テオは、その名を、壊れ物のように受け取った。「それが、村の名前ですか」
「そう」シグリドは頷き、それから、初めて声を震わせた。「客人。わたしは、名乗りを、半分しか名乗ったことがない。宴では、ソルケルの娘、とだけ。……祖母は言った。歌い手の名乗りは、系譜のすべてを名乗るのが古式だと。なら、わたしの名乗りは、本当は、こうだ」
娘は、背筋を立てた。
「――わたしはシグリド、ソルケルの娘、フィエルミュリのアスヴェイグが孫」
炉の火が、小さく爆ぜた。
「……生まれて初めて、人の前で、そう名乗った」
その声の震えの置き場を、テオは持たなかった。規程のどの条にも、なかった。だから、検認官にできる唯一のことをした。
「シグリドさん。歌は、写しません。館の掟です。……ですが、歌ではなく、あなたの言葉として、伺いたい。谷から村までの道のりを、あなたの口から、証言として、いただけますか」
シグリドは、テオを見た。長いこと、見た。
「谷より、北へ二里」やがて彼女は言った。「歌ではない。わたしの言葉だ」
「記録します」
テオは日誌を開き、日付と、証言者の名と、その一行を書いた。書き終えて、顔を上げると、娘はもう頭巾をかぶっていた。戸口で一度だけ振り返り、風と一緒に、出ていった。
*
テオは、眠らなかった。
炉に泥炭を一つ足し、卓の代わりの行李の蓋に、検認図面を広げる。紙の音で、毛皮の山からルチアが顔を出した。文句を言いかけて、テオの顔を見て、やめた。黙って起き出し、図面の反対側を押さえた。
北辺一帯、縮尺千分の一。テオはまず、峠から遠望したあの白い点列の位置を、自分の観測から、細い鉛の線で図面に引き入れた。稜線との重なり、谷の切れ目、この目で測った見当。台帳のどこにも載っていない線が、テオの手で、初めて紙の上に載った。
次に、歌だ。
白杭より北へ二里、羊の谷。歌のとおりに置くなら、谷は、いま引いたばかりの線の北、禁制の帯の中に落ちる。だが図面には、羊の谷は初めから描かれている。線の南へ三里、辺境伯領の中だ。同じ名の谷が、紙の上で、二つに割れた。
「……歌の白杭と、いまの白杭が、同じ場所とは、限らない」
声に出すと、南の講堂で自分が口にした問いが、氷の下から浮き上がってきた。あの白い杭の線は、最初からあの場所にあったのか。テオは、その問いを、もう一度、静かに伏せた。測っていない。測っていない数字を、検認官は書けない。
書けるものが、一つだけあった。
シグリドの証言である。谷より、北へ二里。基準の杭がどこへ行こうと、谷と村との間の二里は、動かない。そして谷は、実在し、図面に載っている。テオは、図面の羊の谷に指を置き、北へ、二里ぶん――大人の足で二刻ほどの道のりを――滑らせた。
指が、止まった。
いまの白い線の、南へ一里。辺境伯領の、ただ中である。図面のその場所には、何もない。村の印も、家の印も、かつて何かがあったという注記の一つも、ない。
そして、そこには、あるものが通っていた。
ポルツの三号石から、ミュールバッハの二基を経て、東のケラーの任地まで。中央の謄本だけが崩れていた、あの食い違いの点の列――いまは六つに増えた点が、北辺に沿って東西に引く、あの細長い帯。シグリドの二里が指した場所は、その帯の上に、ぴたりと載っていた。
ルチアが、図面の上のテオの指を見て、それから、テオの顔を見た。何も言わなかった。泥炭の火が沈み、遠くで、入江の氷が長く鳴いた。
地図に載らない村が、禁じられた歌に運ばれて、百年ぶりに紙の上へ帰ってきた。帰ってきた場所は、誰の図面にも、何も無いはずの場所だった。
――その村は、あってはならない場所にある。




