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グレンツシュタイン検認録  作者: 篇乃綴り堂
第二部 南の暦、北の歌
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第九話 免責条項

 カルタヴィアの夏を背にして、一行は北へ、北へと道を継いだ。

 行きに三度継いだ河を、帰りはさかのぼる向きに継ぐ。王都の脇をかすめ、官道を外れ、北辺の畦道へ入る頃には、風がもう夏のものではなくなっていた。緑を濃くしていった往きの風景が、帰りは日ごとに色を落としていく。麦は刈られ、羊は里へ下り、朝の草には白い霜が降りた。テオドール・ブレンナーは外套の襟を立て、季節が自分たちを追い越して、先に冬へ着いてしまったことを知った。

 一行は、三人と一頭になっていた。

 テオ。リーケ。官給ラバの七号。そして、南から加わったルチア・スクリバーニである。インクの染みだらけの前掛けを毛織の肩掛けに替えたルチアは、北へ一日進むごとに、南訛りの悪態を一つずつ増やしていった。

 「最悪だわ。テオドーロ、あなたの国、夏はどこ」

 「先週まで、ありました」

 「一週間を、夏と呼ぶの? 詐欺よ、それは」

 道の傍らに、古い境界石が一基あった。伯領と伯領の境の、旅人に読まれるためではない石だ。テオはいつもの癖でラバを止め、銘を読み、拓本を採る手つきで指を刻みに這わせた。

 「様式が古い。四百年前の書式です。彫りが深く、字配りに無駄がない。……いい石です」

 「あなたは字を読んでるだけ」ルチアが横から石に鼻を近づけ、指の腹で表面を撫でた。「わたしは石を読むの。この彫りの底、風の当たり方がならしてる。三百年、この向きで、正直に風に削られてる。……石は、正直ね。文字は、いくらでも嘘をつくけど、石だけは、嘘をつかない」

 石は、嘘をつかない。テオは、その言葉を、北の窪地で反芻した。ポルツの三号石。ミュールバッハの五号石。石はいつも正しく刻み、外れているのは中央の謄本のほうだった。石が正しいことを、テオはこのひと夏、拓本を採る指で確かめてきた。だが、石が「なぜ正しくあり続けられるのか」――四百年、微動もせずに正しくあり続ける、そのわけを、テオは考えたことがなかった。ルチアは、石の肌が刻む時間を読む。テオは、銘の文言しか読まない。片目でものを見ていた、と南で言われた。その片目のぶんを、この鑑定士は横で埋めてくる。

 「褒めてない顔ね」ルチアが言った。

 「褒めています。私にない目です」

 「じゃあ、飯を奢って。この寒さ、命がけよ」

 「飯は経費で落ちん」卓の話でもないのに、後ろからリーケの声が飛んだ。彼女は雪の匂いを嗅ぐように、道の先の山なみを見ていた。「落ちるのは、護衛官装具の消耗だけだ。砥石はな。だが、あんたの防寒着は、装具じゃない。私物だ」

 「わたしを凍え死にさせる気?」

 「凍え死には、経費で落ちん」

 テオは、この二人の相場の攻防が、いつか帳尻のどこかで折り合うのだろうと踏んで、口を挟まなかった。挟んでも勝ち目がない。書類に無関心なはずのリーケが金の話にだけ精密なのと、印を捺せないはずのルチアが物の真贋にだけ天才なのと、この一行は、得意の裏側に空白を抱えた者ばかりが揃っていた。テオもその一人だった。台帳のない事態に、めっぽう弱い。

 七号が、不意に足を止めた。

 テオが引いても動かないのは、いつものことである。だが今度は、リーケが引いても動かなかった。ラバは耳を後ろへ伏せ、鼻先を北へ向けて、風もないのに低く鼻を鳴らした。ミュールバッハでケラーの便りを読んだ朝に、この獣が見せたのと同じ仕草だった。

 「どうした、七号」リーケが手綱を検めた。「蹄でも痛めたか」

 七号は答えず、ただ、北を見ていた。


   *


 その北の入り口に、川があった。

 水は細く、しかし冷たく速く、飛び石では渡れない。渡し守が一人、粗末な板橋のたもとに小屋を構えて、荷と人を渡していた。老人の指は、長年水に浸かって節くれ立っている。

 「一人と一頭で銅貨二枚。荷が重けりゃ、三枚」

 「四人だ。一頭ぶんは荷駄。渡し賃は里程の定めどおり払う」リーケが銅貨を数えた。「受取を書く。あんたの認め印をもらう」

 「印なんぞ、持っとらんよ」

 「なら、これに拇印ぼいんを」リーケは、白紙と朱肉を出した。北の街道で、印を持たぬ相手から証憑を立てる算段は、彼女の手にとうに馴染んでいる。「本人が捺したという事実が残ればいい。灰でも朱でも――」

 老人は言われるまま、朱に親指を浸し、白紙に捺した。

 朱の指の跡が、紙の上に残った。

 残っただけだった。

 テオは、それを、リーケの肩越しに見ていた。認め印というものは、捺せば印影がわずかに沈む。紙が、もう書き換えられぬと引き受ける、あの沈み方をする。竈の火入れの届けにも、関所の手形にも、姑の漬物甕にも、四百年、それは同じように起きてきた。だが渡し守の拇印は、ただ朱が紙に載っただけで――沈まなかった。紙は、何も引き受けなかった。何も、言わなかった。

 「……もう一度」リーケの声が、わずかに硬くなった。「押し直せ」

 老人は、怪訝な顔で捺し直した。二度目も、朱は載るだけだった。沈まない。利かない。

 「変だな」老人は自分の親指を、陽にかざした。「近頃、そうなんじゃ。わしの拇印が、利かん日がある。冬が近いと、時々な。若い時分には、こんなことはなかった」

 「利かなければ、あかしにはなる。書き換えられる証でも、無いよりましだ」リーケは、そう言って白紙を畳んだ。畳む手が、いつもより一拍、遅かった。

 テオは、懐から小さな方位銘ほういめいを取り出した。旅の者が携える、掌ほどの銘牌めいはいである。牌の中央に据えた細い針が、北を刻んだ銘に「利いて」、いつでも北を指す。鉄が北へ引かれて動くのではない。銘の力で、北を向くのだ。

 針が、揺れていた。

 北を指しては、東へ流れ、また戻り、また流れる。テオが牌を伏せ、掌で温め、もう一度開いても、針は落ち着かなかった。北を、指さない。

 「銘が、狂っています」テオは低く言った。「方位銘が。……ここでは、北が、決まらない」

 「壊れたんだろう」ルチアが覗き込んだ。

 「壊れていません。牌も、針も、無傷です。壊れているのは――利きのほうです」テオは、方位銘を伏せた。「銘は無傷なのに、銘の力だけが、乱れている。渡し守の拇印と、同じです。物は、そこにある。効き目だけが、薄れている」

 テオの頭の中で、南で聞いた老学者の声が、勝手に鳴った。アウレリオ。効き目は、書いた者と証を立てた者が死ぬにつれ、薄れる。三代、百年で崖に来る――。異端の仮説だ。証拠は一つもない。だが、この渡しでは、印が眠り、銘が迷っている。書かれたものの効き目が、確かに薄れている。まるで、この一帯だけ、時間が余分に流れてしまったように。

 テオは、行李から手帳を出し、日付と場所と、渡し守の拇印が沈まなかったこと、方位銘の針が北を失ったことを、細字で書き留めた。カルタヴィアで、老学者と交わした約束のためである。北で検めた数字を書き送る。合っていれば説は強くなり、合わなければ説を直す。仮説とは、検算されるためにある――だが、なぜここでだけ効き目が薄れるのか、その理由は、テオの手帳のどの欄にも書けなかった。書く材料が、一つもない。テオに書けるのは、起きたことだけだった。起きた理由は、この土地のどこにも、まだ刻まれていなかった。

 「坊や」リーケが、川向こうの斜面を見ていた。低い声だった。「手帳を、しまえ。仕事は、あとだ」

 「まだ、書き終えて」

 「上に、いる」


   *


 斜面の岩陰から、騎馬が三つ、下りてきた。

 速歩の抑え方に無駄がない。砂の立て方まで訓練されている。先頭の男は上背があり、旅装の下に鎖帷子を着込み、腰の剣は飾りのない実戦のものだった。ポルツ村の役場で、一度、剣を交えた相手である。フェルンブルク家従士、クルト・アシェンバッハ。

 「渡すな」リーケは、もう板橋の中ほどに立っていた。「橋は一人ぶんの幅だ。三騎は、横に並べん。縦に来るしかない。縦なら、相手は一人ずつだ」

 言い終える前に、剣を抜いていた。

 クルトは馬を下り、部下二人を左右の岸へ散らした。テオは板橋の南のたもとで、ルチアと七号を背にかばう位置に立った。立ったところで、テオにできることは何もない。実戦の力は、ない。あるのは、目だけだった。リーケが、荷を積むのはあたしがやる、あんたは手元だけ見てろ、といつか言った、あの目の役だけは、務まる。

 最初に橋へ踏み込んだのは、左岸の一人だった。

 板橋の上で、リーケの剣は振りかぶらなかった。狭いところで振りかぶる剣は、場所に負ける。彼女は突きと、体の入れ替えと、踏み込みの半歩だけで戦った。橋板の軋みを聞き、相手の重心が前に乗った瞬間、脇へ流して川へ落とす。水音が上がった。落ちた男は、冷たい流れに膝をつき、剣を取り落として岸へ這った。

 右岸の一人が、テオたちのほうへ回り込もうとした。ルチアが、布包みを抱えて岩の陰へ身を寄せる。テオは動けなかった。動けないまま、地面の石を一つ拾って、投げた。当たりはしない。当たるとも思っていない。ただ、男の視線が一瞬、テオへ流れた。その一瞬で、リーケが橋を蹴って戻り、男の剣の腹を柄頭で打ち上げ、鳩尾みぞおちへ肘を入れた。男は膝から崩れた。

 残るは、クルトだった。

 彼は橋のたもとで、剣を抜いたまま、動かなかった。部下二人が戦えなくなったのを、表情も変えずに見ていた。それから、リーケの間合いを、切っ先で静かに測った。ポルツで測ったのと同じ測り方だった。

 「――今日は、預かっていない」

 クルトは、それだけ言った。剣を納め、落馬した部下を拾い、来たときと同じ抑えた速歩で、斜面を上っていった。奪おうとした素振りは、なかった。荷にも、行李にも、手をかけなかった。ただ、こちらの間合いを測りに来たようだった。次に本気で来るときのために。

 蹄の音が尾根の向こうへ消えるまで、誰も口をきかなかった。

 リーケは剣を納め、川に落ちた男の取り落とした剣を拾い、検分し、川へ投げ返した。

 「本気じゃなかった」彼女は、息一つ乱していなかった。「測りに来ただけだ。厄介なのは、そういうやつだ。測ったぶんだけ、次は正確に来る」

 「怪我は」テオは訊いた。

 「無い。あんたは」

 「石を、投げました」

 「見てた」リーケは、めずらしく、ほんの少しだけ口の端を上げた。「下手くそだったな。……だが、あれで一人、こっちを見た。悪くない」


   *


 その晩は、風を避けて、崩れた石囲いの牧小屋の陰に火を焚いた。

 北辺の夜は、南の夏の夜とは別の生き物だった。火の届かぬところは、すぐに凍える闇になる。ルチアは肩掛けにくるまり、それでも布包みだけは膝から離さなかった。七号は、まだ落ち着かず、時折、北へ耳を向けた。

 リーケは、火の番に就いた。公用行嚢のいちばん底に、ポルツの三号石の立会検認調書がある。昼は荷の底、夜は枕元。その一綴りだけは、ミュールバッハで控えを抜かれて以来、彼女が身から離さない。今夜は膝の上に置き、その上に、渡しで畳んだ、利かなかった受取の白紙を、重ねていた。

 テオは、火の向こうから、その白紙を見ていた。

 「リーケさん」つい、声が出た。「渡しの受取のことを、気にしておられますか」

 リーケは、しばらく答えなかった。火が爆ぜた。

 「利かん証憑を、初めて見たわけじゃない」やがて、彼女は言った。「灰の拇印も、利かん。利かんでも、証にはなると、あんたに言った。……だが、あの渡しのは、違う。灰は初めから利かん。あれは、利くはずのものが、利かなかった。利くはずのものが利かなくなった帳面が、どれだけ人を殺すか。……あたしは、知ってる」

 火の粉が、闇へ昇った。

 テオは、口を挟まなかった。ポルツで、漬物の甕を無理に開けようとした嫁の話を、なぜか思い出した。捺した本人でなければ解けない封が、人にもある。ミュールバッハで、免責の条項の話をしたとき、この女の目から、すうと何かが引いた。あのとき閉じた封を、いま、彼女は自分の手で、解こうとしている。

 「銀枝ぎんし隊、といった」リーケは、火を見たまま言った。「あたしのいた傭兵団だ。強くはなかった。だが、律儀だった。契約どおりに戦って、契約どおりに退いて、契約どおりに飯を食う。傭兵に、それ以上の誇りはない」

 「経理を、していた人が」テオは、静かに促した。

 「グレーテ」その名を、リーケは、経費の数字を読むときの正確さで言った。「あたしの、姉貴分だ。団の帳面を、一冊残らず握ってた。契約書の写しも、報酬の受取も、損料の計算も、全部あの人の字だった。あの人が言った。『傭兵の命は、剣じゃ守れん。契約で守るんだ。剣は、契約が守ってくれた命を、使って戦うだけだ』とな」

 テオは、その言葉の順序に、胸を突かれた。剣が命を守るのではない。契約が守った命を、剣が使う。護衛が護衛対象を守るのではない。守れと書かれた紙が、護衛を、そこに立たせている。

 「あるいくさで」リーケの声が、一段、低くなった。「あたしらは、捨て駒にされた。雇い主が、退き口をふさいで、あたしらを盾にして、自分の兵だけ逃がした。契約には、雇い主が兵の損失を負わん、という免責の条項が――あった。あったんだ。あとから見たら」

 「あとから」

 「グレーテの握ってた写しには、無かった」リーケは、膝の上の白紙を、指で押さえた。「あたしらの持ってた契約書には、その条項は、無かった。だが、雇い主が裁きの庭に出してきた契約書には、あった。同じ日付、同じ署名、同じ印。だが、一条だけ、多い。……どっちが本物か。それを、裁く三冊目が、無かった。あたしらの写しは、印が弱かった。連名の証人も、公証も、立てていなかった。律儀に戦うことばかり考えて、紙を、利く形に畳んでいなかった」

 火が、また爆ぜた。

 「雇い主の紙が、勝った」リーケは言った。「あたしらの紙は、負けた。負けた紙のぶんだけ、団の連中が、死んだ。グレーテは、最後まで、自分の帳面を抱えてた。抱えたまま、あたしに言い遺した。――『紙が正しければ、皆生きてた』とな。あの人は、剣で死んだんじゃない。負けた紙で、死んだんだ」

 テオは、動かなかった。

 書類に全力で無関心なはずの女が、経費にだけは主計官より精密な、その理由が、いま火のそばに、剥き出しで置かれていた。書類への無関心は、嫌いだからではない。信じられないからだった。紙は嘘をつく。紙は人を殺す。それを、この女は、姉貴分の死で習った。だが、経費にだけは、彼女は一枚の狂いも許さない。利く形に、証人つきに、逃げ道つきに、必ず畳む。それは、グレーテの形見だった。もう一度、負けた紙で誰かを死なせないための、たった一人の弔いだった。

 「ミュールバッハで」テオは、ようやく口を開いた。「免責の条項の話をしたとき、あなたは、『読み落とすやつが悪い』と言われました」

 「悪いさ」

 「読み落としでは、ありません」テオは、はっきりと言った。「条項は、書き換えられていた。あなたの写しから、消されていた。あるいは、雇い主の写しに、あとから足された。それは、読み落としではない。あなたが、悪いのではありません」

 リーケは、初めて、火から目を上げてテオを見た。

 「――そう言ってくれた者は」彼女は、少しかすれた声で言った。「あんたが、二人目だ」

 「一人目は」

 「グレーテだ。死ぬ前に、同じことを言った。『あんたは、悪くない』と。……あたしは、信じなかった。信じたら、あの人が、負けた紙のために死んだことに、なるからな」


   *


 しばらく、火の音だけが、闇に落ちた。

 肩掛けの中から、ルチアが、ぽつりと言った。眠っていなかったのだ。

 「……うちも、一枚の紙で、潰れた家よ」皮肉屋の声から、皮肉が抜けていた。「百年前。誰も検めない偽物の紙一枚で、名家が、ひと冬で路頭に迷った。負けた紙は、人を殺すだけじゃない。家も、殺す。百年、殺し続ける」

 リーケは、何も言わなかった。ただ、ルチアのほうへ、火に炙った干し肉を一切れ、黙って差し出した。ルチアは、黙って受け取った。負けた紙で傷ついた者同士の、言葉のいらない同席だった。

 テオは、火に、細い薪を一本、足した。

 「私の家は、アクテンブルクの、小さなパン屋です」彼は、問われもしないのに、言った。言わなければならない気がした。「祖父の代に、隣家と、かまどの裏手の地境で、争いになりました。土地の台帳に、誤記があったのです。写した役人が、一行、間違えた。それだけで、うちの竈は、隣家のものになりかけました。パン屋にとって、竈を失うのは、命を失うのと同じです」

 リーケもルチアも、顔を上げた。

 「祖父は、字が読めませんでした」テオは続けた。「読める者に頼んで、村の古い控えを、探してもらった。中央の台帳とは別に、教区の書記が、ひそかにとっていた、一枚の控えです。規定では、あってはならない写しでした。ですが、その一枚に、正しい地境が、書いてありました。誤記の前の、本当の一行が。……その一枚が、うちの竈を、守りました」

 テオは、火を見た。ポルツの床下の、油紙にくるまれた三通目の控えを思った。規程が二通までと定めた、あってはならない三冊目。バルタザールの砦。あれを初めて見たとき、テオはそれを規定外と呼んで悶えた。だが本当は、テオは、あの控えを、子供の頃から知っていたのだ。規定外の一枚が、竈を守る。それを、テオは、パンの匂いの中で、いちばん初めに習っていた。

 「私は、それで、この仕事に就きました」テオは言った。「正しく書かれた文書は、人を守ります。誤って書かれた文書は、人を殺します。同じ紙が、どちらもする。……グレーテさんの言ったことと、私の竈のことは、同じ一つのことです。裏と、表です」

 「裏と、表」リーケが、繰り返した。

 「あなたは、負けた紙が人を殺すのを、見ました。私は、正しい紙が人を守るのを、見ました。二人とも、半分ずつ、同じものを見ています」テオは、リーケを、まっすぐ見た。敬語は、崩れなかった。崩す気も、なかった。「正しく書かれた文書は、人を守ります。……私が、守らせます。あなたの負けた紙を、私が正すことはできません。もう遠い戦の紙です。ですが、これから私の検める紙は、一枚も、負けさせません。証人を立て、控えを重ね、利く形に畳んで、誰の手でも書き換えられないようにします。それが、検認官の職分です。――そう、決めています」

 リーケは、長いこと、テオを見ていた。

 それから、ふ、と息を吐いた。白い息が、闇へ昇って消えた。

 「……あんたの書類は」彼女は言った。「まだ、嫌いになってないよ」

 ポルツの役場で、焼けた台帳を庇ったテオに、同じことを言った。あのときは、まだ、と付いた。今夜も、まだ、と付いた。だが、その「まだ」の重さが、少しだけ、違って聞こえた。

 「褒めていませんか」テオは訊いた。

 「褒めてる」リーケは、火に薪を足した。「たまにはな」


   *


 峠は、翌々日だった。

 道は尾根の肩を一つ越えるたびに高くなり、落葉松からまつも尽き、岩と、根雪のまだらだけの斜面になった。山際の禁制の帯を東へ大きく迂回し、東の峠道から、その向こうの入江の国――北の旧領、イスフィヨルドへ抜ける。それが、次の任地への道だった。

 峠の北の口に、関があった。

 王国の関ではない。北の氏族が、己の側に構えた、丸太と石の粗末な関だった。毛皮を重ねた見張りが二人、槍を立てて、道をふさいでいた。目が、青かった。南の民のそれとも、王国の民のそれとも違う、海と氷の色をした目だった。

 「王立文書院、巡回検認官、テオドール・ブレンナーです」テオは、通行手形を両手で差し出した。「大検認の職務により、貴地の境界石を検めに参りました。手形と、辞令の写しを、御検あらためください」

 見張りは、手形を受け取らなかった。

 目だけを、テオの銀の検認官印へ、それから背後の七号の積み荷へ、ゆっくりと移した。読む気配は、なかった。字が読めないのではない。読む値打ちを、認めていないのだった。

 「王国の、あらため、か」

 年かさの見張りが、口の中で転がすように言った。海の底から響くような、低い声だった。

 「はい。大検認は、百年に一度――」

 「知っとる」

 見張りは、槍の石突きで、凍った地面を一度、突いた。かつん、と硬い音が、峠の風に乗って消えた。

 風が、鳴った。落葉松の梢が、北へ倒れた。テオの手の中で、通行手形が、宙に浮いたまま、行き場を失っていた。差し出された紙を、この関は、受け取ろうとしなかった。

 「――百年前も」見張りは、青い目でテオを見下ろした。「王国は、そう言うて、検めに来た」


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