第十二話 第三回大検認
山を下りて二日、テオドール・ブレンナーは、その名を知らないままでいた。
知らないまま、冬館の長い炉のまわりを、検認の場に変えた。長椅子に板を渡し、その上に、持てる紙のすべてを並べる。北辺一帯の検認図面。六つの食い違いの控え。ポルツの立会検認調書。南で仕立てられた偽の破棄命令書の写しと、それを偽物と断じたルチアの鑑定書。雪の下から抓み出した、朽ちた杭のかけら。シグリドの証言の一行を載せた日誌。それから、日付のない、三行の返書。
北は、紙を飼わない。その北の男たちが、炉を遠巻きにして、板の上の紙を見ている。ハルヴァルド・エイナルソンは高座を下り、炉端の長椅子に、客人と同じ高さで腰を下ろしていた。氏族長が高座を下りるのは塩と火の儀のときだけだと、給仕の若者が小声で教えてくれた。
「始めます」テオは言った。「作法は、検認と同じです。読み上げ、突き合わせ、一致と不一致を検める。……相手が石ではなく、百年だというだけです」
まず、地面。線は、南から北へ、五里動いていた。朽ちた杭穴の列と、いまの白い杭の線との間を、縄と歩測で測った数字である。ルチアが、朽木のかけらを火明かりにかざした。
「この木は、何百年も穴の底に立っていた。切り口の乾き方が、そう言ってる。向こうの白い杭は、風化が浅すぎる。四百年、あの高さで風雪に立った白さじゃない。立ってから――百年前後よ。物は、嘘をつけない」
次に、紙。杭は無銘である。銘のない境は、どの台帳にも載らない。載らないものは、動かしても、紙の上に痕を残さない。ここまでは、南の講堂で口にした理屈だった。だが、線を動かした者は、線だけを動かして済ませられたわけではない。
「石が、あります。石は動かせない。石の銘は、古い境を覚えたままです。動いた線に世界を合わせるには、中央の謄本のほうを、書き換えるほかありません。……そして、その書き換えは、一行ずつでは、なかった」
テオは、六つの控えを、扇のように並べた。
「六つのうち、北へ外れたものが四つ。西へ外れたものが一つ。銘の文言の分からぬものが、一つ。――動かした線に合わせるだけなら、北へ寄せる書き換えで足りたはずです。西へ外れる理由も、帯から南へ三日も離れたポルツの項が崩れる理由も、書き換える側には、ない。ですが、巻ごと写し直して、差し替えたのなら、説明がつきます。狙って書き換えた項も、狙われなかった項も、同じ一冊の、裏のない写しになった。銘は互いを参照し合いますから、狙った書き換えは、隣の項へ数珠つなぎに波を立てる。向きが北へ寄るのは、その名残です。狙われなかった端の項は――百年かけて、勝手に崩れた。南で私は『向きより、載ることが規則だ』と括りました。答え合わせが、できます。あの巻は、直されたのではありません。巻ごと、差し替えられたのです」
「写し損じにしちゃ多すぎる、って話だったな」リーケが言った。
「多すぎます。そして写し損じは、百年かけて増えたりしません。ここから先は、南の老学者の仮説を一条だけお借りします――書き写しただけの、裏のない写しは、根の浅い草と同じで、速く枯れる。差し替えられた巻は、丸ごとそれです。百年目のいま、枯れて見えているのが、六つの食い違いです。人為的な事柄は、証拠をもって断定できます。枯れ方の理屈だけは、まだ仮説です。ですが、どちらから数えても、行き着く先は同じです」
「巻を差し替えても、ね」炉の向こうから、ルチアが引き取った。早口が、氷のように冷えていた。「三冊目だけは、差し替えられない。相互写しは、国の外の棚にあるから。次の検認で突き合わされたら、一発で割れる。だから――破棄されたことに、した。命令書を一枚こしらえて、棚に木札を一枚差して、預かり手には偽造の罪を着せて。……なるほど。全部、繋がった。うちの家は、巻き添えですら、なかったのよ。手順の、一部だった。写しを消すための」
誰も、口を挟まなかった。泥炭が、低く鳴った。
「では、誰に、それができたか」テオは、図面の上に手を置いた。「中央の検認謄本に、正規の署名で手を入れられる者。北辺一巻を、まとめて検められた者。……百年前、第三回大検認で北部路線を任された検認官、ただ一人です。ですが、その名は、私の携えたどの紙からも薄れて消えている。目次の担当の欄だけが、空白に近い。名は、長い年月をかけて、静かに均されたのでしょう」
「――北は、覚えとる」
ハルヴァルドだった。低い声が、火の上を渡った。
「百年前、石を検めに来た王国の役人は、よく喋る男だったと歌に残っとる。名も、残っとる。歌は、一度乗せた名を、落とさん」氏族長は、テオをまっすぐに見た。「マティアス、という。……マティアス・フォン・フェルンブルク」
フォン・フェルンブルク。
テオは、図面を見下ろした。動いた線の内側――銀の脈と森と、羊の谷と、消えた村を呑み込んだ五里の帯は、そっくりそのまま、フェルンブルク家の御領地になっている。検認した者の名と、線を呑んだ家の名が、同じだった。
「検める者が、書き換えたのです」自分の声が、遠くで聞こえた。「石を検め、写しを検める権を持った者が、その権で盗んだ。剣ではなく、写しで。……検認で」
「派手な盗みだ」リーケが短く息を吐いた。「国の帳面を使った、五里の盗みか」
「一度きりの盗みでは、ありません」テオは、日誌を繰った。ミュールバッハの朝、風にめくれた油紙。北二二ノ三。「私の照会がまだ王都に着いてもいない頃、修正官の荷には、同じ番号の訂正指示書が書き上がっていました。訂正は、申請に基づく――では、誰が申請したのか。均せば得をする者。崩れを、崩れと呼ばせたくない者。フェルンブルク家の、家宰です。北辺の照会は、外装に整理番号を書いて逓送で運ばれます。中継の宿場でそれを検めさせ、報せを買う手蔓があれば、照会が王都へ着くより先に、訂正の申請が出せる。……百年前に巻を差し替えて、終わりではなかったのです。崩れが出るたびに申請を出し、静かに均させ、写しを抜き、検認官を尾け回す。あの家は百年間、盗んだ帳面の、手入れを続けてきた」
「二十年、均してきたと言った、あの疲れた男もか」
「彼は、届いたものを執行しただけです。届く仕組みのほうが、古くから腐っていた」
テオは最後に、日付のない三行の返書を、板の端に置いた。
「検め終わっていない欄も、申し上げます。この返書がなぜ原本庫の紋で封じられているのか。係争中とは、何と何の係争なのか。なぜ、問いより速く着いたのか。そして、文書監の特命が、なぜ九日前に書かれていたのか。――この四つは、私の帳面では、まだ空欄です。空欄は、空欄と申し上げます。埋めたふりは、いたしません」
炉のまわりは、長いこと静かだった。
やがて、ハルヴァルドが膝を打って、立ち上がった。
*
「客人よ。わしの番だ」
氏族長は、炉の火に泥炭をひとかけ、自分の手で足した。それから、誰にともなく言った。
「塩と火の誓いにおいて、証す。……この前置きでわしが口を開くのを、若い衆は初めて見るじゃろう。よう聞いておけ」
館の男たちが、座り直した。
「わしの祖母は、そのまた祖母から、こう聞かされて育った。検めの年には、北へ返るものがある、と。塩と、鉄と、杭の内の草地の使い。それが古い誓いの返しじゃ、とな。……三度目の検めから、何も返らなんだ。長たちが問うと、王国は紙を見せた。約定に、そのような条は無い、と。祖母らは字が読めなんだ。読める者が読んでも、無いものは無い。それきりよ」
テオは、膝の上で指を握った。線を動かした手は、線に合わせて謄本を書き換えた。それだけでは済まなかったはずなのだ。北への返しを書いた紙も、同じ手で書き換えられていなければ、辻褄が合わない。無いものは、無い。百年前から、紙のほうが、そう言うように作り変えられていた。
「フィエルミュリのことも、証す」
ハルヴァルドの声は、変わらなかった。変わらずにいることに力の要る声だ、ということだけが、分かった。
「線が動いた年の、初冬じゃ。家印の手の者が谷へ来て、村を出よ、と申し渡した。ここは御領地である、おまえたちの村は、どの紙にも無い、とな。……五十と三人が、村を出た。峠で、吹雪に遭うた。入江に辿り着いたのは、三十と七人。わしの祖母の家が、その三十七人を、竈に入れた」
氏族長は立ち上がり、炉の上の煤けた梁の陰から、古い木箱を下ろした。蓋を開ける。掌ほどの木の札が、きっちりと束ねて納まっていた。一枚にひとつずつ、名が刻まれている。
「受け入れた者の名じゃ。祖母が刻ませ、代々の当主が油を引いて守ってきた。三十七枚ある。……北は、紙を飼わん。だが、名は捨てん」
テオは、頁をめくる前に指を拭う癖のまま指を拭い、両手で札の一枚を受け取った。古い北の名だった。裏に竈の形の小さな刻みがある。どの家が引き受けたかの、しるしだという。
「亡くなった十六人は」テオは静かに訊いた。「どこに、記録されていますか」
「どこにも」ハルヴァルドは言った。「王国の紙には、村が初めから無い。無い村の者は、死ぬこともできん。……殺された者は一人もおらん、と紙は言うじゃろう。紙には、殺す相手がおらんのでな」
火が爆ぜた。誰も動かなかった。
「続き歌がなぜ禁じられたかも、言うておく。線が動いて幾年かの後、村の名を歌うた歌い手の家が、焼けた。次の年、もう一軒焼けた。……それきり、長たちは歌を谷で終わらせた。禍の中身とは、そういうものよ。天罰でも祟りでもない。禍には、差出人がおった」
テオは、日誌を開いた。手が、いつもより重かった。
「氏族長。いまの証言を、検認の記録として書かせていただけますか。証言者の名と、日付を添えて。……あなたがたが百年、紙に負けてこられたことは、承知の上でのお願いです」
ハルヴァルドは、しばらくテオの手元を見ていた。
「……書け、客人」やがて言った。「百年、書かれた紙に負けてきた。ならば今度は、こちらの言い分も紙に乗せてみるとしよう。乗せた紙がまた負けるかどうか――それを検めるのが、おまえの仕事じゃ」
「職分です」テオは、頭を下げた。
その日、テオは三十七枚の札の名を一枚ずつ読み上げてもらい、一枚ずつ日誌に写した。読み上げたのは館の年寄りたちで、自分の祖父母の名が出るたび、誰かが短く息を呑んだ。写し終えるのに午後がまるまる掛かった。急ぐ理由が、どこにもなかった。
*
その晩、シグリドが客間に来た。
初めての夜と同じに、遠慮がちに戸を三度叩き、風と一緒に滑り込んでくる。ただし今夜は、胸に、布にくるんだ平たいものを抱えていた。
「祖母の、遺したもの」
炉の前で布を開くと、樺の皮を薄く剥いだものが数枚、重ねてあった。皮の内側に、細く几帳面な字が並んでいる。
「歌は、書いてはならない。祖母は、最後まで書かなかった」シグリドは、皮の一枚を火明かりへかざした。「でも、名は書いた。歌い手の名乗りは、系譜のすべてを名乗るのが古式。一代でも欠ければ、名乗りは名乗りでなくなる。……忘れることが怖かったのだと思う。村の最後の歌い手が、名乗りを、間違えることが」
樺の皮には、女たちの名が順に書かれていた。誰の娘が、誰から歌を受けたか。上から下へ、代から代へ。フィエルミュリの歌い手の系譜が、焼けない皮の上に連なっている。いちばん下に、幼い、覚えたての字がひとつ。シグリド、と読めた。
「これは、わたしが書いた。十二年前の七つの冬。祖母が、手を添えて」
テオは、その皮を両手で受け取った。名の列を、上から下へ目でなぞる。受けた者が、渡した者の名を順に負っていく。どこかで見た形だ、と思った。署名の裾に印を半分重ねる。責を負った手が、次の手へ名を継いでいく――そこまで考えて、テオは、考えの頁をそっと伏せた。検めていない理屈を、帳面に載せてはならない。いまは、まだ。
「歌い手は、村の記録係だったのですね」皮を返しながら、テオは言った。「竈を数え、舟を数え、生まれた子の名を節に上げる。あなたのお祖母さまは、村の帳場をまるごと、あなたに継がせた」
「見たことも、ない村なのに」シグリドの声が、細さの底で初めて揺れた。「わたしは、谷の雪の下しか、知らないのに」
「見たことのない土地の帳面を、狂いなく持ちつづける。それは、記録係のいちばん難しい仕事です」テオは言った。「私はこの一年、それをする人たちを見てきました。床下に三冊目を置く老書記や、四十年笑われながら数えつづけた学者です。あなたが持っているのは、その誰より長く継がれてきた帳面です。……あなた自身も、七つの冬から今までずっと」
シグリドは答えず、樺の皮を、来たときより丁寧に包み直した。それから、ぽつりと言った。
「客人。名は、戻るか」
「戻す道を、私はまだ持っていません」テオは、正直に答えた。嘘は、顔に出る質である。「ですが、探すことを、やめてもいません。……いまは、それだけしか申せません」
「十分だ」シグリドは頭巾をかぶった。「祖母は、探す者にすら、会えなかった」
*
辺境伯は、その翌日の昼に来た。
入江の口に見慣れぬ帆が一枚現れ、黒っぽい船体の上に、白い布が高く掲げられていた。物見の若者が冬館へ駆け込み、やがて使いの男がひとり、雪を漕いで上がってきた。口上は丁寧なものだった。フェルンブルク辺境伯エーレンフリート、王国の巡回検認官殿に対話を乞う。場所は岬の突端、供は互いに三人まで。
供は三人まで、という口上を、リーケは「案内人は供に数えん」と読み替えた。先方は、咎めなかった。
「行かれるのか」ハルヴァルドが訊いた。
「行きます。対話の申し入れに、様式の瑕疵がありません」
「……おまえのそういうところは、もう笑わんことにした」
岬までは館から半里だった。テオと、リーケと、ルチアと、道を知るシグリドが行った。
岬の突端に、その人は立っていた。
五十をいくつか越えたあたり。毛皮の外套の下は飾りのない旅装で、供の従士が三人、離れて控えている。テオはその三つの顔を検め――足りない顔に気づいた。リーケも気づいたのが、歩幅で分かった。クルト・アシェンバッハが、いない。
「巡回検認官、ブレンナー殿」男は、先に名乗った。「フェルンブルクの、エーレンフリートと申す。……ここまで北の家の用で足を運ばれた検認官は、百年ぶりだそうですな」
完璧な礼だった。テオも型どおりに礼を返した。
雪が、降りはじめていた。風のない、まっすぐな雪だった。
「前置きは省きましょう」辺境伯は言った。「あなたが山で何を測り、館で何を突き合わせたか、おおよそは聞き及んでいます。百年前、私の曾祖父が何をしたか。――おおよそ、あなたの帳面のとおりなのでしょう」
否定しなかった。それが一番恐ろしかった。声を荒げる男なら、規程で受け止められる。この人は、こちらの理屈を全部聞いてから、静かに断るのだ。まだ何も断られていないうちから、それが分かった。
「家印を継いだ日に」辺境伯は続けた。「私は、家の帳面のいちばん底の頁を読みました。以来、私は当主であるより先に、家の罪の、管理人です。曾祖父を弁護はしません。ただ、勘定の話をします。あの帯の銀と森は、百年かけて、家臣と領民の暮らしに変わりました。罪がいま紙の上で明るみに出れば、権利は宙に浮き、負い目は家を潰し、四百の家が冬の路頭に出る。……では伺いましょう、検認官殿。私の署名は、四百の家の竈の火を保証している。あなたの真実は――それを、買い戻せますか」
テオは、答えを探した。台帳のどこにも載っていない問いだった。
だが、と思う。
台帳に載っていないなら、書き足せばいい。誰かが最初の一行を書かなければ、どの台帳も始まらなかったはずなのだ。
「買い戻せるかどうかを、百年間、誰も検めてこなかった。……私は、検めに来ました」
「そうかもしれませんな」辺境伯は頷き、頷いたまま切り返した。「では、検めの結果に値を付けましょう。あなたの実測の図面と、証言の記録と、南の鑑定。それらを私に引き渡していただきたい。引き換えに、村へ返します。移住者の裔へ、名を出さぬ形で百年ぶんの返しを。谷の草地を村々の入会に戻します。北への、検めの年の返しも再開する。法の庭が百年かけても取り立てられぬものを、私の署名なら、この冬のうちに動かせます。……静かな解決です。誰も飢えず、誰も倒れない。あなたの正しさが灯すより多く、竈に火が入る」
雪が、二人の間の時間を埋めていった。
リーケも、ルチアも、シグリドも、動かなかった。降りしきる白の中で、辺境伯の外套の肩だけが、ゆっくりと白くなっていく。
「――違う」
声が出ていた。敬語が、途中で落ちていた。生まれて初めてのことだった。
テオは息をひとつ吸い、直した。
「……失礼を、いたしました。ですが、違うのです。静かな解決なら、百年前にもあったのです。静かに線を引き直し、静かに巻を差し替え、静かに家をひとつ潰し、静かに村をひとつ消した。あれも、誰かの帳面では、静かな解決だったのでしょう。……静かな訂正こそが、百年、この傷を膿ませてきたのです。名を出さずに返るものは、名を出さずに、また取り上げられます。私は、皆の見ている帳面の上で検めます。それしか、いたしません」
辺境伯は、テオの言葉を最後まで聞いた。遮らなかった。それから、要約した。
「静かな金は受け取れない。開かれた検めだけが、傷を閉じる。――そういう理屈ですな」
「そうです」
「立派な理屈だ」男は、初めてわずかに目を伏せた。「私も二十年前、家印を継いだ日に、それが言いたかった」
それきり、彼は踵を返した。従士が続いた。数歩行って、雪の中で一度だけ振り返った。
「お引き止めして、申し訳なかった、検認官殿。……よく積もる雪だ」
白い雪の中を、黒い船へ、辺境伯は戻っていった。
*
帰り道は、崖下の浜沿いだった。
雪は止まなかった。降りしきる白の向こうで海と空の境が消え、崖の黒だけが右手に続いていた。
先に気づいたのはシグリドだった。叫ばず、テオの袖を強く二度引いた。
白い外套が、雪から生えるように立ち上がった。前に三つ。後ろに二つ。
「囲まれた」リーケの剣は、もう抜けていた。「坊やは懐を押さえろ。ルチア、あたしの背中。シグリドは下がれ」
乱戦は、短かった。
降る雪の中で、すべてが白く、近く、静かだった。リーケが前の二人を続けざまに雪へ沈めた。三人目が、入れ替わりに横をすり抜けた。狙いはテオではなかった。ルチアだった。正しくは――ルチアが胸に抱えた、布包みだった。
ルチアは、渡さなかった。包みの紐を両腕で抱き込み、雪の上を引きずられた。引きずられながら、離さなかった。男の短刀が紐にかかるのが見えた。
リーケが振り向いた。剣は包みへ伸びた腕を追わず、男の体を、ルチアの上から蹴り剥がした。人と紙の、人を先に守る動きだった。その入れ替わりに、後ろから来た二人目の刃が、リーケの腿をかすめた。浅い。だが、赤い。雪の上に点々と、赤が散った。
紐が、切れた。
布包みは、宙で受け取られた。受け取った男の上背に、見覚えがあった。いつからそこにいたのか。クルト・アシェンバッハは包みを小脇に納め、リーケと、その足元の赤と、テオの顔とを順に検めた。
「今日は――これを、預かる」
それだけ言うと、白い外套たちは雪へ溶けるように退いていった。追える足場はどこにもなかった。追えば、崖下の浮氷である。
雪だけが、降りつづけていた。
テオは、雪の中に膝をついたままのルチアの傍らへ駆け寄った。怪我はなかった。怪我はないのに、ルチアは両腕で、もう何も抱えていない胸を抱えたままでいた。
「……対話は」テオの声は掠れた。「時間を、測られていたのです。あの方は、私の理屈を最後まで、遮らずに聞いてくださった。――聞き終わるまでの間、ずっと」
降る雪が、みるみる争いの跡を埋めていく。リーケの赤も、引きずられた跡も、白く消えていく。
よく積もる雪だ、と、あの人は言った。
*
冬館に戻ると、テオは検認日誌を開き、いつもの調子で、事実だけを正しい欄に書いた。
奪われたもの、一。破棄命令書を偽と断ずる鑑定書、原本一通。組合の保証状とも。負傷、一。護衛官、右腿に浅い切創、手当て済み。無事なもの、立会検認調書、六つの食い違いの控え、封緘帙、検認図面、日誌、証言の記録、木札の写し、樺皮、朽木。以上。
「……以上、って顔じゃないでしょう、誰も」ルチアが、炉の隅で膝を抱えていた。手当てを終えたリーケは、いつもの顔で砥石を使っている。それが、かえって堪えるらしかった。「最悪よ。うちの家の百年をひっくり返す一枚。あれを書くために生まれてきたようなものなのに。……肌身から、離さなかったの。形見みたいに。離さなかったから、居場所が割れてた。奪るほうは、わたしの胸だけ狙えばよかったのよ」
「ルチアさん」
「慰めなら、要らない」
「慰めではありません。出納の報告です」テオは、行李の底から封緘した帙をひとつ取り出した。封蝋に、検認官印が半分重なっている。「南を発つ前の晩、あなたの鑑定書を写させていただきました。一字ずつ。図版は透き写しで。証拠は、送り出す一通のほかに、手元にも残す。……この一年で身についた、私の作法です」
ルチアが、顔を上げた。
「写しは、原本の代わりにはなりません。組合の保証は原本に付いたもので、写しには乗り移らない。それでも――何が書かれていたかを、私たちは寸分違わず言えます。何を失ったか正確に言えるなら、失ったものは、いつか取り返せます。控えというものはね、ルチア。負けた日のために、あるんです」
言ってから、テオはこの言い回しの出所に気づいた。床下に三冊目を置く、あの老書記の口調が、いつの間にかうつっている。役所の口がうつったな、と、いつかリーケに言われたのと同じことが、起きているらしかった。
ルチアは、長いこと封緘帙の印影を見ていた。
「……証拠は、誰のものでもない、のね」やがて、彼女は言った。声から、力みが抜けていた。「うちの家のものでも、わたしのものでもない。誰のものでもないように、持たなきゃいけなかった。あなたみたいに。行李の底で、封をして、退屈に」
「退屈は、証拠のいちばんの友です」
「その台詞、南で言ったら笑われるわよ」ルチアは笑おうとして、半分だけ成功した。
リーケが砥石を置き、日誌の損害の欄を検めて、その脇に自分の字で一行書き足した。奪られた物は、奪られたと書いておく。帳尻は、いずれ合わせに行く。
「覚え書きだ」彼女は言った。「帳面ってのは、諦めるために書くんじゃない。取り返しに行く日のために書くんだ。あんたらの控えと、同じ理屈だろう」
炉の火が静かに燃えていた。厩で誰かが七号に飼葉をやる音がした。明日の天気を読みに出たシグリドが、雪はやむ、と短く告げた。
*
報せは、翌朝、峠の関から届いた。
王国の逓送の乗り手が関まで来て、北の見張りに書状を託したのだという。紙を受け取らぬはずの関が受け取り、若い衆が夜通し雪を漕いで、入江まで運んだ。届けてきた若者は、こともなげに言った。客人の紙だ。客人の物は、館の名にかけて届く。
書状の封蝋には、見慣れた職印があった。文書監、コンラート・ヴィンター。署名がある。職印がある。日付がある。様式のすべての欄が、あるべき場所で埋まっている。
テオは炉の前で封を切り、三行に満たない文面を、二度読んだ。
畳んで顔を上げると、ハルヴァルドが見ていた。
「王都か」
「王都です」
氏族長はそれ以上訊かなかった。代わりに立ち上がり、テオの前に立った。塩と火の儀のときと、同じ立ち方だった。
「行け、客人」ハルヴァルドは言った。「百年前、王国は検めに来て、持って帰るだけ持って帰った。……今度こそ、返すものを持って、戻れ」
「戻ります」テオは頭を下げた。「ここの石の検めが、まだ途中です。検認官は、検めかけの帳面を、放っておけないのです」
外で、風が変わった。入江の氷が、長く鳴いた。
即時帰院せよ、と一行目にあった。
決算が始まる、と二行目にあった。




