2-4 寝るまで
「寝るまで」という短い約束が、二人に初めて同じ朝を連れてきます。
「何もしないをする」
そう言って始めた通話は、本当に何もしないまま続いた。
俺は夕食の食器を洗い、凪は届いた荷物を開けた。
段ボールを切る音が聞こえるたびに、中身を当てろと言われた。大きさも重さも知らされていないので、推理ではなく単なる当てずっぽうだった。
「本」
「違います」
「服」
「違います」
「ヒント」
「生活が豊かになります」
「範囲が広がった」
「正解は、ちょっといい枕でした」
「地味」
「生活を支える大事なものなんだけど」
「豊かになるかどうかは、今夜の実績を見てからだな」
「じゃあ湊、寝るまで付き合ってよ」
凪は、枕の性能試験でも頼むような調子で言った。
「俺が何を判定するの」
「寝つき」
「寝たら返事できないけど」
「返事なくなったら合格」
「検査として雑だな」
「じゃあ専門家の先生、お願いします」
俺の仕事は枕の評価ではなかったが、訂正するのも面倒だった。
「寝るまでね」
「うん。寝るまで」
その時点では、それが通話を終える時刻の代わりになると思っていた。
十一時を過ぎたころ、ゲームの更新が終わったことを知らせる通知が出た。
「アップデート終わった」
「何の?」
「ゲーム」
「ああ」
「やる?」
「湊はやりたい?」
「どっちでも」
「私もどっちでもいい」
どちらもゲームを起動しなかった。
代わりに、凪が買った枕の説明書を読み上げた。
高さを三段階に調整できること。中材を出し入れできること。正しい首の角度について、それらしい図が描かれていること。
「人間の首って、三段階で分類できるの?」
「メーカーはできると思ってる」
「湊の仕事的にはどうですか」
「人間を三種類で処理できたら、たぶん今より早く帰れる」
「低い、普通、高い」
「何が?」
「人間性」
「枕より分類が雑になってる」
日付が変わる少し前、凪の声の向こうで水音がした。
「歯磨いてる?」
「んー」
返事が言葉になっていない。
「それで通じると思ってるだろ」
「ん」
「肯定ね」
歯ブラシが歯に当たる音まで、かすかに聞こえた。
少し前まで、俺は凪が暮らしている部屋を知らなかった。今も住所も間取りも知らない。それでも、冷蔵庫から机までの距離や、洗面所へ向かうと声がどのくらい遠くなるかは、音だけで分かるようになり始めていた。
やがて水が止まり、凪の声が戻る。
「今からベッド行くね」
「じゃあ切る?」
「なんで?」
本当に分からないような声だった。
「寝るんでしょ」
「寝るまでって言ったじゃん。まだ寝てない」
「確かに」
凪はいったん通話から抜け、すぐにスマホから入り直した。
布団の擦れる音がして、声がさっきより近くなる。
「近いな」
「枕元に置いた」
「枕はどう?」
「まだ分かんない」
「もう頭乗せてる?」
「乗せてる」
「じゃあ、頸椎の角度と沈み込みを」
「眠くなる話して」
「真面目に評価しようとしたのに」
「真面目に喋られると聞いちゃうから寝られない」
声が近くなったぶん、凪の呼吸まで聞こえた。
昼間より少し低く、言葉の終わりがゆっくりしている。
俺も部屋の明かりを一段暗くした。
「湊って寝つきいい?」
「悪くはない」
「頭の中うるさそうなのに」
「うるさいよ。勝手に話題が増える」
「どうやって止めるの?」
「止めない。考えるのに飽きたら寝る」
「それ、飽きなかったら?」
「朝になる」
凪が小さく笑った。
「私は寝る前に、昔の変なこと思い出す」
「変なこと?」
「数年前に言った、ちょっと滑った冗談とか」
「誰も覚えてないよ」
「私が覚えてる」
「当事者が風化を拒んでるのか」
「脳が勝手に再放送する」
「需要がない番組だな」
「しかも寝る前だけ放送する」
「編成が悪い」
話すほど、凪は眠りから遠ざかっているようだった。
それでも会話は途切れなかった。
子どものころに怖かった夢。翌朝になるとなぜ内容がくだらなく思えるのか。夢の中では文字や時刻をうまく読めないことがあるという話。それなら夢の中で時計を確認できれば、自分が夢を見ていると気づけるのか。
一つの話題が終わる前に別の問いが生まれ、どちらも止めようとしなかった。
「今、笑った?」
凪が不意に聞いた。
「笑ってない」
「笑った」
「顔見えてないのに」
「息で分かる」
「監視されてるな」
「顔が見えない分、音は聞いてるから」
そう言われると、急に自分の呼吸が不自然になった。
意識すればするほど、普段どう息をしていたのか分からなくなる。
「今、呼吸下手になったでしょ」
「うるさい」
凪が声を抑えて笑った。
俺も布団へ入ることにした。
通話を切らないまま接続先をスマホへ替え、明かりを消す。
天井が暗闇に溶ける。
「湊も寝るの?」
「そのつもり」
「じゃあ、どっちが切る?」
「凪が寝たら俺が切るよ」
「湊が先に寝るかもしれないじゃん」
「そのときは凪が切ればいい」
「分かった」
役割は決まったはずだった。
しばらくして、凪が聞いた。
「湊、眠い?」
「少し」
「じゃあ寝ていいよ」
「凪が寝るまで付き合うんじゃなかった?」
「湊が寝るなら、私が切るから」
「凪が寝たら、俺が切る」
「じゃあ、どっちが先に寝ても大丈夫だね」
「そうだね」
理屈の上では、そのとおりだった。
けれど俺たちは、どちらが起きているのか確かめるために、ときどき相手の名前を呼んだ。
「湊」
「いるよ」
「凪」
「いる」
確認するたび、寝る時刻が少しだけ遠ざかった。
会話の間隔が長くなっていく。
一分だった沈黙が三分になり、三分だったものが、どのくらい続いたのか分からなくなる。
凪の返事から言葉が減り、やがて小さな息だけになった。
「凪?」
返事はない。
一定の間隔で、静かな呼吸が聞こえる。
寝たのだと思った。
約束どおりなら、俺が通話を切る番だった。
スマホを手に取り、画面を点ける。
赤い終了ボタンが、暗い部屋の中で浮かび上がった。
押せばいい。
凪はもう眠っている。通話を残しておく理由はない。充電も減るし、明日は仕事だった。
指を画面へ近づける。
そのとき、凪が小さく寝返りを打った。
布団が擦れ、呼吸の位置が少しだけ遠くなる。
俺は終了ボタンを押さず、スマホを伏せた。
切らなかった理由を、うまく説明することはできなかった。
ただ、凪の呼吸が消えたあとの部屋を、今から静かにする必要もないと思った。
俺も目を閉じた。
次に目を開けたとき、カーテンの隙間が白くなっていた。
枕元で目覚ましが鳴る。
手探りで止めると、スマホから低い声がした。
「……うるさい」
一瞬、誰の声か分からなかった。
「凪?」
「朝?」
「朝」
「枕、合格かも」
「そこから?」
「途中で起きなかった」
「通話も切らなかったんだな」
「湊もじゃん」
スマホの画面には、十時間を超えた通話時間が表示されていた。
俺が切るはずだった。
凪が切る可能性もあった。
それでも、どちらも切らなかった。
「おはよう、湊」
まだ眠気の残る声で、凪が言った。
「おはよう」
恋人ではない凪と、同じ通話の中で夜を越えた。
寝るまで、という約束は、眠ったあとまで続いていた。
第九話をお読みいただき、ありがとうございます。
二人はまだ関係に名前をつけていません。それでも、夜の終わり方だけは、もう以前と同じではなくなりました。
次話は「これ、俺のこと好きだな」です。




