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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
凪からの接近
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2-3 ゲームを閉じても

一緒に何かをする時間から、何もしなくてもつながっている時間へ。

ゲームを閉じると、急に部屋が静かになった。


怪物の足音も、警報も、換気装置の低い唸りも消える。


暗くなった画面にはデスクトップが映り、通話アプリの小さなウィンドウだけが残っていた。


参加者は二人。


俺と、凪。


「閉じた?」


凪が聞いた。


「閉じた」


「私も」


「おつかれ」


「おつかれさまでした」


本来なら、そこで通話も終わるはずだった。


けれど、切断を知らせる音は鳴らなかった。


俺はマウスから手を離し、椅子の背にもたれた。凪も何も言わない。


数秒後、向こうで椅子を引く音がした。


足音がマイクから遠ざかり、何かの扉が開く。冷蔵庫だろうと思った。


「何探してるの」


「なんで分かったの?」


「冷蔵庫の音したから」


「プリン」


「こんな時間に?」


「ゲームを頑張ったので」


「最後の一戦以外、だいたい死んでたけど」


「最後に生きて帰れば、それまでの死亡は経費です」


「命を経費処理するなよ」


冷蔵庫の中を動かす音が続いた。


「ない」


「昨日食べたんじゃない?」


「昨日買ったんだから、昨日食べてても不思議ではない」


「記憶に聞いてる」


「あった」


「疑惑を残したまま解決するな」


凪の声が遠くなり、すぐに戻ってきた。プラスチックの蓋を剥がす音と、引き出しの中で金属が触れ合う音がする。


ゲームの中では、凪の行動は画面に映っていた。


今は声と音しかない。


それでも、冷蔵庫の前に立ち、プリンとスプーンを持って戻ってくる姿が、なんとなく分かった。


「湊は何か食べないの?」


「水だけ取ってくる」


「水は食べ物に含まれません」


「摂取するものという意味で答えた」


「私の質問の精度が低かったか」


「反省してください」


「改善するとは言ってません」


さっきの会話をそのまま返されて、笑った。


ヘッドセットを外さずに台所へ向かう。


部屋を出ると無線の届き方が変わるのか、凪の声にかすかな雑音が混じった。


コップに水を注ぐ。


「今、水の音した」


「水を取りに来たからね」


「本当に水飲むんだ」


「何だと思ってたの」


「冷蔵庫を開けたら急に誘惑に負ける可能性もある」


「何の?」


「知らない。湊の家の冷蔵庫だし」


「仮説が雑すぎる」


コップを持って机へ戻る。


それだけのあいだ、凪は通話の向こうにいた。


誰かと通話をしながら、自分の部屋を歩くことはこれまでもあった。それなのに、自分の暮らしている場所へ凪の声が入り込んできたようで、妙な感じがした。


「今日さ」


プリンを食べながら、凪が言った。


「コンビニでプリン買ったとき、スプーンじゃなくて割り箸入れられた」


「店員には別の食べ物に見えてたんじゃない?」


「何に見えるの。茶色い麺?」


「カラメル部分しか認識してない可能性はある」


「人間、見たいものしか見ないからね」


「さっきの本の知識を雑に使うな」


「今日、湊に話そうと思って覚えてた」


凪は、何でもないことのように続けた。


俺に話すために覚えていた。


内容は、プリンに割り箸がついてきたというだけの話だった。


役に立つわけでもなく、結論もない。明日には忘れても何も困らない。


けれど凪の一日の中で、俺はその出来事の行き先として存在していたらしい。


「俺も今日、変なの見たよ」


「何?」


「同じ水が、五メートルくらい離れた自販機で三十円違った」


「五メートルで三十円か」


「一メートル六円」


「そこ計算する?」


「湊は安いほうで買った?」


「買った」


「三十円得したことより、値段の違いに気づいた自分に満足してそう」


「否定しづらい」


「それ、普段は誰に話すの?」


聞かれて、考えた。


同僚にわざわざ話すほどではない。家族へ連絡する理由にもならない。面白いとは思ったが、誰かに伝えなければならないことではなかった。


「たぶん、誰にも」


「もったいない」


「三十円の話が?」


「そういう、どうでもいい発見」


スプーンが器の底を掬う音がした。


「私、聞くの好きだよ」


「じゃあ、次から報告します」


「うん。報告先、私ね」


軽い言葉だった。


それでも、報告先という響きだけが妙に残った。


何かが起きたとき、最初に思い浮かべる相手。


まだ俺には、何かの報告先として凪を思い浮かべる習慣はなかった。


ただ、そのための場所が空いていることには、そのとき初めて気づいた。


プリンを食べ終えた凪が、食器を流しへ持っていった。


水の音がしばらく続き、止まる。


俺は机の上に置いたままだった本を開いた。


数行読んだところで、凪が戻ってくる。


「何してる?」


「本読んでる」


「通話中なのに?」


「駄目?」


「駄目じゃないけど」


少し間が空いた。


「切ったほうがいい?」


「いや。読んでていいよ」


「凪は?」


「私は、通販で買うもの見てる」


「じゃあ、お互い何かあったら喋るか」


「うん」


それから数分、会話はなかった。


ページをめくる音。


凪がマウスをクリックする音。


遠くを走る車の音が、俺の部屋の窓から一度だけ聞こえた。


普通なら、通話中の沈黙には意味が生まれる。


退屈しているのか。怒っているのか。会話を終わらせたいのか。何か話したほうがいいのか。


凪との沈黙には、そのどれもなかった。


話すことがないのではなく、話す必要がないだけだった。


俺は一ページ読み終え、続けて次のページをめくった。


「湊」


「うん」


「さっきの自販機、百三十円のほうが先に目に入ったら、百円の水がすごく安く見えるよね」


「アンカリングの話?」


「たぶん。使い方合ってる?」


「だいたい合ってる」


「じゃあ、高いほうの自販機にも役割はあるんだ」


「安いほうの売上に貢献してる可能性はある」


「隣の自販機同士が協力関係かもしれない」


「所有者が違ったら、高いほうは一方的に損してるけど」


「世知辛い」


会話はそこで終わり、俺たちはまた別々のことへ戻った。


一度止まっても、続きを始めるための助走がいらなかった。


その夜、通話を切ったのは二時四十分だった。


凪が眠いと言い、俺が明日も話せると言うと、凪は素直に「じゃあ寝る」と答えた。


切断音のあと、部屋は元の静けさに戻った。


けれど、ゲームを閉じたときとは違った。


冷蔵庫の扉も、スプーンが器に当たる音も、もう聞こえない。


自分の部屋にあるものは何一つ減っていないのに、少しだけ広くなったように感じた。


翌日の夕方、凪からメッセージが届いた。


『今日ゲームする?』


『アップデート終わってない』


『どのくらい?』


進捗を確認する。


残り時間は、三時間以上と表示されていた。


『今日は無理そう』


少しして、凪からもう一通届いた。


『じゃあゲームしないで通話する?』


通話をするなら、何か目的が必要だと思っていた。


一緒にゲームをする。相談がある。伝えたいことがある。


けれど凪は、理由がなくても俺の声を聞こうとした。


俺は、更新中のゲーム画面を最小化した。


『する』


すぐに招待が届く。


通話に入ると、凪が言った。


「今日、何する?」


「何もしないんじゃなかった?」


「何もしないをする」


「難易度高いな」


画面には、ゲームも、怪物も、二人のキャラクターもいなかった。


通話時間を示す数字だけが、一秒ずつ増えていく。


ゲームを閉じても残ったものに、俺たちはまだ名前をつけていなかった。

第八話をお読みいただき、ありがとうございます。


この回から、二人にとって通話そのものが日常の一部になっていきます。


次話は「寝るまで」です。

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