2-1 暇?
第二部の始まりです。
最初の一対一は、たった二文字の質問から始まりました。
『暇?』
凪から二度目の個人メッセージが届いたのは、フレンドになって三日後の夜だった。
時刻は夜の九時四十七分。
風呂を済ませ、机の上に置いていた本を開いたところだった。読みたかった本なので暇ではない。ただ、今すぐ閉じても困る人はいない。
そういう状態を暇と呼ぶかどうか、少し迷った。
『暇の定義による』
『今から一時間くらい、私とゲームできる人』
『条件が急に具体的になった』
『該当しますか?』
『一応』
送信した直後、通話への招待が届いた。
返事を待っていたというより、返事が来ることを前提に準備していた速さだった。
ヘッドセットをつけ、通話に入る。
「こんばんは、暇な人」
「募集要項に該当しただけです」
「採用です。おめでとうございます」
「競争率は?」
「一倍」
「人気のない職場だな」
凪が笑った。
ゲームはすでに起動しているらしく、招待通知が続けて届く。参加すると、待機部屋にいたのは凪一人だった。
「坂口たちは?」
「呼んでないよ」
「牧野も?」
「うん」
当然のように返されてから、俺はロビーの人数表示を見た。
四人まで入れる部屋に、二人分の名前だけが並んでいる。
「呼ぶ?」
「湊が呼びたいなら」
言い方に、わずかな含みがあった。
呼んでもいい。ただし自分は呼びたくない。そんな返事に聞こえた。
「いや、別に。二人でできるなら」
「できるできる」
「その言い方、できないときのやつだろ」
「ゲームは起動するから、できる」
「クリアできるとは言ってないわけね」
「契約書はちゃんと読まないと」
案の定、二人で入った研究施設は、四人のときより広かった。
実際に面積が変わったわけではない。分担できる相手が少ないだけで、廊下は長くなり、暗闇は濃くなる。
電源を入れる人間と、怪物の位置を監視する人間と、回収物を運ぶ人間。本来なら別々に動く役割を、二人で行き来しなければならなかった。
「凪さん、そっち行くと袋小路」
「先に言って」
「今、地図見つけた」
「じゃあ湊が悪い」
「時系列を無視するな」
「助けに来たら許す」
画面の奥で凪の持つライトが激しく揺れていた。その後ろから、床を擦るような音が近づいている。
俺は回収しかけていた機材を捨て、地図で見つけた別の通路へ走った。
「正面の角を左。ドア二枚越えて、赤い棚」
「赤い棚ね」
「その手前に横道あるから、そこで一回待って」
「分かった」
説明の途中で、凪のライトがこちらへ向きを変えた。
俺が言い終えるより先に、凪は意図した横道へ入った。追ってきた怪物が目の前を通り過ぎても、しゃがんだまま動かない。
「今。戻って」
「はい」
凪が立ち上がる。廊下を横切って合流し、二人で出口へ向かった。
言葉は短かったが、短くて済んでいた。
結局、出口まであと少しというところで、凪が床の缶を蹴った。
甲高い音が響き、奥に消えたはずの怪物が振り返る。
「あ」
「契約書に、缶を蹴る人がいるって書いてなかった」
「不測の事態です」
「人災だよ」
「湊だけでも逃げて。私のことは忘れて」
「三分くらいなら覚えてる」
「薄情すぎる」
凪を起こそうとして戻り、俺も捕まった。
画面が暗転する。
しばらく二人とも何も言わなかった。
やがて凪が、小さく息を漏らした。それにつられて俺も笑い、最後には二人とも、何がそんなにおかしいのか分からないまま笑っていた。
「これ、二人でやるゲームじゃないね」
「今気づいた?」
「でも、さっきの連携ちょっとよかったよ」
「缶を蹴るまではね」
「そこを切り取れば、ほぼ成功」
「結末を切り取るな」
もう一度だけ、と凪が言った。
最初に言っていた一時間は、その二回目の途中で過ぎた。
三回目を終えたころには十一時を回っていた。今度は生きて帰れたものの、二人とも次の場所を選ばず、待機部屋に立ったままだった。
「湊って、明日仕事?」
「仕事」
「何時起き?」
「七時くらい」
「じゃあ、まだ平気か」
「何を基準に判定した?」
「私がまだ眠くない」
「俺の睡眠時間に、凪さんの眠気を使うなよ」
そう言いながら、通話を切ろうとは思わなかった。
ゲームの中では、俺たちのキャラクターが無人の部屋に並んで立っている。凪のキャラクターは、ときどき意味もなく屈伸した。
「そういえば、湊って何の仕事してるの?」
「医療系」
「広い。病院で怪物に追われてる?」
「追われてはいる。主に時間に」
「何する人?」
身元が分かるほど詳しく話す必要はないと思い、仕事内容を大まかに説明した。
身体の動きや生活の仕方を見て、その人ができなくなったことを、もう一度できるようにする方法を考える仕事。
凪は少し黙った。
理解できなかったときの沈黙ではなく、頭の中で言葉を組み替えているときの沈黙だった。
「人間って、同じところを直しても同じ動きになるとは限らないよね」
「ならないね。身体だけじゃなくて、家とか仕事とか、その人が何をしたいかでも変わるから」
「じゃあ、正しい直し方が一個じゃないんだ」
「そもそも壊れたって言い方もしないけど、まあ、そう」
「仕様書がないのに、元に戻してって言われるの大変そう」
「元と同じに戻すことが正解とも限らないしね」
「新しいやり方を作ることもある?」
「ある」
凪は、知らない仕事について聞いているのに、質問のたびに説明の中心へ近づいてきた。
俺が普段どおりに話しても、そこで待っている。
職場の話から、人間はどこまで変われば同じ人間なのかという話になった。そこから先日のテセウスの船へ戻り、なぜか最終的には、ゲーム内の怪物にも労働時間の規制が必要だという結論になった。
日付が変わる少し前、ようやくゲームを終了した。
けれど、通話は切れなかった。
画面から待機部屋が消えると、凪の声だけが残った。
「凪さんは今日、何してたの」
「今日は休みだった」
「一日?」
「洗濯して、買い物して、昼寝して、起きて、湊に連絡しようかなって考えてた」
「最後のだけ行動じゃなくない?」
「かなり真剣に考えたよ」
「送ったの二文字だけだったけど」
「長文だと、暇じゃないって言いにくいでしょ」
「そこは気を遣うんだ」
「断られたとき、私が傷つかないようにしてる」
「自分への気遣いか」
「大事だからね」
軽い調子だった。
だから俺も、軽く聞いた。
「俺が暇じゃなかったら、坂口たちに聞く予定だった?」
「聞かない」
返事だけは、冗談を挟まなかった。
「今日は湊と話したかったから」
一瞬、何と返すのが適切か分からなかった。
『私は、そういう人好きだよ』
三日前の文章が頭に浮かんだ。
ただ、凪の言葉はいつも距離が近い。こちらが考えているより先に好意を口にして、それを特別なこととして扱わない。
俺は、彼女が俺を選んで連絡したという事実だけを受け取った。
そこにどんな名前をつけるかは、まだ考えなかった。
「じゃあ、俺が暇でよかったね」
「うん。すごく」
通話を切ったのは、零時半を過ぎてからだった。
机の上には、開いたままの本が置いてあった。
結局、一文字も読んでいない。
凪が俺と話したくて連絡してきたことは分かった。
ただ、その気持ちをどこへ置けばいいのかは、まだ決めなかった。
二日後の夜、また同じ二文字が届いた。
そのときも俺は、別の本を開いたところだった。
『暇?』
通知を読んで、俺は本を閉じた。
『暇』
今度は、定義を確かめなかった。
第六話をお読みいただき、ありがとうございます。
「暇?」という質問は、少しずつ二人だけの合図に変わっていきます。
次話は「あと一戦だけ」です。




