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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
ほどけない問い
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5-9 眠れない部屋

通算第四十六話、第五部の最終話です。


それぞれの部屋で、夜が更けていきます。

風呂から出ると、窓が白く曇っていた。


浴室の扉を開けたままにしていたせいだった。換気扇を回して部屋へ戻る。棚の上には、畳んだシャツがあった。その横の小皿は、灯りの下で縁だけが光っていた。


明日着るものを出しておこうと思い、別のシャツを取った。


九時半を過ぎたころ、凪からメッセージが届いた。


『お風呂出た。明日の支度もできたよ』


『よかった。朝、早いんだよね』


『うん。今日はもう寝るね』


画面の下で、入力中の表示が一度消えた。


『湊、好きだよ』


俺はベッドの端に座った。


髪の先から落ちた水が、首筋を伝った。肩に掛けていたタオルで押さえ、それから両手でスマホを持ち直した。


『俺も、好きだよ』


送ってから、その上にある凪の言葉をもう一度読んだ。


『おやすみ』


『おやすみ。明日、気をつけてね』


凪から、小さく手を振る絵が届いた。


画面を伏せ、髪を乾かした。


ドライヤーを止めると、換気扇の音が戻ってきた。昼から何度も耳に入っていたはずなのに、今は壁の向こうを薄く削っているように聞こえた。


灯りを消した。


目を閉じると、まぶたの裏に画面の白さが残った。凪の「好きだよ」も、白いところにある気がした。


俺も、と返した。


その返事をしたとき、会いたかった。濡れた髪を乾かす凪の隣に座って、温風で膨らむ髪を眺めていたかった。もう少しだけ乾かしたほうがいいと、耳の後ろを指して言いたかった。


ベッドの上で横を向いた。


敷布が肩の下で引っ張られ、細い皺ができた。手を入れて伸ばす。今度は枕の高さが気になった。頭をずらし、腕を抜き、仰向けへ戻った。


天井の隅に、外の明かりが淡く届いていた。


凪はもう横になっただろうか。眠る前には、スマホを充電して、起きる時刻を確かめる。泊まりに来た夜に見た指の動きを思い出した。画面を消すと、こちらへ顔を向けた。その続きを思い出そうとして、俺は目を開けた。


今日は会えなかった。


朝、窓のほうへ向けた椅子も、糸を通すために空けた場所も、今は暗くて見えなかった。それでも目を向ける先は分かった。


スマホを取り、時刻だけ確かめた。


十時十二分だった。


凪と最後に話してから、まだそれくらいしか経っていなかった。


画面を開くと、さっきの言葉が並んでいた。そこより少し上へ指を動かした。


帰るときの連絡。夕方の通話。俺が送った、飲み会には行けるんだね、という文。


親指を止めた。


昼には、行っておいでと送っていた。同じ画面の中にあるのに、二つを続けて読むと、自分がどんな返事を待っていたのか分からなくなった。


もう責めないつもりだった。


けれど、それだけでは、昼から胸の内側に残っているものをどこへ置けばいいのか分からなかった。シャツは棚へ戻せた。椅子も戻した。今日のために空けていた時間だけが、片づかずに残っていた。


もう一度、凪の「好きだよ」まで戻った。


読んでいる間は、息が少し深くなった。


画面が暗くなると、その先を考え始めた。


明日になっても同じ気持ちだったら、何と言えばいいのだろう。また飲み会の話をするのか。今日は責めないと言ったのに、明日なら言っていいことになるのか。


スマホを胸の上へ置いた。


薄い重みが、息をするたびに持ち上がった。


しばらくして、俺はそれを取り直した。


『まだ起きてる?』


送信した文の横に、すぐ既読がついた。


その速さに、まずほっとした。


『起きてる。どうしたの』


『ごめん。眠れなくて』


凪からの返事を待つ間に、俺は身体を起こした。足を下ろすと、床は風呂に入る前より冷たかった。


『今日のこと、まだ考えてる?』


『うん』


その二文字だけでは、昼間へ戻ってしまいそうだった。


『責めたいんじゃなくて、どうしたら同じことにならないか考えてた』


凪はしばらく返さなかった。


俺は膝の上へ肘を置いた。画面へ近づきすぎていることに気づいて、少し離した。


『今から話すの?』


『少しだけ、声聞ける?』


『少しだけなら。もう布団入ってる』


通話がつながるまでの音を、耳に当てて待った。


「もしもし」


凪の声は小さかった。


「ごめん。寝るところだったね」


「うん」


衣擦れが聞こえた。枕の上で向きを変えたのかもしれなかった。


「何を考えてたの?」


俺は机の椅子へ移った。


「二人だけだと、同じところに戻っちゃうから」


そう言ったあと、一度、唇を湿らせた。


「誰かに、間に入ってもらうのはどうかなと思って」


「誰かって?」


「前に一緒にゲームしてた人とか。二人とも話せる人に」


電話の向こうで、衣擦れが止まった。


「今日の話をするの?」


「今日のことだけじゃなくて。俺たちがどう話せばいいか、聞いてもらえたら」


一人で考えていると、何度も同じ文の前へ戻った。凪に尋ねれば、答えは返ってくる。けれど、それを聞いた自分の中から、次の問いが出てくる。別の声があれば、どこかで止められる気がした。


「私、それは嫌だな」


凪は言った。


「ゲームで会う人に、こういう話をしたくない」


「じゃあ、別の人でも」


言ってから、誰なのかと聞かれても答えられないことに気づいた。


「人の問題だけじゃなくて。私と湊の話でしょう」


「それはそうだけど」


「もう誰かに話した?」


「話してない。今、思っただけ」


「うん」


凪が息を吐いた。


俺は机の縁に置いた指を曲げた。爪が板の裏へ当たった。


「俺のほうがおかしいなら、それも言ってもらいたいと思ってる」


「どっちがおかしいか決めてほしいわけじゃないよ」


声を少し強くしてから、凪は黙った。


俺は口を開けたまま、次の言葉を探した。違う、と先に言いたくなった。でも、誰かが俺たちを見て、ここで話を終えていいと言ってくれるところを、たしかに想像していた。


「ごめん。決めてもらうっていうか」


「湊」


呼ばれて、言葉を止めた。


「今、疲れてる。新しく何か考えるの、今日は難しい」


椅子の背から、身体が離れた。


「今日のことに?」


「今日のことも。朝から出かけてたし、もう眠いし」


「俺と話すのにも、疲れたってこと?」


返事までの間に、冷蔵庫が動き始めた。


低い音が床を伝わってきた。耳に当てたスマホを少し押しつける。凪の息が聞こえるところまで近づけた。


「今は、そうだよ」


俺は机の上を見た。


何も置いていない場所に、灯りを消す前についたらしい水の跡があった。コップの底の丸い跡だった。その内側だけが、窓からの明かりを鈍く返していた。


「もう、好きじゃなくなってる?」


口に出してから、凪の返事を待つのが怖くなった。


さっきのメッセージを見たかった。通話をつないだまま画面を耳から離しかけ、途中でやめた。


「さっき、好きって送ったよ」


「うん」


「湊も、返してくれたでしょう」


「うん。俺は好きだよ」


「私もだよ」


その声を聞いて、肩が少し下がった。


下がったところへ、別の言葉が出てきた。


「でも、好きなのに、話すのがそんなにしんどいの?」


凪はすぐには答えなかった。


電話の向こうで、小さく鼻をすする音がした。泣いているのかと聞きそうになったが、分からなかった。俺は口元へ手を当てた。


「眠いって言ったら、好きじゃなくなったのかって聞かれるのも、しんどいよ」


掌の中へ、息がこもった。


「そういう意味で言ったんじゃ」


そこまで言って、止めた。


どういう意味だったのか。凪がまだ好きだと言えば、今度はその好きで何ができるかを確かめたくなっていた。


凪は続けた。


「今日、予定をちゃんと決めてなかったのは、ごめん。来ると思って待ってたのも分かった。寂しかったって言われるのが、全部嫌なわけじゃない」


「うん」


「でも、行っていいって言われても、あとから声が変わると、何か返さなきゃって思う。戻ろうかって聞いても、それも違うって言われるし」


俺は肘を机から下ろした。


「どう返せば、湊が大丈夫になるのか、ずっと考えてる」


凪の声が途切れた。


「不機嫌を受け止めるのが、しんどい」


俺は「不機嫌」という言葉を、口の中で繰り返した。


自分では、悲しいのだと思っていた。


凪に会えるつもりで待っていたことも、好きだと届いて嬉しかったことも、眠れずにいることも、そこへ入っていた。けれど凪へ送った文には、俺が今日どれほど会いたかったかより、凪が何を選んだかを責める言葉が先にあった。


「そんなつもりはなかった」


言うと、凪は小さく「うん」と答えた。


その返事のあとを、俺はすぐに埋められなかった。


棚に置いたシャツは、暗がりの中で四角く見えていた。午後には、あれを広げる凪を想像していた。白い糸が針を通るまで、見ないふりをして待つつもりだった。


今、凪は自分の部屋で横になっている。


俺がかけた電話を、耳の近くに置いて。


「……そういう言い方に、なってたんだと思う」


「うん」


「ごめん」


返事はなかった。


机の縁を探していた手を、膝へ戻した。何かを言い足せば、今よりよい終わり方になる気がした。そのための言葉が浮かぶたび、凪がもう一度返事をするところまで考えた。


「今日は、寝たい」


凪が言った。


壁の時計を見ると、十一時に近かった。


起きるまで何時間あるのか、計算しかけた。凪が何時に起きるか、俺は知らなかった。早いと聞いただけだった。


「分かった」


俺は答えた。


「おやすみ」


「おやすみ」


通話を切る音がした。


スマホを耳から離すと、手の内側が温かくなっていた。画面には、九時半過ぎの「好きだよ」がまだあった。その下に、自分が返した言葉もあった。


どちらも消えていなかった。


俺は充電のコードを差し、灯りの消えた部屋を横切った。


ベッドへ横になる。枕の端は、さっき頭を置いていなかったところだけ冷たかった。


凪が好きだった。


眠ってほしいと思った。明日の朝、少しでも楽に起きてほしかった。


それでも、枕元でスマホが震えないか、耳を澄ませていた。

第四十六話をお読みいただき、ありがとうございます。


第五部「ほどけない問い」は、ここまでです。


次話から第六部「別れ」に入ります。

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