5-8 行っておいで
通算第四十五話です。
日曜日の午後が、少しずつ過ぎていきます。
昼を食べ終えても、窓際の椅子は空いていた。
食器を洗い、手を拭いてからスマホを見た。新しい連絡はなかった。朝の、外に干すか迷ってる、という文が、画面の下のほうに残っていた。
俺は窓を少し開けた。
風が入り、本のページが数枚めくれた。机へ戻ると、どこまで読んでいたのか分からなくなっていた。さっきまで目で追っていた文章を、前のページから探した。
二時を回ったころ、凪から連絡が来た。
『今、駅のほうで買い物してる。明日のもの、だいたい揃った』
その文を読んで、俺は椅子から少し身体を起こした。
買い物が済んだら来るのかと思った。
続きが届いた。
『職場の人たちが今日集まるんだって。四時から近くで飲むらしくて、私も誘われた』
『八時くらいには帰るつもり。ボタン、別の日でもいい?』
俺はスマホを持ち直した。
窓のそばで、カーテンの端が椅子に触れていた。風が弱くなると離れ、また同じところへ戻った。
『明日、朝早いんじゃなかった?』
『うん。だから早めに帰る。支度も、帰ったらすぐ終わると思う』
返事を読んでいる間に、もう一つ来た。
『まだ返事してないよ。今日は断ることもできる』
俺は画面を見ていた。
何時に来るのか、聞こうとしてやめた問いが、今なら送れた。ボタンよりも、顔を見たかったと言うこともできた。
けれど、そう伝えれば、凪は断るかもしれなかった。
職場で知り合った人たちと、仕事のない日に集まる。どんなふうに誘われたのかは知らなかったが、凪は行きたいから俺に聞いていた。
来て、と言って来てもらうことを、俺はどうしてか、望んでいたものから少し違うところへ置いていた。
『いいよ。行っておいで。ボタンはまた今度で』
送ると、すぐに返事が来た。
『ありがとう。今日つけるって言ってたのに、ごめんね』
『うん。気をつけて』
スマホを伏せた。
それで、午後の予定はなくなった。
俺は本を手に取り、さっき探していたページを開いた。今度は栞を挟んだままにした。
一行ずつ読んだ。
意味は分かった。けれど段落の終わりまで来ると、その前に何が書かれていたのか確かめたくなった。
スマホへ手を伸ばした。
友人との画面を開くと、朝の誘いと、俺が断った文が並んでいた。
今日はちょっと予定ある。また誘って。
今から行けるようになった、と打とうとして、時刻を見た。友人はもう隣町に着いているころだった。
何も送らず、画面を閉じた。
冷蔵庫を開けた。
夕食に使えそうなものを見て、扉を閉めた。まだ三時にもなっていなかった。
窓際の椅子を元へ戻そうとした。
背もたれをつかむと、さっきまで日が当たっていたところが温かかった。そのまま少し引き、途中で手を離した。机へ向けるにも、テーブルへ戻すにも半端な角度になった。
ボタンは小皿の中にあった。
凪が来れば、ここに座ってシャツを広げるはずだった。糸が通ったら見ていいよ、と言った声を思い出した。
俺は裁縫道具の蓋を開けた。
白い糸の端を探し、少し引いた。巻かれた紙がケースの中で持ち上がったので、押さえた。
針には触らなかった。
糸を巻き戻して蓋を閉めると、小さく爪の音がした。
四時を少し過ぎて、凪から連絡が来た。
『お店着いたよ』
俺は、楽しんで、と打った。
送る前に消した。
代わりに、うん、と返した。
それだけでは冷たく見えるだろうかと思った。何か足そうとしたが、足す言葉がなかった。
スマホを置いて、台所へ行った。
昼の食器はもう乾いていた。棚へ戻し、布巾を広げ直した。水切り籠の下に溜まった水を捨てると、流しの底を薄く広がって消えた。
やることが一つ終わるたびに、次にすることを探した。
凪の家までは歩いて十二分だった。
ボタンをつけるのに、何時間もかかるわけではない。俺のところへ少し寄ってから行くこともできたのではないか。そう考えて、店がどこなのか聞いていなかったことを思い出した。
それでも、四時から八時まで、という長さは頭に残った。
あんまり長く一緒にいられない、と昨日は言っていた。
俺は手を拭き、スマホを取った。
『長くはいられないって言ってたけど、飲み会には行けるんだね』
送信した。
送ったあとで、文の終わりを見た。
尋ねる形にすらなっていなかった。
しばらく返事は来なかった。俺は画面を上に向けたまま、テーブルへ置いた。
窓の外で、自転車のブレーキが鳴った。誰かが短く笑い、話す声が遠ざかった。
スマホが震えた。
『八時には帰るって話したよね。湊もいいって言ってくれたから』
俺は椅子へ座った。
『帰る時間の話じゃなくて、俺とは会えないのに、そっちは行けるんだと思って』
『今日、ボタンつけるのを別の日にしていいかも聞いたよ』
『それは分かってる』
そこまで返し、指を止めた。
分かっているなら、何を聞いているのだろうと思った。
でも、分かっていることと、目の前のシャツを片づけられることは、まだ別だった。
『俺、今日会えると思って、誘われてたの断ったんだよ』
送った。
その文だけ、凪に伝えていなかった朝の時間を、まとめて差し出したように見えた。
『それ、知らなかった』
返事は短かった。
『日曜につけるって話してたから、空けてた』
『うん。その話はしてた。だから、今日は別の日にしてもらえないか聞いたつもりだった』
俺は顔を上げた。
朝に寄せた椅子が、斜めのまま部屋の中にあった。
またスマホが震えた。
『待っててくれたのは、ごめん。昨日、何時に会えるか、今日は難しいか、ちゃんと話せばよかった』
続けて、
『でも、行っていいって言われたあとにそう言われると、どうしたらいいか分からない』
と来た。
俺は画面を親指で少し上へ送った。
いいよ。行っておいで。
自分で送った文には、ためらった時間も、空けていた午後も入っていなかった。凪が読めるのは、この短い文字だけだった。
通知が重なった。
『少し電話できる? 外に出る』
俺は頷きかけてから、できる、と返した。
電話がつながると、向こうで扉の閉まる音がした。人の声が急に小さくなり、かわりに風がマイクへ当たった。
「湊?」
「うん」
「今日、そんなに楽しみにしてたんだね」
俺はシャツを見た。
「少しなら会えると思ってた」
「うん」
「ボタンだけじゃなくて」
そこまで言うと、喉が詰まった。
向こうで車が通った。凪が何か言いかけ、音が小さくなるのを待っていた。
「今から、戻ろうか」
俺は口を開かなかった。
凪がこちらへ歩いてくるところが浮かんだ。玄関を開け、鞄を置き、あの椅子に座る。まだ外は明るい。針に糸を通すにも、遅くはなかった。
「もうお店にいるんでしょ」
「いるけど。今日は先に帰るって言えるよ」
「いいよ。戻らなくて」
自分の声が、思っていたより平らだった。
「でも、このままいても、湊は嫌なんでしょ」
「俺が言ったから帰ってくるのも違うじゃん」
凪が黙った。
俺も黙った。
会いたかった。さっきから、そこだけは変わっていなかった。
けれど今、凪が帰ってきても、俺は店に残してきた人たちのことを考えるのだと思った。引き止めたのではなく、自分から来てくれたのだと、どうにかして思いたかった。
「私、どう言えばいい?」
凪の声がした。
「断ることもできるって、行く前にも言ったよ」
「うん」
「戻るって言っても違うなら、何をしたらいいの」
俺は膝へ手を置いた。
指先が冷たかった。部屋は暑いままで、背中にはシャツが貼りついていた。
「分かんない」
ようやく、それだけ言った。
凪が息を吐いた。
「……そっか」
向こうでまた風が鳴った。俺は、日陰にいるのか、暑くないのかと聞きかけた。今その言葉を挟んでも、さっき言ったことの続きにはならなかった。
「行っていいって言いながら、止めるようなこと言って、ごめん」
俺が言うと、凪はしばらくして、うん、と答えた。
「今日は、戻らなくていい。八時に帰るって話したとおりで」
「あとから、また言わない?」
胸のあたりが固くなった。
すぐに、大丈夫、と返したくなった。けれど午後にも、同じくらい簡単に、いいよと送っていた。
「寂しいのは、まだある。でも、帰ってこなかったことを責めるのは違うと思う」
凪は答えなかった。
俺は続けた。
「今は、そう言うしかできない」
少しして、凪が小さく、分かった、と言った。
「じゃあ、戻るね。みんな待ってるから」
「うん」
通話が切れた。
耳から離したスマホには、まだ凪の名前が表示されていた。
俺はそれをしばらく見てから、机へ置いた。
窓際の椅子を持ち上げ、テーブルのそばへ戻した。床を引きずらないようにしたせいで、下ろしたときの音だけが大きく聞こえた。
シャツは畳んだまま、棚へ移した。
小皿を重ねようとして、やめた。ボタンが滑り落ちそうだったので、棚の隅へ別に置いた。
それから、米を研いだ。
水を捨てると、濡れた米が指へ何粒かついた。釜の中へ戻し、いつも一人で炊くところまで水を入れた。
炊飯器の蓋を閉めたところで、スマホへ目が向いた。
何も届いていなかった。
八時を少し過ぎて、凪から連絡が来た。
『今、帰ってる』
俺は夕食の皿を洗っていた。水を止め、手を拭いた。
『気をつけて』
送ってから、流しへ戻った。
ほどなく、着いたよ、と届いた。
『おかえり』
『ただいま。明日の支度して、お風呂入るね』
俺は、そのあとに続ける言葉を考えた。
電話したい、と書くには、さっき店の外で聞いた声が近すぎた。
『うん。おつかれ』
送って、スマホを置いた。
拭き終えた皿を棚へ戻すとき、隅の小皿が目に入った。白いボタンが一つ、窪みの底に収まっていた。
指で触れかけ、手を下ろした。
まだ九時前だった。
第四十五話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「眠れない部屋」です。




