5-7 外れたボタン
小皿に置いたボタンのために、日曜日を空けます。
洗い終えたシャツを干すと、前の片側だけが風でめくれた。
残っているボタンを一つ留め、裾を引いた。肩のところに洗濯ばさみを掛けると、ようやく形が落ち着いた。
金曜の夜だった。
昼間の雨は上がっていたが、ベランダの手すりには水が残っていた。肘が触れ、袖に細く染みた。部屋へ戻ってから、そこを指で押さえた。
机の小皿には、外れたボタンが一つあった。
凪が持ち上げ、戻したときのままだった。俺はそのそばに置いていたレシートを片づけ、本を少し奥へ押した。
スマホが鳴った。
『あのシャツ、もう洗った?』
凪からだった。
『今、干したところ』
『日曜につけようか』
画面を持つ手を、膝の上へ下ろした。
俺からも、いつなら頼めるか聞こうと思っていた。仕事から帰るたび小皿が目に入り、そのたび、今日は疲れているかもしれないと後へ回していた。
『ありがとう。日曜、空いてるよ』
『午後なら行けると思う。糸、持ってくね』
『お願いします』
送ってから、机の上をもう一度見た。
ボタン一つを置くには、大きすぎる皿だった。
その夜の通話でも、少しその話をした。
「裁縫道具、湊のところにある?」
「小さいのなら。どっかに」
「どっか、か」
「引き出し、二つくらい開ければ出ると思う」
実際に開けてみると、一つ目には電池とケーブルしかなかった。二つ目の奥で、透明なケースが横になっていた。
「あった」
「予告どおり」
凪が笑った。
蓋を開けると、小さなはさみと、何色かの糸が巻かれた紙が入っていた。針は薄い布へ刺してあった。
「糸もあるよ。白」
「じゃあ、見てから決める。私も一応持ってく」
「そんなに違う?」
「色とか、太さとか。あと、足りるかなって」
俺は紙に残った白い糸を見た。ほかの色より少なかった。
「たしかに、あんまりない」
「でしょ。使いたい色だけなくなるんだよね」
凪のほうで、何かを置く音がした。
「それ、窓の近くでやっていい? 明るいほうが見やすいから」
「いいよ」
俺は窓際へ顔を向けた。
夜のガラスには、部屋の灯りが映っていた。そこに日が入っているところを思った。凪が袖を折り、シャツを膝へ広げる。糸が絡まったら、たぶん、一度手を止めて顔へ近づける。
「あんまり見てないでね」
凪が言った。
「まだ何も言ってないけど」
「針に糸通すとこ、見られると通らなくなりそう」
「そこは見ないようにする」
「通ったら見ていいよ」
俺は笑い、ケースを閉じた。
日曜日に凪がここへ座ることが、急に細かいところまで思い浮かんだ。
修理に出すほどのものではなかった。調べながら自分でつけることもできた。けれど凪が、今度、と言ってくれたので、そのままにしていた。
彼女の手元を見て、終わったらお茶を淹れたかった。
来てくれるなら、昼はどうするだろうと思った。午後、と言っていたから、食べてからかもしれない。なら、お菓子くらいあってもよかった。
その相談をする前に、凪が別の話を始めた。
職場の近くの店で、欲しかった本を見つけたと言った。表紙が変わっていて、一度通り過ぎてから戻ったらしい。
「同じ本なのに、違う本みたいに置いてあった」
「中は?」
「同じ。たぶん」
俺は机の本を裏返した。
表紙を外したら分からなくなりそうな本が、ここにも何冊かあった。
その話をしているうちに、昼食のことは聞きそびれた。
翌日の夕方、凪からメッセージが届いた。
『月曜、朝早く出る用事が入っちゃった』
続けて、
『日曜は、あんまり長く一緒にいられなくなった。ごめんね』
と来た。
買ってきたものを冷蔵庫へ入れているところだった。
片手に牛乳を持ったまま、画面を読んだ。
あんまり長く。
俺は牛乳を扉の内側へ収めた。
月曜の朝が早いなら、日曜は家に帰って支度をして、早めに眠りたいのだろう。そこは分かった。
『了解。早めに帰って休んだほうがいいね』
『うん。ありがとう』
返事を見て、スマホを置いた。
冷蔵庫が開いたままだった。残りの袋からヨーグルトを出し、棚の空いているところへ並べた。
夕食まで一緒にはいられないのだと思った。
ボタンをつけて、お茶を一杯飲むくらいなら、そんなに遅くならない。午後の早いうちに来れば、外が明るい間に帰れる。
俺はそのつもりで、買い物袋を畳んだ。
何時なら来られる、と聞くこともできた。
けれど今聞けば、月曜の用事の前でも来てほしいと急かすような気がした。あとで凪から、行ける時間を教えてくれるだろうと思った。
『無理しないでね』
それだけ追加した。
凪から、うん、と返ってきた。
夜、乾いたシャツを取り込んだ。
肩のところに、洗濯ばさみの跡が薄く残っていた。布を指で挟んで伸ばし、ハンガーから外した。
いつもならほかのシャツと一緒に掛けておく。今日はテーブルへ広げ、袖を内側へ折った。
ボタンのないところへ指を置くと、布だけが柔らかく沈んだ。
凪は、ほかも少し緩いと言っていた。
一つずつ触ってみた。取れそうなのか、まだ大丈夫なのか、動かしているうちに分からなくなった。強く引いて自分で取ってしまいそうで、途中でやめた。
畳んだシャツを、机の端へ置いた。
小皿と裁縫道具も、その横へ寄せた。
日曜の朝は曇っていた。
目が覚めたとき、窓の外で水の流れる音がして、雨かと思った。カーテンを開けると道路は乾いていた。向かいの家で、鉢に水をやっていた。
凪へ、おはよう、と送った。
返事は、歯を磨いている間に届いた。
『おはよう。今日は洗濯してる』
『降らないといいね』
『ほんとに。外に干すか迷ってる』
俺も空を見た。白い雲が一面にあり、端のほうだけが少し明るかった。
何時ごろ、と打ちかけた。
凪はまだ洗濯をしている。今すぐ決めなくてもよかった。俺のほうには、急ぐ用事もなかった。
入力した文字を消し、スマホを洗面台の脇へ置いた。
朝食を終えて片づけていると、友人から連絡が来た。
昼から隣町の店へ行かないかという誘いだった。以前、俺が見に行きたいと言っていた店だった。
送られてきた地図を開いた。
車なら一時間もかからない。午前中に出れば、と一度考えたが、集合は昼だった。店を見て、どこかで食べれば、戻るのは夕方になる。
『今日はちょっと予定ある。また誘って』
送ると、すぐに、了解、と来た。
短い返事だった。
俺は地図を閉じた。
断ったことを、凪には伝えなかった。自分で決めたことだったし、わざわざ言えば、来るように求めているみたいだった。
机へ戻ると、シャツの折り目が少し崩れていた。
端を揃え、小皿を持ち上げた。下に溜まっていたほこりを拭く。ボタンは皿の中を滑り、縁に当たって止まった。
凪が使う椅子を、窓のそばへ寄せた。
座ってみると、自分の肩の影が膝へ落ちた。少し斜めに動かすと、手元が明るくなった。
あの夜は、凪の頭の重さを肩に感じながら、しばらく動かずにいた。今日は眠そうでなければいいと思った。糸を通すところだけ顔をそらせば、また笑うかもしれなかった。
椅子から立ち、本を取った。
何ページか読んでは、窓のほうを見た。
十一時を過ぎるころ、雲の間から日が出た。向かいの壁が白くなり、机の上のシャツにも明るさが移った。
スマホを手に取った。
『何時ごろなら来られそう?』
今度は最後まで打った。
送信するところで、昨日の文をもう一度見た。
あんまり長く一緒にいられなくなった。
俺は、短くなら会える、と読んでいた。
それで合っているかどうかを、まだ聞いていなかった。
画面の下には、自分の書いた問いが残っていた。指を少し動かせば送れた。
聞いた結果、今日はやめておこうと言われるかもしれなかった。
窓際の椅子を見た。
さっき自分で動かしたばかりなのに、もう凪の座る場所のように見えていた。
俺は文字を消した。
スマホを本の横へ置き、立ち上がった。湯を沸かそうとして、まだ早いと思い、やめた。
台所から戻ると、部屋のどこにいても時計が見える気がした。
本を開いた。
同じ行を二度読んでから、小皿へ目が移った。
白い糸をつけたボタンが、日を受けていた。手を伸ばし、畳んだシャツのすぐ横へ皿を寄せた。
凪が来たら、すぐ分かるところへ。
第四十四話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「行っておいで」です。




