5-6 食べ直す夜
遅くなった夕食を、二人で。
凪は鞄を下ろすと、そのそばにしばらく立っていた。
持ち手を握っていた指が、まだ少し曲がっていた。俺が椅子を引くと、彼女は背もたれに手を置き、座る前に一度、肩を回した。
「お水、もらっていい?」
「うん」
冷蔵庫から麦茶を出しかけ、戻した。
グラスに水を注いで渡すと、凪は両手で受け取った。続けて何口か飲み、ようやく息をついた。
俺は台所へ戻った。
解凍を終えたごはんが、電子レンジの中にあった。扉を開けると、曇ったラップの裏で水滴が動いた。
「ごはんに、卵と豆腐を煮たの、かけようと思うんだけど」
振り向くと、凪はグラスを持ったまま頷いた。
「食べたい」
「玉ねぎも入れるね」
「うん」
冷蔵庫に残っていた半分の玉ねぎを、まな板へ載せた。切り口が少し乾いていたので、そこだけ薄く落とした。
包丁を入れるたびに、白い層が横へ倒れた。凪の椅子が小さく鳴ったが、こちらへ来る足音はしなかった。
俺は切ったものを小鍋へ移した。
水とめんつゆを注ぎ、火をつける。豆腐の容器を傾けると、流しへ落ちる水が、最後だけ細い糸になった。
「何か、する?」
凪が聞いた。
「もう、そんなにないよ。座ってて」
「じゃあ、そうする」
声のあとに、背もたれへ服が触れる音がした。
鍋の縁に、小さな泡が並び始めた。
箸で玉ねぎを沈める。薄いところから透き通り、折れ曲がって汁の中へ入った。俺は火を少し弱めた。
背後が静かなので、一度振り返った。
凪は目を閉じていた。
眠っているのかと思ったが、グラスを膝へ下ろしたところで目を開けた。俺と目が合い、何、と言うように顎を少し上げた。
「眠い?」
「ちょっと。でも、お腹も空いた」
「もうすぐ」
「いい匂いしてる」
俺は鍋へ顔を戻した。
さっきまで何度も聞いていた声だった。同じ声なのに、今は、その人が椅子へ身体を預けているところまで見えた。耳の下に、髪が一筋貼りついていた。水を飲むときにも、それを直していなかった。
卵を二つ、器へ割った。
箸の先で黄身を崩すと、黄色が白身の間へ広がった。殻の片方を流しへ置き、残りも重ねる。
湯気で換気扇の下が白くなった。
豆腐を入れた汁がまた煮立つまで、俺は箸を持って待っていた。
消えた文章のことが、頭に浮かんだ。
今なら、顔を見て聞けた。電話で分からなかった間の長さも、目の動きも見える。ほんの少し言い方を変えれば、と思いかけた。
凪がグラスをテーブルへ置いた。
底が木に触れ、軽い音がした。
俺は器を傾け、卵を細く落とした。
汁の表面に黄色い筋ができ、端からふくらんだ。すぐに混ぜないよう、箸を器の上へ戻した。
「お箸、ここだよね」
凪が立って、引き出しに手を掛けていた。
「うん。ありがとう」
二人ぶんを取ると、彼女はテーブルへ戻った。箸先を揃え、俺の座る側にも一本ずつ置いた。
鍋の蓋を開けた。
卵はところどころ白く、汁の中で柔らかく揺れていた。豆腐の角を崩さないよう、お玉を底から入れる。
ごはんをよそった茶碗へ、半分ずつかけた。
汁が米の間へ染みていった。最後の玉ねぎが鍋に残ったので、凪のほうへ載せた。
「熱いから、気をつけて」
テーブルへ置くと、凪が顔を近づけた。
「お腹、急にもっと空いた」
俺も向かいへ座った。
二人で手を合わせた。
「いただきます」
凪の声に、自分の声が重なった。
箸を取る前に、俺は一度、茶碗から上がる湯気を見た。七時には冷凍庫の中にあったごはんだった。食べるつもりで数えてから、ずいぶん時間が経っていた。
凪が卵とごはんを一緒に持ち上げた。
息を吹きかけ、小さく口を開いた。噛むうちに、眉の間にあった皺が浅くなった。
「……おいしい」
飲み込んでから、そう言った。
俺も一口食べた。
熱い汁が米と一緒に舌へ触れた。玉ねぎはまだ少し歯触りを残し、噛むと甘かった。卵の柔らかいところに、めんつゆの味が染みていた。
腹の中へ落ちてから、自分も空腹だったことが分かった。
次の一口を、さっきより多く取った。
しばらく、箸を動かす音だけがしていた。
凪が豆腐を挟もうとして、半分に割った。小さくなったほうをつかみ直し、今度は途中で落とした。
「れんげ、いる?」
「ほしい。逃げる」
俺は引き出しから二つ取った。
一つ渡すと、凪は茶碗の縁へ置き、箸で豆腐を寄せた。すくったものを見て、小さく頷いた。
「これなら」
「捕まったね」
凪は口へ運ぶ前に、少し笑った。
俺もれんげを使った。ごはんと卵をまとめてすくうと、さっきより食べやすかった。
凪がもう一口取るのを見ていた。
何か言わせたいのではなく、ただ、次もおいしく食べてくれればと思った。熱すぎないかと見ていると、彼女は慎重に息を吹きかけていた。
「湊も、食べなよ」
顔を上げた凪に言われ、俺は茶碗へ目を戻した。
「食べてる」
「止まってた」
「うん」
今度は俺のほうが少し笑った。
食べ始めるまで、部屋がこんなに暑いことにも気づかなかった。首の後ろに汗があり、襟を指で離すと空気が入った。
凪も額に掛かった髪を払い、グラスへ手を伸ばした。
「水、もう少しもらうね」
「持ってくる」
台所へ立つと、俺の空いたグラスも差し出してきた。
二つに水を注いで戻った。
凪は俺が座るところを見てから、また食べ始めた。
「今日のお昼も、卵だった」
「そうなんだ」
「サンドイッチ。卵のやつ」
「かぶったね」
「でも、こっちは温かい」
凪はれんげの先で、茶碗の内側に残った卵を集めた。
「今、こういうのがよかった」
俺は頷いた。
昼に何を食べたのか、今、初めて知った。冷蔵庫にあるもので作ったものを、凪は自分の一日の続きで食べていた。
俺の茶碗が先に空になった。
水を飲みながら待っていると、凪が最後のごはんをすくった。茶碗を少し傾け、汁も残さず飲んだ。
れんげを置いて、長く息を吐いた。
俺たちは、もう一度手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
手を下ろした凪が、空の茶碗を見た。
「作ってくれて、ありがとう」
「うん」
そのまま座っていたかったが、俺は食器を重ねた。立ち上がると、凪が自分のグラスを持ってついてきた。
「洗うの、私やる」
「置いといてもいいよ」
「二つだし。湊が作ってくれたから」
凪は袖を折り返した。
俺は隣で、残った豆腐を保存容器へ移した。蓋を閉めて冷蔵庫へ入れ、使っためんつゆを元の場所へ戻す。
水の音が続いていた。
凪は茶碗を一つ洗い、俺へ渡した。濡れた底を布巾で包む。まだ少し温かかった。
「これ、朝に食べてもおいしそう」
凪が言った。
「すぐできるしね」
「今日、ほんとに何も作る気しなかったから」
泡のついた指で、れんげを持ち直していた。
俺は拭いた茶碗を棚へ戻した。
二つ目を受け取るとき、凪の指先が布巾へ触れた。濡れたところの色が濃くなり、彼女が手を離したあとも、小さな跡が残った。
片づけを終えて、部屋へ戻った。
凪は机の端で足を止めた。
「これ、何のボタン?」
小皿を覗き込んでいた。
「シャツ。帰って着替えたとき、取れた」
「なくならなくてよかったね」
凪はボタンをつまみ、穴のところを光に向けた。残っていた短い糸が、指の影から出た。
「シャツは?」
別の椅子へ移していたものを渡した。
凪は前を広げ、取れたところを見つけた。隣のボタンを指で軽く動かし、裏側も確かめていた。
「今度、つけようか。ほかも少し緩いよ」
「できる?」
「ボタンくらいなら」
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「うん。今日は、もう目がしょぼしょぼするから」
俺は頷いて、シャツを受け取った。
凪はボタンを小皿へ戻した。硬いもの同士が触れ、細い音がした。
椅子に座ると、彼女は肩から息を抜くように、背を丸めた。
俺もそばへ座った。
膝の上に置かれた手に、こちらの手を重ねた。洗ったばかりの指は、爪の際だけがまだ湿っていた。凪が少し向きを変え、掌をこちらへ向けた。
指を包むと、親指がゆっくり動いた。
俺は彼女の手の甲を一度撫で、それから動かさずにいた。
謝ったことへの返事を、ここでもう一つもらいたい気持ちは残っていた。けれど凪は、空いている手で目元を押さえていた。指を離すと、まつ毛が少し濡れて見えた。あくびを噛み殺したあと、彼女は俺の肩へ額を寄せた。
俺は背を少し起こした。
凪の頭が落ち着くところを探し、二人とも黙った。
「少し、こうしてていい?」
「うん」
頬のそばで髪が動き、石鹸とは違う、外から帰ってきた髪の匂いがした。
俺はつないでいた手を膝の上へ下ろした。重ねた手のぶんだけ、ズボンの布が温かくなった。
台所のほうから、水の落ちる音がした。
凪が顔を上げかけた。
「蛇口かな」
「あとで見るよ」
彼女はもう一度、俺の肩へ戻った。
一滴落ちて、しばらく間が空いた。
その間に、凪の息が、肩の近くを何度か通った。
第四十三話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「外れたボタン」です。




