5-5 消えた文章
仕事の終わる時刻が、二人で違った日。
シャツを脱ごうとしたとき、ボタンが落ちた。
床を二度跳ね、椅子の脚に当たって止まった。拾うと、穴に白い糸が少し残っていた。
朝から緩んでいるのには気づいていた。帰ったら見ようと思い、そのまま着て出たのだった。
机の端へ置いたが、手を離すと転がりそうになった。小さな皿を持ってきて、その中へ移した。
シャツは椅子の背に掛けた。
着替え終えてスマホを見ると、凪とのやり取りは、昼休みに送ったところで止まっていた。
『今日、仕事終わったら連絡するね』
『うん。俺も』
夕食を一緒にするかは、そのときに決めようと話していた。
俺は帰宅したことを送り、冷蔵庫を開けた。卵と豆腐があり、野菜も少し残っていた。冷凍庫のごはんを数えてから、扉を閉めた。
七時前だった。
窓の外には、まだ明るさが残っていた。向かいの壁に当たっていた日がなくなり、窓の一つだけが、空の色を薄く返していた。
俺は机に向かった。
読みかけの本を開いたが、数ページ進んだところでスマホが震えた。
凪の名前が見えた。
ちょうど手にしていたコップを置き、画面を開いた。
そこには、メッセージの送信を取り消したという表示だけが残っていた。
少し待った。
別の文が来るのだと思った。
新しい文は来なかった。画面が暗くなったので、指で触れた。
『どうした?』
送って、本へ目を戻した。
行の途中に指を置いたまま、続きを読めずにいた。何を書いて消したのだろうと思った。今日は会えないということかもしれない。そうなら、そう言ってくれればよかった。
けれど、会えないと書いてあったのを見たわけではなかった。
時計を見た。
七時半を回っていた。
俺の帰宅の知らせにも、どうした、という問いにも、まだ返事はなかった。
スマホを持ち上げた。
『消すくらいなら、送らなくていいよ』
打ち終え、そのまま送った。
画面に現れた文を見て、唇を結んだ。
聞きたかったのは、何があったのかだった。今夜どうするのかも知りたかった。
送った文には、どちらの問いもなかった。
それでも、すぐには消さなかった。
取り消しの表示だけを見せられて、こちらは待っている。そのことを、凪にも分かってほしかった。
机の端の小皿へ手を伸ばした。ボタンを裏返し、穴に残った糸を爪でつまんだ。短すぎて取れなかった。
しばらくして、返事が来た。
『今、仕事終わった』
続けて、
『急に対応することが増えて、ずっと残ってた。返せなくてごめん』
と届いた。
俺はボタンを皿へ戻した。
凪はまだ仕事をしていた。
俺がシャツを脱ぎ、冷蔵庫を開け、本を読んでいるあいだも、彼女の一日は終わっていなかった。
『おつかれ』
そこまで打った。
そのあとへ、別の文を足した。
『遅くなるなら、先に一言ほしかった』
送信した。
『そんなに遅くなると思ってなかった』
凪の返事は、さっきより早かった。
『途中でも言えなかった?』
『今は、仕事が終わったところなんだけど』
俺は背もたれへ身体を戻した。
聞いたことへの返事ではないと思った。遅くなるなら教えてほしかった、それだけのことなのに。
スマホを両手で持ち、親指を動かした。
『じゃあ、こっちに察しろってこと?』
送ったあと、すぐに長押しした。
取り消しを選ぶと、文字が消えた。
さっき凪の側にあったのと、似た表示が俺の側にも残った。
指を離せずにいると、返事が来た。
『通知で読んだよ』
俺はスマホを机へ置いた。
置いたあとも画面は明るかった。
凪の名前と、短い文が見えていた。
『そういうことは言ってない』
俺は一度、手で顔を覆った。
目を閉じると、画面の四角い明るさが残った。掌を離しても、すぐには文字へ目を戻せなかった。
八時を過ぎていた。
何か食べようと台所へ行ったが、冷蔵庫の前で止まった。凪が食べたかどうかも、まだ聞いていなかった。
机へ戻り、スマホを取った。
『今の言い方、ごめん』
それだけ送った。
少しして、凪から返事が来た。
『今、電車。家に着いてから話す』
『うん』
画面を閉じた。
窓の外は、もう暗くなっていた。いつの間にか、部屋の灯りがガラスに映っていた。椅子に掛けたシャツの前が少し開き、白い糸だけが残ったところも見えた。
九時前に、通話がつながった。
「おつかれ」
俺が言うと、少し遅れて、うん、と返ってきた。
向こうで、鞄を置くような音がした。
「今、座ったところ」
「うん」
凪の声は小さかった。聞き取りづらくて、俺はヘッドセットを耳へ押し当てた。
「今日は、急に残ることになったんだね」
「うん。自分の分が終わったら、帰れると思ってた」
凪はそこで一度、息をついた。
「でも、確認が終わってないものがあって。待って、直して、もう一回見てもらって。それが続いた」
「そっか」
「終わったら連絡しようと思ってたよ」
俺は昼のメッセージを見た。
仕事終わったら連絡するね。
その下に、俺の、うん、とあった。
「俺は、もう終わってると思ってた」
「うん。でも、終わってなかった」
言葉が途切れた。
向こうで小さく鼻をすする音がした。俺は何か言おうとし、凪が続けるのを待った。
「スマホ見たら、消すくらいなら送らなくていいって来てて」
「うん」
「何か返さなきゃと思ったけど、今からそれを説明するのか、と思った」
俺は机の縁に指を置いた。
「消えた表示だけあったから、気になったんだよ」
「気になるのは分かる。でも、あの言い方は嫌だった」
凪の声が、そこで少しはっきりした。
「何があったか、まだ知らなかったでしょ」
「うん」
「私、帰る前にもう疲れちゃった」
俺は口を開いた。
先に教えてくれれば。
また同じ言葉が出そうになった。
机の上には、あの小皿があった。さっきまで爪で引いていた糸が、ボタンの裏からわずかに出ていた。
俺は指を机から下ろした。
「事情を聞く前に、責める言い方をした。ごめん」
凪はすぐには返事をしなかった。
「……うん」
それだけだった。
俺は、消えた文のことをもう一度聞きたくなった。あれが何だったのか分かれば、今日のやり取りを最初から考え直せる気がした。
「最初の、消したのは」
言いかけると、凪が息を吸った。
俺は口を閉じた。
「ごめん。今、それを聞き直そうとした」
向こうで布の擦れる音がした。
「今は、うまく話せない」
「うん」
俺にも、聞けば何が変わるのか分からなくなっていた。
分かっている文なら、画面に残っていた。
消すくらいなら、送らなくていいよ。
自分で書いたものだった。
俺はそこから目を離し、閉じた本を手前へ寄せた。読むつもりはなかった。置き場所を変えただけだった。
通話は、そのあともしばらく続いた。
凪は途中まで話して、やめた。俺も、分かった、と答えたあとに何か足しかけた。短い返事の間に、互いの部屋の音が入った。
隣の部屋で扉が閉まった。
「何の音?」
凪が聞いた。
「隣だと思う」
「そっか」
そんなことだけは、すぐに伝わった。
しばらくして、凪が言った。
「今日、ずっと、あと少しで帰れると思ってたんだよね」
俺は黙って聞いた。
「もう一個終われば、って。それで帰れなくて、また次のことやって」
そこで声が止まった。
俺は、彼女が仕事をしていた部屋を知らなかった。どこに時計があるのかも、座ったまま外が見えるのかも。昼に弁当を食べたあと、何時に席を立てたのかも知らなかった。
「うん。長かったね」
そう言うと、凪は小さく息を吐いた。
「長かった」
その返事を聞いて、ようやく、自分が帰宅したころへもう一度戻った。
俺はシャツを着替えていた。凪は、あと一つを終えようとしていた。
そのあいだのことを、俺は空白だと思って見ていた。
時計は九時半を過ぎていた。
「凪、ごはんは?」
聞くと、少し間があった。
「まだ。湊は?」
「俺も」
「食べてなかったの?」
「うん。途中で、何するつもりだったか分かんなくなってた」
向こうで、凪が短く息を吐いた。笑ったようにも聞こえたが、俺は確かめなかった。
「何か食べよう」
俺が言った。
「卵と豆腐ならある。来る元気があれば、一緒に。今日は一人がよければ、それでもいい」
凪は少し黙っていた。
「今から、行ってもいい?」
「うん」
「でも、続きの話は、すぐにはできないと思う」
俺は椅子の背から身体を起こした。
「まず、食べよう」
「うん。そうしたい」
通話を切ってから、台所へ行った。
冷凍庫から、ごはんを二つ出した。重ねていた茶碗を離すと、底の輪が掌にひんやりと当たった。
テーブルの端へ置き、椅子に掛けたシャツを別の場所へ移した。凪が座れるように、背もたれを空けた。
小皿のボタンは、そのまま机に残した。
やがて、玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、凪が立っていた。仕事のときの鞄を持ち、髪の片側だけを耳へ掛けていた。
「おつかれ」
さっき電話でも言った言葉だった。
凪は俺を見て、小さく頷いた。
靴を脱ぐとき、壁に片手をついた。その指が開いて、しばらく同じ場所にあった。
俺は扉を閉め、彼女がもう片方の靴を脱ぎ終えるまで、そこで待った。
第四十二話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「食べ直す夜」です。




