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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
ほどけない問い
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5-4 帰る時間

凪が歌いに出かけた夜、湊は自分の部屋で過ごします。

『今日、仕事帰りに歌ってくる』


凪からのメッセージには、マイクを持った絵が添えられていた。


俺はスーパーの袋を床へ下ろし、返事を打った。


『一人で?』


『うん。覚えたい曲がある』


続けて曲名が届いた。先日、凪が送ってくれた曲だった。最初に聴いたとき、歌が始まると思ったところで、もう一度楽器だけの演奏へ戻った。


『入り、間違えそうなやつだ』


『もう家で何回も間違えた』


俺は笑った。


『本番だね』


『誰も聴いてないけどね』


袋から牛乳を取り出し、冷蔵庫へ入れた。野菜をしまっているあいだに、もう一つ届いた。


『終電で帰るつもり。駅まで近いお店にした』


仕事帰りの駅から少し歩いたところにある店だった。前にも一度行って、歌いたい曲が揃っていたと話していた。


『了解。楽しんできて』


凪から、ありがとう、と返事が来た。


その晩、会う約束はしていなかった。


俺は夕食を済ませ、皿を洗った。台所の窓には網戸越しに風が入り、濡れた手首が少し冷えた。


机へ戻り、読みかけの本を開いた。


月のしおりを脇へ置く。灰色の紐が机の端から垂れたので、指で本のそばへ寄せた。


凪が歌う曲を小さくかけた。


しばらく読んでいると、歌の始まるところが来た。今度は間違えなかっただろうかと思い、そのまま次のページをめくった。


九時半ごろ、写真が届いた。


暗いテーブルの上に、氷の入ったグラスとマイクがあった。向こうのソファには鞄が一つ置かれている。


『やっと入れた』


『店に?』


『歌に』


俺は声を出して笑った。


『おめでとう』


『二回目もできるか試す』


画面を閉じて、本へ戻った。


一章読み終えるまで、スマホは鳴らなかった。凪が同じ曲を何度も入れ直すところを思い浮かべた。前奏のあいだはグラスに手を伸ばし、今度こそと思うところで、マイクを口元へ持っていく。


俺はしおりを挟み、風呂へ入った。


髪を乾かして部屋へ戻ると、十一時を少し過ぎていた。


凪からメッセージが来ていた。


『相談していい?』


タオルを首に掛けたまま、椅子へ座った。


『うん』


『もう少し歌いたい。〇時半まで延長して、タクシーで帰ろうかと思ってる。まだ延長はしてない』


俺は一度、時計を見た。


あと一時間と少しだった。明日は二人とも休みで、朝から会う予定もなかった。


『帰りのタクシーは大丈夫そう?』


『駅の乗り場が近いよ。いなかったら呼べる』


前に話したとおり、凪は決める前に聞いてくれていた。


俺はもう一度、その文を読んだ。


『俺は大丈夫。凪がそうしたいなら、〇時半まで歌ってタクシーで帰るのでいいよ』


送る前に、少し考えた。


嫌なのに了解と言わない。


あの日、自分でそう言った。今、帰ってきてほしいのかと考えてみたが、歌いたい曲を残したまま店を出てもらう理由は浮かばなかった。


送信した。


『ありがとう。じゃあ延長してくる。帰ったら連絡するね』


『うん。気をつけて』


そこで画面を閉じた。


タオルを洗面所へ掛け、本をもう少し読んだ。さっきの章の続きだった。書かれていることは分かったし、気になる一文には印もつけた。


あくびが出たので、そろそろ寝ようと思った。


歯を磨き、窓を閉めた。鍵を掛けると、外の車の音が薄くなった。


部屋の灯りを消した。


スマホを枕元へ置く前に、時刻を見た。


十一時四十七分だった。


終電は、もう出たころだった。


画面を消し、横になった。


目を閉じると、凪が駅の階段を下りるところが浮かんだ。そこまで思い浮かべてから、今日はまだ店にいるのだと思い直した。


寝返りを打った。


枕の端が頬の下で折れた。手を入れて直し、仰向けに戻った。


部屋の隅で、扇風機が回っていた。風が足元を通り、しばらくすると顔のそばへ戻ってきた。


スマホへ手を伸ばした。


十一時五十三分。


六分しか経っていなかった。


新しいメッセージはなかった。凪が店を出るまで、まだ三十分以上ある。連絡がないのは、今は歌っているからだった。


画面を伏せた。


今度は、指がスマホの縁に触れたままになった。


店の写真を思い出した。マイクの黒い網目、グラスの氷、鞄の置かれたソファ。あの狭い写真の外にも扉があり、廊下があり、夜の道が続いていた。


凪は、その道をこれから帰る。


布団から片足を出した。


暑かったわけではなかった。出していると冷えてきたので、また戻した。


昼のうちに洗っておいたシーツが、膝に擦れて音を立てた。


先に寝ていてもよかった。


凪は起きて待っていてほしいとは言っていない。帰ったら連絡すると言っただけだった。朝になってから読んでも、文はそこに残っている。


俺はスマホを持ち上げた。


『まだ歌ってる?』


入力してから、時計を見た。


〇時八分だった。


まだ歌っているはずだった。


文を消した。


その下に、さっき自分が送った返事が見えた。


俺は大丈夫。


嘘をついたつもりはなかった。送ったときには、本当に、そのくらいならと思っていた。


今は、帰ってきてほしかった。


俺の部屋へ来てほしいのではない。通話をしたいのかと考えても、そういうことでもなかった。凪が自分の部屋の灯りをつけ、靴を脱いでいるところを思い浮かべたかった。


そこまで帰ってきてくれたら、眠れそうな気がした。


画面の上へ指を滑らせた。


まだ延長はしてない。


その文の下に、俺の返事があった。さらに下に、ありがとう、と続いていた。


俺は起き上がった。


台所で水を飲んだ。暗いまま取ったグラスは、縁のところだけ冷たかった。飲み終えて流しへ置くと、思っていたより大きな音がした。


ベッドへ戻る途中で、窓の前に立った。


カーテンを少し開けても、見えるのは向かいの建物だった。窓の幾つかには、まだ灯りがついていた。誰かが同じように起きている。それだけのことだった。


俺は布を戻した。


〇時半になった。


スマホを手にしたまま、座っていた。


三分過ぎたところで、画面が明るくなった。


『出たよ。今からタクシー乗る』


息が少し深く入った。


『うん。気をつけて』


返してから、今日二度目の同じ文だと気づいた。


凪から短い返事が来て、それきりになった。


俺はまた横になった。


今度は車の中にいる。鞄を膝に載せ、窓の外を見ているかもしれない。覚えた曲をまだ頭の中で歌っているかもしれない。


帰り道を思い浮かべられるようになると、肩から少し力が抜けた。


それでも、目は閉じたままにならなかった。


一時になる少し前、帰宅の連絡が届いた。


『着いたよ。ただいま』


俺はすぐに開いた。


『おかえり』


続けて、入力中の表示が出た。


『起きてたんだ』


『うん』


『先に寝ててよかったのに。遅くまでありがとう』


俺はその文を読んだ。


ありがとうと言われることをしたのだろうかと思った。待つと伝えてはいなかった。寝ようとして、眠れなかった。


『大丈夫』


そう打って、止まった。


今度は違うと思った。


文字を消し、打ち直した。


『途中から少し落ち着かなくなって、起きてた。帰ってきたって聞いて安心した』


送ると、しばらく返事がなかった。


自分の文を読み直した。帰ってきて安心したというところまで、凪は読んでくれただろうか。それより前の、落ち着かなかったというところで止まっているだろうか。


スマホが震えた。


『今日は先に聞いたよね』


俺は目を閉じた。


『うん。聞いてくれた。俺も、いいって返した』


もう一文足した。


『返したときは平気だったんだ。あとから気になってきた。でも、凪が勝手に変えたわけじゃないのは分かってる』


枕の縫い目を、人差し指で押した。


返事を待っているあいだ、凪がまだ玄関に立っている気がした。鞄も下ろさず、片方の靴だけ脱いで、画面を見ている。


本当はどこにいるのか、分からなかった。


『そっか』


そのあとに、もう一つ届いた。


『今、眠くなってきたから、話すなら明日でもいい?』


俺は時計を見た。


一時を回っていた。


『うん。明日にしよう。帰ったばかりなのにごめん』


凪から、おやすみ、と届いた。


俺も同じ言葉を返した。


画面を閉じようとして、少し上にある写真が目に入った。マイクと、氷の入ったグラス。


やっと入れた。


歌に。


そのやり取りのところで、指が止まった。


二回目はどうだったのだろう。


聞こうと思っていた。ほかに何を歌ったのかも、あの長い前奏をどうやって覚えたのかも。


入力欄には触れず、スマホを枕元へ置いた。


手のひらが温かくなっていた。ずっと持っていたせいだった。


シーツのまだ触れていないところへ手を移すと、指の腹から少しずつ熱が逃げた。


凪は帰っていた。


俺は、冷たい布の上で指を開いたまま、扇風機の風が戻ってくるのを待った。

第四十一話をお読みいただき、ありがとうございます。


次話は「消えた文章」です。

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