5-3 お祝い
通算第四十話です。
凪から、仕事の帰りに知らせが届きます。
『あの表、来週からみんなで使うことになった』
駅の階段を下りたところで、凪からのメッセージを読んだ。
改札から出てきた人が、俺の両側を通っていった。鞄を持ち直し、柱のそばへ寄った。
『引き継ぎの?』
『そう。今日、見てもらった』
続けて、両手を上げた小さな絵が届いた。
俺は笑って、画面を親指で少し戻した。
『よかったね。あれ、ずっと直してたもんね』
凪がその話をしたのは、二週間ほど前だった。
次の人へ仕事を渡すとき、どこまで済んでいるのかが分かりにくい。メモを残しても、別のところに続きを書く人がいて、何枚か見比べなければならない。
電話の向こうで、凪は紙の上に線を引いていた。
「欄を増やしたら、今度は書くのが大変になるんだよね」
ペンの蓋を閉める音がしたあとも、しばらくその話をしていた。
『覚えてたんだ』
『欄が増えすぎたやつでしょ』
『ちゃんと減らしたよ』
俺は駅前の時計を見た。
六月の日はまだ高く、建物のガラスに、西側だけ明るい空が映っていた。
『今どこ? よかったら一緒に帰ろう』
凪は、もうすぐ駅に着くところだった。
待っているあいだ、鞄を足元へ置いた。背中に貼りついていたシャツが、風の通るところから少しずつ離れた。
改札から出てきた凪は、俺を見つけると歩くのを速めた。
「おつかれ」
「おつかれ。待った?」
「少しだけ」
凪は肩に掛けた鞄の持ち手を引き上げた。口元が、挨拶を終えたあとも緩んでいた。
「表、よかったね」
そう言うと、今度は隠さずに笑った。
「うん。直すところは、まだあるんだけど」
「使いながら?」
「そう。まず一週間やってみようって」
二人で歩き始めた。
凪は俺の隣へ並んでから、鞄の持ち手をもう一度掛け直した。
「最初、全部一枚で分かるようにしようと思ってたの。でも、それだと終わったこともずっと残るでしょ」
「見たいところを探さなきゃいけない」
「そう。それで、次の人にしてほしいことを先に書くようにした」
横断歩道の手前で止まると、凪は空いている手を胸の前へ出した。指で、見えない紙を上から下へ区切った。
「これが残ってます、ここを確認してください、って。詳しい経緯は、その下」
「読む順番を変えたんだ」
「うん。書く量を減らすことばっかり考えてたけど、読むほうが先だった」
信号が青になった。
凪は手を下ろし、歩き出してから続きを話した。
「先輩がね、一回これ見て引き継ぎ受けてみるって言ってくれて。私、隣で説明しそうになったんだけど」
「説明したら、表だけで分かるか試せないね」
「そう。黙ってて、って言われた」
凪が笑った。
「それで、最初にどこ見たと思う?」
「次にすること?」
「日付。いつの話か分からなかったからって」
俺も笑った。
「そこからか」
「作った私は、今日のつもりで見てるから」
凪は笑い終えても、少し首を傾けたままだった。あのとき、と続け、先輩が紙を裏返して日付を探した様子を話した。
俺はその手つきを、彼女の指先で見た。
知らない机があり、凪の横に椅子を寄せた人がいる。凪は今とは別の服を着て、口を挟みたいのをこらえながら、その人が紙を読むところを見ていたのだろう。
「そこ、試してもらえてよかったね」
「うん。一人だと、ずっと気づかなかったと思う」
彼女がこちらを向いた。俺も頷いた。
歩道の先に、スーパーの看板が見えた。
「今日、何か甘いもの買って帰らない?」
俺が言うと、凪は目を少し丸くした。
「お祝い?」
「うん」
「そんな大きなことじゃないよ」
「嬉しいことではあるでしょ」
凪はすぐには返事をせず、前を見た。
数歩行ってから、うん、と言った。
「けっこう、嬉しい」
店の入口で、冷たい空気が足元へ流れてきた。
晩ごはんも俺の部屋で食べることにして、惣菜とサラダを籠へ入れた。ごはんは、冷凍してあるものが二人分あった。
果物の売り場で、凪が足を止めた。
透明な蓋の下に、切り分けられたメロンが並んでいた。淡い緑の果肉に、照明が白く映っている。
「これ、おいしそう」
凪はそう言ってから、値札を見た。
隣の小さなカップへ、一度目を移した。
「こっちでもいいかな」
「最初に見てたほうにしようよ。二人で食べるし」
「いいの?」
「お祝いだから」
凪はもう一度、蓋の中を見た。
「じゃあ、これ」
持ち上げたパックを、俺の持つ籠へそっと入れた。惣菜の上には載せず、空いたところへ向きを変えて収めた。
レジへ向かう途中で、凪が言った。
「湊の仕事は、今日どうだった?」
「今日は、探してたものがすぐ隣にあった」
「何が?」
「必要なケーブル。別の箱だと思って、ずっと倉庫見てた」
凪が笑った。
「それは、見つかっておめでとう」
「じゃあ、俺のぶんのメロンも理由がついた」
「なくても食べていいよ」
袋へ詰めるとき、メロンは最後に載せた。
店を出ると、さっきより日の色が薄くなっていた。凪が袋を一つ持ち、俺はもう一つを持った。
部屋へ着くと、まずメロンを冷蔵庫へ入れた。
凪が手を洗っているあいだに、ごはんを温めた。電子レンジの回る音の向こうで、水が止まった。
「お皿、これでいい?」
凪が棚から出した皿を見せた。
「うん。ありがとう」
惣菜を移し、サラダを二つに分けた。凪は袋に残った葉を一枚ずつ箸で取り、片方へ多く入ったのを、もう片方へ戻した。
向かいに座ると、二人で手を合わせた。
「いただきます」
最初の何口かは、どちらも黙って食べた。
凪はごはんを飲み込んでから、長く息を吐いた。
「お腹空いてた」
「話してるとき、忘れてた?」
「たぶん。駅からずっと喋ってたね」
「聞きたかったから」
凪は箸の先を皿へ向けたまま、少し笑った。
食事の途中で、表を作るきっかけになった日の話も聞いた。
凪が確認しに行ったとき、同じことを別の人も聞きに来ていたのだという。前の担当の人は、そのたびに手を止めて答えていた。
「私がまだ慣れてないから、分からないだけだと思ってた」
「ほかの人も困ってたんだ」
「うん。でも、私の分からないところと、その人の分からないところ、ちょっと違ってた」
凪は箸を置き、コップを取った。
「だから、何人かに聞いた。どこで止まるのか」
俺はごはんを噛みながら頷いた。
夜に電話で聞いていたときには、凪が一人で表を直しているところだけを思い浮かべていた。欄を消すまでに、何人もの人へ声をかけていた。
「それ、けっこう手間かかったでしょ」
「かかった。聞いたら全部入れたくなっちゃうし」
「それで、あの欄の数になったのか」
「そう。湊、まだ実物見てないのに、すごい表だと思ってるでしょ」
「紙が足りなくなってそう」
「一回、文字小さくした」
「それはもう、足りてないね」
凪は口元へ手を当てて笑った。
俺も笑った。彼女が手を下ろすまで、箸を持ったまま待っていた。
「今日、説明するときは緊張した?」
「した。朝から、何言うか考えてた」
「うん」
「でも、使ってみようって言われたら、用意してた最後のほう、全部忘れた」
凪はコップの縁を指でなぞった。
「帰る前に、試してくれた先輩にお礼言ったの。そしたら、来週ちょっと楽になるねって」
言い終えて、彼女はまた笑った。
今度は声が出なかった。下を向いた頬だけが、ゆっくり上がった。
俺は何か言いかけ、そのまま口を閉じた。
コップを置くまでの短いあいだにも、凪はその言葉を思い返しているようだった。聞いていた俺まで、椅子の上で少し背筋が伸びた。
「よかったね」
駅でも言った言葉だった。
凪が顔を上げた。
「うん」
俺は皿へ目を戻した。最後の一切れを食べながら、月曜日に凪があの表を使うところを思った。
食べ終わると、二人で箸を揃え、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
皿を流しへ運び、交代で洗った。凪が拭いた皿を棚へ戻すたび、俺は次の皿の水を切った。
片づけが済んでから、メロンを出した。
凪が小皿とフォークを二つずつ並べる。俺が蓋を外すと、冷蔵庫の冷たさに混じって、甘い匂いがした。
「ちゃんと冷えてる」
凪はパックの脇へ指を当てた。
同じくらいになるように分けたあと、一切れだけ残った。俺が凪の皿へ載せると、彼女は自分の皿から一切れ取り、俺のほうへ移した。
「戻ってきた」
「そっちのほうが大きいから。これで半分」
言われて見比べた。たしかに、少し大きかった。
テーブルへ座り直した。
「改めて、おめでとう」
凪は背を少し伸ばした。
「ありがとう」
それから二人で手を合わせ、いただきます、と言った。
フォークを入れると、果肉はほとんど抵抗せずに割れた。口へ運ぶあいだに、先から汁が落ちそうになった。
噛むと、冷たい甘さが広がった。
凪は目を少し閉じ、飲み込んでから、鼻で息を吐いた。
「これにしてよかった」
「うん」
「ちゃんと、お祝いの味する」
俺はもう一切れ取った。
自分だけだったら、売り場で値札を見て、そのまま通り過ぎていたと思った。冷蔵庫の一段を空けることも、小皿をもう一度出すこともなかった。
凪の皿に、フォークで押された跡がついた果肉が残っていた。彼女はそれを小さく切り、少しずつ食べていた。
見ていると、顔を上げた。
「何?」
「嬉しそうだなと思って」
「嬉しいよ」
凪はそう言い、フォークを皿に置いた。
「今日、最初に湊に言いたかった」
俺は口の中のものを飲み込んだ。
「仕事終わって、スマホ出して、何て送ろうって考えた。あの表、で分かるかなって」
「分かったよ」
「うん。すぐ分かったね」
凪の手は、もうフォークへ戻っていた。
俺はその手元を見ながら、駅の柱のそばへ寄ったときのことを思った。あの知らせを読むまでは、帰ったら何を食べようかと考えていた。
向かいで、凪が最後の一切れを口へ入れた。
俺の皿にも、まだ一つ残っていた。フォークを刺し、彼女がゆっくり噛んでいるのを見てから、自分も口へ運んだ。
食べ終え、二人で手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
凪は空になった皿を見て、もう一度、小さく同じことを言った。
九時を少し過ぎたころ、凪は帰る支度をした。
玄関で靴を履き、立ち上がってから、鞄の中を確かめた。
「鍵、あった?」
「うん。今日、ポケット変えちゃった」
取り出した鍵を見せ、また鞄へ戻した。
俺が手を伸ばすと、凪はその手を取って、一歩近づいた。肩へ額が軽く当たった。背中に腕を回すと、服の下でゆっくり息を吐くのが分かった。
「メロン、ありがとう」
耳のそばで言った。
「うん」
少しして身体が離れた。凪は鞄の持ち手を肩へ戻し、扉を開けた。
「またね」
「気をつけて」
見送って部屋へ戻ると、テーブルに小皿が二枚残っていた。
俺は椅子に座り、スマホを手に取った。凪が最初に送ってきた知らせの下に、両手を上げた絵があった。
あの絵を選んでいるときにも、凪は笑っていたのだろうか。
しばらくすると、新しいメッセージが届いた。
『着いたよ。今日は一緒に喜んでくれてありがとう』
続いて、もう一つ。
『来週使ってみたら、また話すね』
俺は笑って、返事を打った。
『うん。聞かせて。お祝いできてよかった』
送ってから立ち上がり、小皿を重ねた。
下の皿を持ち上げると、底に残っていた果汁が少し傾いた。流しまで運ぶあいだ、甘い匂いがまだ近くにあった。
月曜日には、凪の表に誰かが何かを書き込む。
その話を、俺はまだ知らなかった。聞けるのが楽しみだった。
第四十話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「帰る時間」です。




