5-2 話し終わるまで
雨の上がった午後、二人で昨日のことを話します。
凪は、傘を袋に戻して持ってきた。
「乾かしておいた」
「ありがとう」
受け取ると、布の折り目がいつもより細かく揃っていた。持ち手の紐が袋の口から出ていて、凪は渡したあと、それを指で中へ押した。
昨日、この傘を鞄へ入れるところを見た。
まだ一日しか経っていなかった。
凪が靴を脱ぐあいだに、傘を元の場所へ戻した。玄関の床に落ちていた小さな砂を、足の先で端へ寄せた。
午後二時を少し回っていた。
窓を開けていたが、部屋には湿気が残っていた。凪は椅子に座ると、首元を指で少し触れた。歩いてきた額に、細かな汗があった。
冷たい麦茶を出した。
凪は一口飲み、グラスを置いた。
「洗濯、終わった?」
「うん。外に干せた。ちょっと迷ったけど」
俺も窓のほうを見た。向かいの屋根の上に、薄い雲があった。
「もう降らないといいね」
「うん」
そこで、二人とも黙った。
俺はスマホをテーブルへ置いた。
凪が来るまでに、話したいことを短く書いておいた。帰る時間のこと。変更の連絡のこと。俺の返事のこと。
順番があれば、昨夜のように途中で別のことを言わずに済むと思った。
「昨日のこと、俺の返し方もよくなかった」
凪は顔を上げた。
「了解って返したあとに、悲しかったって送ったから。凪からしたら、話が変わってるよね」
「うん。さっきまで大丈夫だったのに、って思った」
「そのときに言えばよかった。ごめん」
凪は頷いた。
俺は画面へ目を落とした。書いてきた順番とは、もう違っていた。
「ただ、タクシーで帰れるって言うのは分かったけど、時間が変わって平気だったかと言われたら違って」
「うん」
「終電前に帰るって言ってくれたから、そのくらいには家にいると思ってた。そこが、急になくなった感じがして」
凪はグラスから手を離した。
「私、帰れれば大丈夫だと思ってた。帰り方も連絡したし」
「うん。連絡はくれた」
「でも、先に言ってくれた時間で安心してたんだよね」
俺は頷いた。
「そこを、考えてなかった。ごめん」
凪の目が、俺の顔にあった。
返事をしようとすると、昨夜ベッドの上で見た文が浮かんだ。私ももう少しいる。帰りはタクシーにするね。
「帰る時間の話は覚えてはいた?」
凪は少し眉を寄せた。
「覚えてたよ。だから、電車じゃなくなるって送ったの」
「じゃあ、覚えてた上で変えたってことだよね」
「うん。そうなるけど」
グラスの外側を、水滴が一つ下りた。
凪はそれを親指で拭った。
「最初に言ったこと、軽く考えてたわけじゃないよ」
「軽くなかったなら、どうして変えられたの?」
口にしてから、答えを狭くしたことに気づいた。
けれど俺には、そこが分からなかった。言ったことを大事にする気持ちと、その場で別の帰り方を選ぶことのどこが両立しているのか。
「まだ話したかったから。職場だと、あんまりゆっくり話せない人もいたし」
凪は膝の上で手を重ねた。
「それで、湊に連絡して、いいと思った。その時は、そうだった」
「俺に言う前には、もう残るって決めてたんでしょ」
「……うん」
「俺は、決める前に話してほしかった」
凪が頷いた。
「次はそうする」
その返事を聞いて、少し息が楽になった。
でも、次は、の中身を確かめておかなければと思った。また同じ言葉で違うことを考えていたら、今日の話が役に立たない。
「俺が何を嫌だったか、伝わってる?」
「時間を変える前に、相談しなかったこと」
「それだけじゃなくて、先に帰るって言ってくれてたから」
「うん。それで安心してたのに、変えちゃったこと」
凪は一つずつ答えた。
俺は頷き、スマホを見た。
帰る時間のこと。
そこは話した。変更の連絡についても、凪は次から相談すると言ってくれた。
画面から顔を上げた。
「じゃあ、次も楽しくて帰りたくなくなったら、どうする?」
凪の指が、膝の上で止まった。
「だから、そのときに聞くよ」
返事はさっきより短かった。
俺は椅子へ座り直した。
「怒って聞いてるわけじゃないよ。また食い違わないようにしたいだけで」
「分かってる。でも、同じこと、何回も答えてる気がする」
俺はスマホから手を離した。
扇風機が首を振っていた。凪のほうを向くと、耳のそばの髪が動いた。風がこちらへ戻ってきても、彼女は髪を直さなかった。
「少し休んでいい?」
凪が言った。
「あと一つだけ、確認したい」
そこまで言って、止まった。
凪は目を伏せていた。
俺が終わりだと思うところまで、彼女は何度答えればいいのだろう。
時計を見た。来てから一時間以上経っていた。途中、似たことを別の言い方で話し直していた。そのたびに俺は、今度こそ伝わると思っていた。
「……ごめん。休もう」
凪は頷いて、立ち上がった。
「洗面所、借りるね」
「うん」
椅子が空いた。
テーブルには二つのグラスがあった。凪のほうには、まだ半分ほど麦茶が残っていた。俺のほうはいつの間にか空になっていた。
台所から容器を持ってきて、自分のぶんを注いだ。
凪のグラスへも足そうとして、やめた。戻ってきたら聞けばよかった。
スマホの画面を消した。
言っておきたいことを、忘れないようにしていた。けれど、凪がもう言ったことは、どこにも書いていなかった。
次はそうする。
そのときに聞くよ。
俺は彼女の返事を聞くたびに、その先でまだ困ることがないか探していた。
洗面所で水が止まった。
凪が戻り、さっきと同じ椅子へ座った。
「麦茶、足す?」
「まだあるから、大丈夫」
俺は容器を台所へ戻した。
しばらく、何も話さずにいた。凪はグラスを持ち上げ、残っていた麦茶を少しずつ飲んだ。
「何回も聞いて、ごめん」
言うと、彼女はグラスを下ろした。
「分かったって言っても、まだ足りないのかなと思う」
「うん」
「謝って終わりにしたいんじゃないよ。でも、言い直してもまた聞かれると、何て言えばいいか分からなくなる」
俺は膝の上で指を組み、ほどいた。
「分かってもらえたら、安心できると思ってた」
凪は俺を見ていた。
その顔を見ながら、自分が安心するところまで話すことを、二人で話し終わることだと思っていたのかもしれない、と考えた。
窓の外で、子どもの声がした。続いて自転車のベルが鳴り、遠くなった。
「今日は、もうやめる?」
俺が聞くと、凪は少し考えた。
「これからどうするかだけ、決めたい。そこが決まらないまま帰るのも、気になる」
「うん」
凪は椅子に深く座り直した。
「先に帰る時間を話してて、それを変えたくなったら、決める前に連絡する。変更していいか、二人で話す。それでいい?」
「うん。俺もそうする」
俺は、消えたままのスマホへ目を落とした。
「返すときも、本当は嫌なのに了解って言わない。気になるなら、そのときに話す」
「そうしてほしい」
凪は、そこで初めて小さく息を吐いた。
「あと、もし返事がないときは、勝手に大丈夫だと思わないで、先に話した予定で帰るね」
「俺も」
頷くと、凪も頷いた。
「じゃあ、二人で変更しようって決めたときは、変更した予定でいいんだよね」
「うん。それでいい」
凪は俺の顔を見てから、手元へ目を戻した。
俺は、もう一度、最初から確かめたくなった。
言葉が喉まで来たところで、麦茶を飲んだ。さっきまで冷たかったものが、口の中ではもうそれほど冷たくなかった。
「今日は、ここまでにしよう」
俺が言った。
凪は少し間を置き、うん、と答えた。
すぐにいつもの話へ戻れるわけではなかった。
凪は髪を耳へかけ、窓のほうを見た。
「洗濯物、乾いたかな」
その声を聞いて、来たばかりのころにも洗濯の話をしたことを思い出した。
「日、出てきたね」
「うん」
向かいの壁に、手すりの影ができていた。朝から残っていた湿った色は、もうほとんど分からなくなっていた。
凪は少しして、帰ると言った。
俺は玄関までついていった。
靴を履く彼女の背中を見ながら、引き止めたいと思った。話を続けたいのではなかった。何か別のことをして、一度笑ってから送り出したかった。
けれど凪は、立ち上がって鞄を肩へ掛けた。
「来てくれてありがとう」
言うと、彼女は頷いた。
「うん。話せてよかった」
俺が手を差し出すと、凪はその上に指を載せた。
長く握らなかった。指先に少し力が返り、離れた。彼女が鞄の持ち手を直せるように、俺も手を下ろした。
「じゃあね」
「うん。また」
扉を閉めてから、テーブルへ戻った。
グラスを持ち上げると、底の形に水が残っていた。二つとも流しへ運び、布巾を持って戻った。
拭いたところが乾くまで、俺は立ったままでいた。
翌朝、凪からメッセージが届いた。
『昨日、ちゃんと話してくれてありがとう』
俺は朝の支度をしていた手を止めた。日曜で、急いで出る用事はなかった。
『こちらこそ、来て話してくれてありがとう。長くなってごめん』
送ると、しばらくして返事が来た。
『洗濯物、ちゃんと乾いてたよ』
俺は画面を見たまま、少し笑った。
『よかった。俺も今日洗う』
スマホを置き、洗面所へ行った。
籠からタオルを取ると、その下から昨日着ていたシャツが出てきた。袖が裏返っていたので、指を入れて戻した。
洗濯機へ入れ、水の流れ始める音を聞いた。
今日の凪には、昨日と違う話を聞きたいと思った。
第三十九話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「お祝い」です。




