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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
ほどけない問い
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39/48

5-2 話し終わるまで

雨の上がった午後、二人で昨日のことを話します。

凪は、傘を袋に戻して持ってきた。


「乾かしておいた」


「ありがとう」


受け取ると、布の折り目がいつもより細かく揃っていた。持ち手の紐が袋の口から出ていて、凪は渡したあと、それを指で中へ押した。


昨日、この傘を鞄へ入れるところを見た。


まだ一日しか経っていなかった。


凪が靴を脱ぐあいだに、傘を元の場所へ戻した。玄関の床に落ちていた小さな砂を、足の先で端へ寄せた。


午後二時を少し回っていた。


窓を開けていたが、部屋には湿気が残っていた。凪は椅子に座ると、首元を指で少し触れた。歩いてきた額に、細かな汗があった。


冷たい麦茶を出した。


凪は一口飲み、グラスを置いた。


「洗濯、終わった?」


「うん。外に干せた。ちょっと迷ったけど」


俺も窓のほうを見た。向かいの屋根の上に、薄い雲があった。


「もう降らないといいね」


「うん」


そこで、二人とも黙った。


俺はスマホをテーブルへ置いた。


凪が来るまでに、話したいことを短く書いておいた。帰る時間のこと。変更の連絡のこと。俺の返事のこと。


順番があれば、昨夜のように途中で別のことを言わずに済むと思った。


「昨日のこと、俺の返し方もよくなかった」


凪は顔を上げた。


「了解って返したあとに、悲しかったって送ったから。凪からしたら、話が変わってるよね」


「うん。さっきまで大丈夫だったのに、って思った」


「そのときに言えばよかった。ごめん」


凪は頷いた。


俺は画面へ目を落とした。書いてきた順番とは、もう違っていた。


「ただ、タクシーで帰れるって言うのは分かったけど、時間が変わって平気だったかと言われたら違って」


「うん」


「終電前に帰るって言ってくれたから、そのくらいには家にいると思ってた。そこが、急になくなった感じがして」


凪はグラスから手を離した。


「私、帰れれば大丈夫だと思ってた。帰り方も連絡したし」


「うん。連絡はくれた」


「でも、先に言ってくれた時間で安心してたんだよね」


俺は頷いた。


「そこを、考えてなかった。ごめん」


凪の目が、俺の顔にあった。


返事をしようとすると、昨夜ベッドの上で見た文が浮かんだ。私ももう少しいる。帰りはタクシーにするね。


「帰る時間の話は覚えてはいた?」


凪は少し眉を寄せた。


「覚えてたよ。だから、電車じゃなくなるって送ったの」


「じゃあ、覚えてた上で変えたってことだよね」


「うん。そうなるけど」


グラスの外側を、水滴が一つ下りた。


凪はそれを親指で拭った。


「最初に言ったこと、軽く考えてたわけじゃないよ」


「軽くなかったなら、どうして変えられたの?」


口にしてから、答えを狭くしたことに気づいた。


けれど俺には、そこが分からなかった。言ったことを大事にする気持ちと、その場で別の帰り方を選ぶことのどこが両立しているのか。


「まだ話したかったから。職場だと、あんまりゆっくり話せない人もいたし」


凪は膝の上で手を重ねた。


「それで、湊に連絡して、いいと思った。その時は、そうだった」


「俺に言う前には、もう残るって決めてたんでしょ」


「……うん」


「俺は、決める前に話してほしかった」


凪が頷いた。


「次はそうする」


その返事を聞いて、少し息が楽になった。


でも、次は、の中身を確かめておかなければと思った。また同じ言葉で違うことを考えていたら、今日の話が役に立たない。


「俺が何を嫌だったか、伝わってる?」


「時間を変える前に、相談しなかったこと」


「それだけじゃなくて、先に帰るって言ってくれてたから」


「うん。それで安心してたのに、変えちゃったこと」


凪は一つずつ答えた。


俺は頷き、スマホを見た。


帰る時間のこと。


そこは話した。変更の連絡についても、凪は次から相談すると言ってくれた。


画面から顔を上げた。


「じゃあ、次も楽しくて帰りたくなくなったら、どうする?」


凪の指が、膝の上で止まった。


「だから、そのときに聞くよ」


返事はさっきより短かった。


俺は椅子へ座り直した。


「怒って聞いてるわけじゃないよ。また食い違わないようにしたいだけで」


「分かってる。でも、同じこと、何回も答えてる気がする」


俺はスマホから手を離した。


扇風機が首を振っていた。凪のほうを向くと、耳のそばの髪が動いた。風がこちらへ戻ってきても、彼女は髪を直さなかった。


「少し休んでいい?」


凪が言った。


「あと一つだけ、確認したい」


そこまで言って、止まった。


凪は目を伏せていた。


俺が終わりだと思うところまで、彼女は何度答えればいいのだろう。


時計を見た。来てから一時間以上経っていた。途中、似たことを別の言い方で話し直していた。そのたびに俺は、今度こそ伝わると思っていた。


「……ごめん。休もう」


凪は頷いて、立ち上がった。


「洗面所、借りるね」


「うん」


椅子が空いた。


テーブルには二つのグラスがあった。凪のほうには、まだ半分ほど麦茶が残っていた。俺のほうはいつの間にか空になっていた。


台所から容器を持ってきて、自分のぶんを注いだ。


凪のグラスへも足そうとして、やめた。戻ってきたら聞けばよかった。


スマホの画面を消した。


言っておきたいことを、忘れないようにしていた。けれど、凪がもう言ったことは、どこにも書いていなかった。


次はそうする。


そのときに聞くよ。


俺は彼女の返事を聞くたびに、その先でまだ困ることがないか探していた。


洗面所で水が止まった。


凪が戻り、さっきと同じ椅子へ座った。


「麦茶、足す?」


「まだあるから、大丈夫」


俺は容器を台所へ戻した。


しばらく、何も話さずにいた。凪はグラスを持ち上げ、残っていた麦茶を少しずつ飲んだ。


「何回も聞いて、ごめん」


言うと、彼女はグラスを下ろした。


「分かったって言っても、まだ足りないのかなと思う」


「うん」


「謝って終わりにしたいんじゃないよ。でも、言い直してもまた聞かれると、何て言えばいいか分からなくなる」


俺は膝の上で指を組み、ほどいた。


「分かってもらえたら、安心できると思ってた」


凪は俺を見ていた。


その顔を見ながら、自分が安心するところまで話すことを、二人で話し終わることだと思っていたのかもしれない、と考えた。


窓の外で、子どもの声がした。続いて自転車のベルが鳴り、遠くなった。


「今日は、もうやめる?」


俺が聞くと、凪は少し考えた。


「これからどうするかだけ、決めたい。そこが決まらないまま帰るのも、気になる」


「うん」


凪は椅子に深く座り直した。


「先に帰る時間を話してて、それを変えたくなったら、決める前に連絡する。変更していいか、二人で話す。それでいい?」


「うん。俺もそうする」


俺は、消えたままのスマホへ目を落とした。


「返すときも、本当は嫌なのに了解って言わない。気になるなら、そのときに話す」


「そうしてほしい」


凪は、そこで初めて小さく息を吐いた。


「あと、もし返事がないときは、勝手に大丈夫だと思わないで、先に話した予定で帰るね」


「俺も」


頷くと、凪も頷いた。


「じゃあ、二人で変更しようって決めたときは、変更した予定でいいんだよね」


「うん。それでいい」


凪は俺の顔を見てから、手元へ目を戻した。


俺は、もう一度、最初から確かめたくなった。


言葉が喉まで来たところで、麦茶を飲んだ。さっきまで冷たかったものが、口の中ではもうそれほど冷たくなかった。


「今日は、ここまでにしよう」


俺が言った。


凪は少し間を置き、うん、と答えた。


すぐにいつもの話へ戻れるわけではなかった。


凪は髪を耳へかけ、窓のほうを見た。


「洗濯物、乾いたかな」


その声を聞いて、来たばかりのころにも洗濯の話をしたことを思い出した。


「日、出てきたね」


「うん」


向かいの壁に、手すりの影ができていた。朝から残っていた湿った色は、もうほとんど分からなくなっていた。


凪は少しして、帰ると言った。


俺は玄関までついていった。


靴を履く彼女の背中を見ながら、引き止めたいと思った。話を続けたいのではなかった。何か別のことをして、一度笑ってから送り出したかった。


けれど凪は、立ち上がって鞄を肩へ掛けた。


「来てくれてありがとう」


言うと、彼女は頷いた。


「うん。話せてよかった」


俺が手を差し出すと、凪はその上に指を載せた。


長く握らなかった。指先に少し力が返り、離れた。彼女が鞄の持ち手を直せるように、俺も手を下ろした。


「じゃあね」


「うん。また」


扉を閉めてから、テーブルへ戻った。


グラスを持ち上げると、底の形に水が残っていた。二つとも流しへ運び、布巾を持って戻った。


拭いたところが乾くまで、俺は立ったままでいた。


翌朝、凪からメッセージが届いた。


『昨日、ちゃんと話してくれてありがとう』


俺は朝の支度をしていた手を止めた。日曜で、急いで出る用事はなかった。


『こちらこそ、来て話してくれてありがとう。長くなってごめん』


送ると、しばらくして返事が来た。


『洗濯物、ちゃんと乾いてたよ』


俺は画面を見たまま、少し笑った。


『よかった。俺も今日洗う』


スマホを置き、洗面所へ行った。


籠からタオルを取ると、その下から昨日着ていたシャツが出てきた。袖が裏返っていたので、指を入れて戻した。


洗濯機へ入れ、水の流れ始める音を聞いた。


今日の凪には、昨日と違う話を聞きたいと思った。

第三十九話をお読みいただき、ありがとうございます。


次話は「お祝い」です。

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