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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
ほどけない問い
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5-1 終電

六月、凪が職場の飲み会へ出かけます。

凪が靴を履いている間、俺は傘立てから折り畳み傘を取った。


「持っていく?」


「降りそう?」


玄関から見える窓は、白く曇っていた。雨はまだ落ちていなかったが、風が入ると、湿った土の匂いがした。


「帰り、少し降るかも」


凪は差し出した傘を受け取り、鞄の端へ入れた。持ってきてくれた本のぶんだけ、そこが空いていた。


六月の金曜日だった。


職場の人たちとの飲み会に出る前に、凪は俺の部屋へ寄った。借りていた本を返し、洗面所の鏡で髪を直した。今夜の店は、ここから電車で何駅か先にあった。


「何時から?」


「七時。駅で何人かと待ち合わせてる」


「そっか。楽しんできて」


凪は鞄のファスナーを閉めた。


「終電前には帰るね」


「うん。帰ったら教えて」


「分かった」


顔を上げた凪の耳元で、小さな金具が光った。髪をかけたばかりの指が、まだそこにあった。


俺が扉を開けると、凪は廊下へ出て、一度振り向いた。


「いってきます」


「いってらっしゃい」


足音が階段のほうへ離れていった。


扉を閉め、返してもらった本を机へ置いた。表紙の端が少し丸くなっていた。凪が読んでいたあいだに、俺も別の本を二冊読んでいた。


棚へ戻す前に、彼女が好きだと言っていたところを開いた。


脇役が、話の途中で台所へ立ち、お茶を淹れる場面だった。前に読んだときには、その先の返事ばかりを覚えていた。


読み終え、棚へ戻した。


その夜、俺は友人とゲームをした。


九時を少し過ぎたころ、凪から料理の写真が届いた。大きな皿の上に取り分ける前の料理があり、その奥にはグラスがいくつか並んでいた。


『これ、おいしい』


『いいね。何入ってるの?』


返事は、しばらくしてから来た。


『鶏肉。あと、ソースが分からない。でもおいしい』


俺は笑って、写真をもう一度見た。


『分かったら教えて』


送ってから、ゲームへ戻った。


友人が道を間違え、俺も気づかずについていった。行き止まりまで来て二人で笑った。話しているうちに十時を過ぎ、明日も早いという友人が先に抜けた。


ヘッドセットを外すと、雨の音がした。


窓の下の道を、車が水を引いて走っていた。カーテンを少し開ける。向かいの屋根の縁に、細かな滴が並んでいた。


風呂へ入り、髪を乾かした。


凪から、二軒目に来た、と連絡があった。


俺は時刻を見た。十時四十分だった。


店のある駅からこちらまでの終電を調べた。まだ一時間近くあった。最寄り駅に着いてから家へ歩く時間も含めれば、帰宅の連絡は日付が変わるころになるだろうと思った。


待っていてと言われたわけではなかった。


先に寝てしまってもよかったが、あと少しなら起きていようと思った。台所で水を飲み、本を持ってベッドへ座った。


十一時を少し過ぎて、スマホが震えた。


『まだみんな残るみたいだから、私ももう少しいる。帰りはタクシーにするね』


俺は本を膝へ下ろした。


もう少し、のあとへ目が戻った。


終電の時刻を調べた画面が、まだ別のところで開いていた。戻れば、今から駅へ向かう場合の電車が出る。


けれど凪は、乗り遅れたとは言っていなかった。


『了解。帰り、気をつけてね』


そう返した。


飲み会の途中で、帰ってきてほしいとは言いにくかった。タクシーなら家の近くまで帰れる。帰る手段がなくなるわけではない。


『ありがとう。帰ったら連絡する』


凪から返事が来た。


俺はスマホを枕の横へ置いた。


本を開いたが、続きを読む前に、さっきまで調べていた時刻を思い出した。


あと何分で店を出る。駅まで歩く。電車に乗る。


その順番を、俺はもう頭の中に並べていた。凪から何も届かない時間にも、そこまで来たころだろうと思えるように。


今は、帰ったら、という言葉だけがあった。


ベッドから立ち上がり、窓を閉めた。雨の音が低くなった。


部屋は少し蒸していた。扇風機をつけると、風が濡れた髪の根元を通った。もう乾いたと思っていたところが冷たくなり、手で押さえた。


楽しく過ごしているのだろうと思った。


料理のソースを聞き忘れるくらいに、話が続いているのかもしれない。新しい職場で、仕事以外の話ができる人が増えるのは、いいことだった。


そのことと、胸のあたりに残る重さが、うまくつながらなかった。


俺は、行かないでほしかったわけではない。


玄関で手を振ったときには、本当に楽しんできてほしかった。


机へ座り、メッセージを開いた。


了解。帰り、気をつけてね。


自分で送った文は、何も困っていない人の返事に見えた。


俺は指を置いた。


『終電前に帰るって言ってたよね』


打って、しばらく見た。


覚えているかどうかを、聞きたいのではなかった。


消して、もう一度打った。


『さっき了解って返したけど、終電前に帰るって聞いて安心してたから、変わったのは少し悲しかった』


送った。


画面の時刻は、十一時五十分だった。


さっき調べた最後の電車は、もう出ていた。


凪からの返事は、すぐには来なかった。


俺はスマホを持ったまま、椅子にもたれた。背中の布が、湿った皮膚に少し貼りついた。


十分ほどして、返事が来た。


『了解って言ってくれたから、大丈夫なんだと思った』


続いて、


『ごめん。今から帰るところ』


と届いた。


俺は、そういうことじゃなくて、と打ちかけた。


何が違うのか、すぐには書けなかった。


帰ってきてほしくて送ったのか。悲しかったと分かってほしくて送ったのか。今から帰ると聞いて少しほっとした自分もいた。


『移動中だから、話は明日にしよう。着いたら教えて』


送ると、うん、と返ってきた。


零時半を過ぎたころ、タクシーに乗った、と届いた。


俺は窓の外を見た。


雨は弱くなっていた。ときどき車が通り、そのたびに濡れた道が明るくなった。凪を乗せた車は、この道を通らない。それでも、タイヤの音が近づくと顔を上げた。


『着いたよ』


連絡が来たのは、一時に近いころだった。


『おかえり』


それは迷わず打てた。


『遅くなってごめんね』


『無事に帰れてよかった。今日は休んで』


『うん。おやすみ』


俺も、おやすみ、と返した。


スマホを充電につなぎ、灯りを消した。


帰ったと分かれば眠れると思っていた。


暗くなった部屋で、扇風機の首がゆっくり動いていた。顔へ風が来て、離れた。次に来るまでの間、枕に触れている頬が暑かった。


翌朝、凪から電話が来た。


「昨日、ごめんね」


声は少し掠れていた。


「うん。眠れた?」


「寝た。湊は?」


「少し、遅くなった」


窓を開けていた。雨は上がっていて、向かいの建物の壁が、乾いたところから白くなっていた。


俺はスマホを持ち替えた。


「終電前に帰るって言ってたから、そのつもりでいた」


「うん。私も、出るときはそう思ってた」


「途中で変わったんだよね」


「そう。みんなと話してて、もう少しいたくなった。だから、タクシーにするって送った」


凪の後ろで、何かを置く音がした。


「湊も了解って返してくれたから、それでいいと思ったんだよ」


「帰る手段があるのは分かった。でも、平気になったわけじゃなかった」


「それは、分からなかった」


俺は机の上を見た。


昨夜の本が、しおりを挟まれないまま閉じていた。何ページまで読んだのか、思い出せなかった。


「うん。俺の返事じゃ、分からないと思う」


そう言うと、凪が少し黙った。


「でも、あとから悲しかったって来ると、どうしたらよかったんだろうってなる」


「あのとき、言えばよかった」


「うん」


「ただ、凪が先に言ってくれた時間を、俺は信じてたんだよ」


口にしてから、信じてた、という言葉が思ったより重く聞こえた。


凪はすぐには答えなかった。


「最初から、帰る気がなかったわけじゃないよ」


「そう言いたいんじゃない」


返事が早くなった。


俺は一度、口を閉じた。


窓の外で、ベランダの手すりを拭く音がした。布が金属を擦る、短い音だった。


「……ちゃんと話したい。今、時間ある?」


「今から洗濯したい。午後なら」


「じゃあ、午後にしようか」


「うん。湊のところ、行ってもいい?」


「いいよ」


凪が息をついた。


「傘も持っていくね。昨日、結局ほとんど使わなかった」


「うん」


玄関で鞄へ入れた、折り畳み傘を思い出した。


帰りに濡れなければいいと思って渡したものだった。濡れずに帰れたのなら、それはよかった。


「じゃあ、あとで」


「あとで」


電話を切った。


俺は立ち上がり、窓をもう少し開けた。網戸の下のほうに残っていた雨粒が、レールへ落ちた。


椅子へ戻り、昨夜のやり取りを開いた。


了解、と返した自分の文と、その下にある、悲しかった、という文を、同じ画面に収めた。


どちらも、俺が送った言葉だった。

第三十八話をお読みいただき、ありがとうございます。


第五部「ほどけない問い」が始まりました。


次話は「話し終わるまで」です。

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