4-8 そのままの声
同じ部屋で、それぞれの声を聞いています。
「そっち、さっきも行かなかった?」
背中から言われて、画面の中の足を止めた。
崩れた石段の横に、火の消えた燭台があった。見覚えがあった。少し前に、この脇で道具を拾った。
「行ったね」
「その人、三回くらい同じ景色見てるよ」
「本人も困ってると思う」
凪が笑った。
振り向くと、ベッドの端へ腰を掛け、本を膝に置いていた。片方の足は床につけ、もう片方は曲げて座面へ上げている。
「読んでたんじゃないの」
「読んでる。顔上げるたび、そこにいるから」
俺も笑い、来た道を引き返した。
五月の終わりだった。
窓を少し開けていた。昼間の熱が残っていて、ときどき入ってくる風が、肘の内側を冷やした。カーテンの端が膨らみ、戻る。その向こうで、車の走る音がしていた。
凪は夕食を済ませてから来た。
『本持って、そっち行っていい?』
そう聞かれ、俺もゲームをしているけど、と返した。いいよ、と来たので、机に積んでいた本を少し寄せ、彼女のカップを置く場所を空けた。
来てすぐ、俺は仕事の話をした。
夕方になって、終えた作業を一部やり直すことになった。最初に聞いた内容が途中で変わっていたのに、その連絡が俺まで来ていなかった。
「変わるのは仕方ないけど、分かったときに言ってほしかった」
凪は鞄を下ろしながら、頷いた。
「もう終わったと思ってたんだもんね」
「そう。片づけるところだった」
そこまで話すと、同じ作業を二度した手のだるさも、少し遠くなった。
凪がお茶を飲み、本を開いたので、俺も途中にしていたゲームへ戻った。
石段を抜けると、広い場所へ出た。
奥から敵が来た。昨日もここで何度かやり直していた。床の模様を目印に、距離を取る。最初の攻撃を避け、次が来るまでの間に近づいた。
背後で、ページをめくる音がした。
画面の端に赤い色が広がった。
避けたつもりの攻撃が当たり、操作していた人物が倒れた。もう一度、と表示された文字を押す。
同じ場所から始めた。
今度は早めに離れた。壁際で画面の向きが変わり、敵の腕が見えなくなった。押したボタンに応じて身体が転がった先へ、次の攻撃が落ちた。
「ふざけんなよ。何なんだよ、これ」
声が出た。
画面はもう暗くなっていた。指だけが、まだボタンを押していた。
「湊」
凪に呼ばれた。
俺は顔を向けた。
本は開いたままだった。凪の親指がページの端に掛かり、紙が小さく反っていた。
「今の声、びっくりする」
「ああ、ごめん」
手元のコントローラーを見た。
「凪に言ったんじゃないよ」
「それは、分かってる」
凪は曲げていた足を下ろした。
「でも、急にその声になると、ちょっとつらい」
俺はスピーカーのつまみに手を伸ばしかけた。
凪の目が、その手を追った。
「ゲームの音じゃなくて」
「うん。分かってる」
手を戻し、コントローラーを膝に置いた。
画面の中では、やり直す前の場所へ戻っていた。火が揺れ、遠くで水の落ちる音がしていた。
「そんなに怒ってないよ。今の、見えなかったから、つい言っただけ」
凪は本の端を撫でた。
「怒ってるかどうか、声が出た瞬間には分からないよ」
「俺、ゲームしてると、たまに言うでしょ」
「うん。たまに、気になってた」
俺は黙った。
その言葉を聞くまで、今夜だけの話だと思っていた。
凪は本にしおりを挟んだ。閉じると、紙の束が薄く音を立てた。
「疲れたとか、嫌なことがあったとか、話してくれるのはいいの。でも、急に強く言われると、こっちも肩に力が入る」
さっき仕事の話をしたときの、凪の返事を思い出した。
もう終わったと思ってたんだもんね。
あのときも、本当は聞くのが嫌だったのだろうか。
「じゃあ、嫌だったことも、あんまり出さないほうがいい?」
凪の指が、本の表紙で止まった。
「そうは言ってないよ」
「でも、毎回ちゃんと言い方を考えないといけないなら」
口にするにつれ、声が平らになった。
「凪の前でも、ずっと気を張ってなきゃいけないってことになる」
彼女がこちらを見た。
俺も目を合わせた。凪の眉が寄るのを見て、言い足さなければと思った。
「誰かを傷つけようとして言ってるわけじゃないんだよ。凪といるときくらい、疲れたら疲れたって言いたいし」
「だから、それは言っていいって」
凪の声も、少し強くなった。
言い終えると、彼女は唇を結んだ。
俺は膝からコントローラーを持ち上げ、机へ置いた。左右の持ち手の片方が先に当たり、思ったより大きな音がした。
凪の目が、一度そちらへ動いた。
俺は手を置いたまま、傾いていたほうをゆっくり下ろした。
「……何も言わないでほしいわけじゃない」
凪が言った。
今度は、さっきより小さな声だった。
「今日の仕事の話は、聞いてて嫌じゃなかったよ」
俺は顔を上げた。
「あれとは、違う?」
「違う。あれは、何があったか話してくれたでしょ」
「うん」
「今のは、本を読んでたら、急に大きな声がしたの。私に言ってないって分かっても、びっくりしたのは、もう戻らない」
窓の外で、車のドアが閉まった。
凪は本を膝の上で持ち直した。
俺は、自分がさっき何と言ったのか思い出した。言葉は思い出せた。けれど、それをどのくらいの強さで言ったのかは、もうよく分からなかった。
画面に見えていた敵の腕や、避けたはずの方向は、まだはっきり覚えていた。
凪が聞いた声だけが、自分の中に残っていなかった。
「俺は、あの一言で、もう終わってたんだと思う」
凪は黙って聞いていた。
「言って、またやり直せばよくて。そっちが驚いてるとは思わなかった」
「うん」
机の上で手を開いた。握り込んでいた指の付け根に、コントローラーの感触が残っていた。
「ごめん。何も言えないって話にしたのは、俺だった」
凪は表紙から指を離した。
「普通に、悔しいとか言ってくれたら、私も聞けるよ」
「うん」
「湊がずっと機嫌よくしてないといけない、とは思ってない」
返事をしようとして、喉が少し詰まった。
俺は頷いた。
以前、凪と話していると、自分の考えを途中で畳まなくてもいいと思えた。先を話しても、彼女はついてきて、もっと遠くのものを持って帰ってきた。
今も、凪には話したかった。
ただ、目の前にいる彼女の口元は、少し疲れていた。俺が言い足すたび、その唇がまた説明するために開くのを、さっきから見ていた。
椅子を彼女のほうへ向け直した。
「次、声が出そうになったら、一回、手を止める」
凪は頷いた。
「私も、嫌だなと思ったときに言う。今日まで言ってなかったし」
「言って」
すぐに返してから、少し間を置いた。
「そのとき、さっきみたいに返さないようにする」
凪は、うん、と言った。
俺は画面へ向き直った。
水の落ちる音が、まだ続いていた。スピーカーのつまみを少し戻す。音が小さくなると、パソコンのファンが回る音が聞こえた。
さっきの自分の声も、このくらい簡単に小さくできればと思った。
「ゲーム、やめなくてもいいよ」
凪が言った。
「うん。でも、ちょっと休む」
停止の画面を出して、手を離した。
凪が本を開いた。
しおりを抜き、膝の脇へ置く。ページを押さえる指を見ていると、顔を上げられた。
俺は何か言おうとした。
まだ怖いか、もう大丈夫か。どちらも聞けば、凪は答えを探すだろう。
口を閉じると、彼女は少し待ってから、本へ目を戻した。
カーテンが膨らんだ。
窓から入った風で、凪の前髪が一本、頬へ落ちた。彼女は指で耳へ戻した。いつもなら、その手が下りてきたところへ触れたかもしれなかった。
今日は、椅子の肘掛けに手を置いた。
机とベッドの間は、一歩ぶんもなかった。
凪の足が床に触れ、俺の足も、同じ床にあった。
画面の奥では、止まった人物のそばで、火だけが揺れていた。
凪はまだ、次のページをめくらなかった。
俺も、再開のボタンを押さずにいた。
第三十七話をお読みいただき、ありがとうございます。
第四部「近づいた暮らし」は、ここまでです。
次話から第五部「ほどけない問い」に入ります。次話は「終電」です。




