4-7 今日は一人で
歩いて会いに行ける距離で、それぞれの夜を過ごします。
スーパーを出ても、空にはまだ明るさが残っていた。
袋を左手へ持ち替え、スマホを出した。
『今、買い物終わった。今日、一緒に食べる?』
建物の陰に立って送った。自動ドアが開くたび、冷えた空気が足首へ流れてきた。
五月の金曜日だった。
仕事はいつもより少し早く終わった。凪も帰ったころだろうと思いながら、俺は袋の中を見た。鶏肉と野菜、それから二個入りのプリンがあった。
二人で食べると決めて買ったわけではなかった。それでも、乳製品の棚の前で手に取ったときには、蓋を開ける凪の顔が浮かんでいた。
『ごめん。今日は一人で休みたい』
返事は、俺が歩き出す前に来た。
続いて、
『今週ちょっと疲れた』
と届いた。
袋の持ち手を握り直した。細いところが指の同じ場所へ戻り、さっきより深く食い込んだ。
『そっか。ごはんは食べた?』
『まだ。あるもので済ませる』
俺は、持っていこうか、と打った。
送る前に、凪からもう一つ届いた。
『洗い物もそのままだし、部屋も片づいてない』
『片づけなら手伝うよ。俺、今日早かったし』
今度はすぐに送った。
画面を見て待った。
店を出てきた人が横を通ったので、端へ寄った。袋の中でプリンの容器が傾き、鶏肉のパックに当たった。
『ありがとう。でも今日は、来てもらうのも休みたい』
俺はその文を、もう一度読んだ。
風が吹いて、シャツの背中が身体から離れた。昼間は暑かったのに、汗の乾いたところだけが冷たかった。
電話をかけようかと思った。
声を聞けば、どのくらい疲れているのか分かる気がした。具合が悪いのか、何かあったのか。俺と会うことまで疲れるのか。
通話の印へ指を動かして、止めた。
画面の中に、来てもらうのも休みたい、とあった。
『分かった。今日はゆっくりして。返信も大丈夫』
送信すると、少しして、ありがとう、と返ってきた。
俺はスマホをしまった。
スーパーの前からは、凪の部屋のほうが近かった。次の角を曲がれば、窓から見えると言っていた店の看板がある。
買い物袋を持っていない右手を、ポケットへ入れた。
鍵が二本、指に触れた。
出さずに、その上から掌をかぶせた。信号が変わったので、自分の部屋へ続く道を渡った。
帰って冷蔵庫を開けると、棚に空きがあった。
プリンを二つ、奥へ並べた。蓋の端に印字された日付を見てから、扉を閉めた。
米を研いだ。
水を替えるたび、指の間を米粒が逃げた。最後の水を捨て、内釜の線まで注いだところで、多く研いだことに気づいた。
冷凍すればいい。
炊飯器の蓋を閉めて、鶏肉のパックを開いた。
半分を保存袋へ移し、残りを切った。まな板の上が広かった。凪と作るときには、切った野菜を置く場所を互いに譲り、皿をもう一枚出すことが多かった。
今日は、切ったものを脇へ寄せるだけで足りた。
フライパンを火にかけてから、換気扇をつけた。
油を引き、肉を置いた。音が立った。菜箸で隙間を空け、焼けるまで手を離した。
話しかけないでいればよかったのだろうか、と考えた。
前には、凪が本を読み、俺がゲームをして、同じ部屋にいても別々に過ごせた。ページをめくる音が、ときどき聞こえた。茶を淹れるときだけ声をかけて、あとは黙っていられた。
ああいうふうなら、邪魔にならないと思っていた。
肉を裏返した。端の一つが焦げかけていた。
火を弱め、野菜を入れた。
俺がそばにいても休める夜を、知っていた。その夜を思い出しているうちに、凪が今日も同じように休めるはずだと思いかけていた。
菜箸についた野菜を、フライパンの縁で落とした。
会いたかった。
洗い物を片づけてやりたいと思ったのも本当だったが、終わったあと、凪の隣へ座るところまで考えていた。
皿に盛り、ごはんをよそった。
椅子へ座って、手を合わせた。
「いただきます」
声が、いつもよりよく聞こえた。
鶏肉は少し焼きすぎていた。噛むと端が硬かったが、皮には香ばしさがあった。ごはんと一緒に食べれば、悪くなかった。
向かいの椅子には、朝、脱いだ上着を掛けたままだった。
以前からそうしていた。けれど今日は、そこへ凪が座るならどかさなければと思ってから、箸を持ち直した。
スマホは机に置いてきていた。
食べている間、一度も鳴らなかった。
ごちそうさまでした、と手を合わせ、食器を流しへ運んだ。
湯を出すと、皿の油が薄く広がった。スポンジで擦り、裏返して洗った。全部終えても、水切り籠にはまだ余裕があった。
炊飯器に残ったごはんを包んだ。
平らにして、粗熱を取るために並べる。さっきまで自分の茶碗に入っていたのと同じ米が、明日以降の形になった。
風呂から上がると、凪からメッセージが届いていた。
『お風呂出た。今日はもう寝るね。おやすみ』
時刻は九時半を少し過ぎていた。
『おやすみ。ゆっくり寝てね』
それだけ返した。
何かあったのか、と聞きたかった。朝、窓の下で手を振ったときには、笑っていた。そのあとに俺の知らない一日があった。
文字を打つ欄に触れかけて、画面を閉じた。
髪を拭いていたタオルを干した。机へ戻り、読みかけの本を開いた。
初めの数行は、目だけで追った。
凪の部屋では、もう灯りを消しただろうか。洗い物は残したままなのだろうか。そこまで考えて、今読んだはずの行へ指を戻した。
読み直すと、登場人物が、前のページで置いてきた傘を取りに戻っていた。
そういえば、傘を忘れたところを読んだのだった。
俺は少し椅子を引き、背を預けた。
しばらくして、次のページをめくった。
土曜日は、それぞれに過ごした。
朝、凪から『よく寝た』と届いた。俺は洗濯機を回しているところだった。
『よかった』
返事を送り、洗剤の蓋を閉めた。
昼すぎに買い物へ出て、帰りに本屋へ寄った。読みたい本を二冊見つけ、一冊だけ買った。帰ってから、昨日の残りのごはんを温めた。
夜には少しメッセージを交わしたが、会う話にはならなかった。
日曜の午後、窓際で本を読んでいると、スマホが震えた。
『今日、行ってもいい?』
俺はページへ指を挟んだ。
『いいよ。家にいる』
『じゃあ、少ししたら行くね』
本を閉じてから、椅子に掛けていた上着を取った。
十五分ほどして、玄関の呼び鈴が鳴った。
扉を開けると、凪が立っていた。髪を緩く結び、薄い上着のポケットへ片手を入れていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
そう返すと、凪が少し笑った。
「変な感じ」
「ちゃんと挨拶しただけだよ」
「うん」
凪は靴を脱ぎ、揃えた。部屋へ入ってから、小さく肩を回した。
「寝られた?」
「いっぱい。昨日も、昼ちょっと寝た」
「そっか」
「洗い物、今日やった」
俺は頷いた。
それを聞いて、手伝いに行けば早く済んだとは、今日は思わなかった。けれど金曜の夜に会えなかった寂しさまで、なかったことにはならなかった。
凪が俺を見た。
「今日は、会いたくなった」
返事をする前に、息が緩んだ。
「俺も、会いたかったよ」
凪は鞄を下ろした。
近づくと、彼女も半歩、こちらへ来た。肩へ腕を回す。上着の布が掌の下で寄り、その内側から温かさが伝わった。
凪の額が、俺の肩に触れた。
俺は顎を少し上げた。髪に頬が当たり、結びきれていない短い毛がくすぐったかった。
背中に置いた手を動かさずにいた。
凪が息を吐くと、腕の中がわずかに狭くなった。そのあと、彼女の手が俺の脇腹に触れた。
金曜日にも、こうしたかった。
そう思いながら、今日こちらへ歩いてきた凪を抱いていた。
やがて凪が顔を上げたので、腕を緩めた。
「何してた?」
「本、読んでた。昨日買ったやつ」
「見せて」
俺が机を指すと、凪はそちらへ歩いていった。表紙を見てから、本の脇に置いていたしおりへ目を落とした。
「途中だったんだね」
「うん。ちょうど、いいところ」
「じゃあ、読んでていいよ。私も持ってきた」
鞄から本を出す凪を見て、俺は笑った。
「お茶、淹れてからね」
台所へ行き、湯を沸かした。
冷蔵庫を開けると、プリンが二つ並んでいた。
「プリンもあるよ」
「食べたい」
凪が本を置く音がした。
俺は二つとも取り出し、スプーンを二本、引き出しから選んだ。
テーブルへ運ぶと、凪が片方を自分の前へ寄せた。お茶を置いて座り、二人で手を合わせた。
「いただきます」
凪は蓋の端をつまんだ。途中で少し引っかかり、容器を押さえる指に力が入った。
金曜日、棚の前で思い浮かべた顔とは、少し違っていた。
眉を寄せていた。蓋が剥がれると、指についたものを見て、ティッシュを一枚取った。
俺は自分の蓋を開けながら、その様子を見ていた。
食べ終わり、二人でごちそうさまでしたと手を合わせたあと、凪は本を膝に載せた。
俺も読みかけのページを開いた。
向かいで、紙の擦れる音がした。
少し顔を上げると、凪はもう文字を追っていた。俺を見ていない、その顔をしばらく見た。
それから、自分の本へ目を戻した。
第三十六話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「そのままの声」です。




