4-6 窓辺の手
凪の新しい仕事が始まり、朝の道に、小さな習慣ができます。
シャツの袖に腕を通していると、スマホが震えた。
『もうすぐ下、通るよ』
俺は片方の袖口を留めないまま、窓へ行った。
カーテンを引き、道を見下ろす。自転車が一台、建物の陰へ入っていった。そのあとから、肩に鞄を掛けた凪が歩いてきた。
こちらを見上げていた。
目が合うと、凪が手を上げた。
俺も上げた。留めていない袖口が手首から落ちたので、もう片方の手で押さえた。
凪が笑った。
ガラス越しで声は聞こえなかったが、肩が動いたので分かった。
彼女は口を動かした。
いってきます、だったと思う。
俺も、いってらっしゃい、と声にした。
凪は頷き、前を向いて歩き出した。角を曲がる前に一度だけ振り返ったので、俺はまだ上げていた手を、もう少し高くした。
見えなくなってから、窓を離れた。
袖口のボタンを留める。さっきまで何度か穴を通り損ねていたのに、今度はすぐに入った。
凪が新しい職場へ通い始めて、一週間ほど経っていた。
駅へ向かう道の一本手前を通れば、俺の建物の前へ出られる。初日に凪がそのことに気づいて、夜、教えてくれた。
「朝、あそこに湊がいるんだなと思って通った」
「言ってくれれば、窓のとこ行ったのに」
「まだ寝てるかと思った」
「起きてるよ。たぶん」
「たぶんなんだ」
それから、ときどき、通る前に連絡が来るようになった。
俺が洗面所にいて気づかない朝もあった。凪が急いでいて、近いほうの道を選ぶ日もあった。
そんな日は、昼に『今日、髪が全然まとまらなかった』と届いたりした。
画面を見ながら、朝の洗面台の前にいる凪を思い浮かべた。片手で髪を押さえ、もう片方で時計を見る。俺も同じ時間に、片方だけ見つからない靴下を探していた。
会えた朝には、手を振った。
長くても十秒ほどだった。
窓を離れて鞄を取るときも、道からこちらを見上げた顔が残っていた。玄関の鏡で襟を直しながら、自分の口元も少し上がっているのを見つけた。
五月に入ると、窓を開けて待てる日が増えた。
ある朝、凪は鞄から細長い袋を出して見せた。
「パン?」
声を落として聞くと、凪は頷いた。
「朝、買えた」
引っ越しの日に覗いた店のものだった。
袋の上を折り、鞄へ戻す。指先が少し慌ただしかった。
「今日、帰り遅いかも」
「うん。俺も少し遅くなる」
「じゃあ、夜にね」
凪が手を振った。
その手に、日が当たった。掌の内側が明るくなり、下ろすと、袖の影へ戻った。
俺は彼女が角を曲がるのを見てから、窓を閉めた。
その晩、凪の部屋で一緒にごはんを食べた。
行ってもいいかと連絡すると、凪は、野菜を切るところからなら、と返してきた。俺は冷蔵庫にあった豆腐を持って出た。
玄関で靴を脱ぐころには、台所から包丁の音がしていた。
「おつかれ」
凪は手を止め、こちらを向いた。
仕事へ持っていく鞄が、机の下にあった。口から小さなノートが見えていた。表紙の端が、もう少し丸くなっていた。
俺たちは炒め物と味噌汁を作り、二人で手を合わせた。
「いただきます」
凪は食べながら、職場の話をした。
名前を覚えきれなかった人の顔と名前が、ようやく結びついてきたこと。いつも使う道具を、今日は聞かずに取りに行けたこと。昼休みに一緒になった人が、同じ本を読んでいたこと。
「まだ途中なんだって。だから、最後の話はできなかった」
「それは待たないとね」
「うん。今、どこまでですかって聞いた」
凪は箸でキャベツを取り、少し冷ましてから食べた。
俺の知らない人の名前を、彼女の口からいくつか聞いた。呼ぶ前に考えなくても、もう出てくる名前だった。
その中に、昨日、家の近くまで車で送ってくれたという男性の同僚がいた。
「帰ろうとしたら雨、すごくて。方向が同じだからって」
俺は味噌汁の椀を下ろした。
「二人で?」
「うん」
凪は箸を止めなかった。
「傘は持ってたんだけど、靴がもう濡れちゃってて」
俺は玄関にあった靴を思い出した。つま先へ紙が詰めてあった。
「そうだったんだ」
返事をして、ごはんを口へ運んだ。
同僚の顔を知らなかった。車の色も、大きさも知らない。けれど助手席へ座り、鞄を膝に載せる凪の姿だけは、すぐに浮かんだ。
箸の先で、茶碗についた米粒を取った。
「湊?」
顔を上げると、凪がこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「少し、気になった」
凪は箸を下ろした。
俺も下ろした。
「男の人と二人で、車に乗ってたことが」
換気扇の音がしていた。食事を始める前に弱くしたままで、止めるのを忘れていた。
凪は膝の上へ手を置いた。
「送ってもらっただけだよ」
「うん。何かあったって思ってるわけじゃない」
「じゃあ、何が気になるの?」
俺は茶碗の縁を見た。
凪が誰かの車で笑っているところを想像していた。俺にはまだ聞かせていない、一日の話をしているところも。
「その人のこと、俺は知らないし。二人でどんなふうに話すのかも、知らないから」
「仕事の話だよ。まだ慣れないかって聞かれたり」
「うん」
「でも、全部は話せないよ。今日あったこと、全部は」
俺は頷いた。
さっきまで楽しそうに話していた凪の口元が、今はまっすぐになっていた。聞きたかった職場の話を、途中で止めていた。
「全部教えてほしいんじゃない」
そう言ってから、自分でも少し考えた。
何も知らないのが嫌だと言い、全部でなくていいと言っている。凪は、その間のどこまで話せばいいのだろう。
「……たぶん、妬いてる。二人きりで近くにいるのを想像すると」
凪は目を伏せた。
しばらくして、俺を見た。
「私も、湊が女の人を二人きりで送ってたら、気にはなると思う」
「うん」
「でも、雨で困ってたのは、本当なんだよ」
「分かるよ。助かったんだと思う」
俺は椅子に座り直した。
「昨日のことで、凪が何か悪いことをしたって言いたいわけじゃない。これから、仕事以外で二人きりになる乗り方は、できれば避けてほしい」
凪は返事をする前に、テーブルの上の箸を揃えた。
「みんなでごはんに行くときとか、何人かで乗るのも?」
「それは違う。仕事で移動しなきゃいけないときも、別だと思ってる」
「じゃあ、二人きりで送ってもらうのは、やめておく。湊も同じにして」
「うん。俺もそうする」
凪は頷いた。それから、少しだけ眉を寄せた。
「職場の話、しづらくなるのは嫌だな」
俺は、すぐには答えなかった。
彼女の前の皿には、まだ半分ほど残っていた。さっき冷ましていたキャベツからは、もう湯気が出ていなかった。
「俺も、聞きたい。今日できるようになったこととか、嬉しかったこととか」
「うん」
「途中で止めて、ごめん」
凪は箸を取った。
俺も、茶碗を持ち上げた。
すぐには話が戻らなかった。二人で少し食べて、凪がお茶を飲んだ。俺はさっき出てきた名前を思い出そうとした。
「本を読んでた人、どこまで進んでたの?」
凪がこちらを見た。
「主人公が、手紙を見つけたところ」
「そこか」
「そう。言いたいけど、言えないでしょ」
俺は頷いた。
凪はその人と話したことを、もう少し教えてくれた。まだ少しゆっくりした話し方だった。俺は途中で口を挟まず、彼女が思い出すのを待った。
食べ終わって、二人で手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
俺が食器を洗い、凪が拭いた。
皿を渡すとき、指が触れた。凪は布巾の位置を変えて受け取った。その手が離れるまで、俺は皿の下を支えていた。
翌朝は、俺のほうが早く目を覚ました。
支度をしていると、凪から連絡が来た。
『今日も、そっち通る』
袖口を留めてから、窓を開けた。
道の向こうで、ごみを出している人がいた。車が一台通り、少し遅れて、その音が建物の間へ抜けていった。
凪が現れた。
今日はパンの袋を持っていなかった。鞄を肩に掛け、まっすぐこちらを見上げた。
俺は手を上げた。
凪も、胸の高さまで手を上げた。
「おはよう」
声が届いた。
「おはよう。靴、乾いた?」
凪は足元を見て、片方のつま先を少し持ち上げた。
「乾いた」
「よかった」
凪は足を戻した。
「湊も、仕事、頑張ってね」
「うん。凪も」
朝の日に、彼女の目が少し細くなった。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
凪は歩き出した。
俺は窓辺に立っていた。歩くたび、鞄の底が腰の脇で小さく揺れた。やがて角を曲がり、姿が見えなくなった。
窓を閉めると、部屋の音が戻ってきた。
俺も鞄を取り、玄関へ向かった。
靴を履くとき、今夜は何を話してくれるだろうと思った。
第三十五話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「今日は一人で」です。




