↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
近づいた暮らし
PR
35/48

4-6 窓辺の手

凪の新しい仕事が始まり、朝の道に、小さな習慣ができます。

シャツの袖に腕を通していると、スマホが震えた。


『もうすぐ下、通るよ』


俺は片方の袖口を留めないまま、窓へ行った。


カーテンを引き、道を見下ろす。自転車が一台、建物の陰へ入っていった。そのあとから、肩に鞄を掛けた凪が歩いてきた。


こちらを見上げていた。


目が合うと、凪が手を上げた。


俺も上げた。留めていない袖口が手首から落ちたので、もう片方の手で押さえた。


凪が笑った。


ガラス越しで声は聞こえなかったが、肩が動いたので分かった。


彼女は口を動かした。


いってきます、だったと思う。


俺も、いってらっしゃい、と声にした。


凪は頷き、前を向いて歩き出した。角を曲がる前に一度だけ振り返ったので、俺はまだ上げていた手を、もう少し高くした。


見えなくなってから、窓を離れた。


袖口のボタンを留める。さっきまで何度か穴を通り損ねていたのに、今度はすぐに入った。


凪が新しい職場へ通い始めて、一週間ほど経っていた。


駅へ向かう道の一本手前を通れば、俺の建物の前へ出られる。初日に凪がそのことに気づいて、夜、教えてくれた。


「朝、あそこに湊がいるんだなと思って通った」


「言ってくれれば、窓のとこ行ったのに」


「まだ寝てるかと思った」


「起きてるよ。たぶん」


「たぶんなんだ」


それから、ときどき、通る前に連絡が来るようになった。


俺が洗面所にいて気づかない朝もあった。凪が急いでいて、近いほうの道を選ぶ日もあった。


そんな日は、昼に『今日、髪が全然まとまらなかった』と届いたりした。


画面を見ながら、朝の洗面台の前にいる凪を思い浮かべた。片手で髪を押さえ、もう片方で時計を見る。俺も同じ時間に、片方だけ見つからない靴下を探していた。


会えた朝には、手を振った。


長くても十秒ほどだった。


窓を離れて鞄を取るときも、道からこちらを見上げた顔が残っていた。玄関の鏡で襟を直しながら、自分の口元も少し上がっているのを見つけた。


五月に入ると、窓を開けて待てる日が増えた。


ある朝、凪は鞄から細長い袋を出して見せた。


「パン?」


声を落として聞くと、凪は頷いた。


「朝、買えた」


引っ越しの日に覗いた店のものだった。


袋の上を折り、鞄へ戻す。指先が少し慌ただしかった。


「今日、帰り遅いかも」


「うん。俺も少し遅くなる」


「じゃあ、夜にね」


凪が手を振った。


その手に、日が当たった。掌の内側が明るくなり、下ろすと、袖の影へ戻った。


俺は彼女が角を曲がるのを見てから、窓を閉めた。


その晩、凪の部屋で一緒にごはんを食べた。


行ってもいいかと連絡すると、凪は、野菜を切るところからなら、と返してきた。俺は冷蔵庫にあった豆腐を持って出た。


玄関で靴を脱ぐころには、台所から包丁の音がしていた。


「おつかれ」


凪は手を止め、こちらを向いた。


仕事へ持っていく鞄が、机の下にあった。口から小さなノートが見えていた。表紙の端が、もう少し丸くなっていた。


俺たちは炒め物と味噌汁を作り、二人で手を合わせた。


「いただきます」


凪は食べながら、職場の話をした。


名前を覚えきれなかった人の顔と名前が、ようやく結びついてきたこと。いつも使う道具を、今日は聞かずに取りに行けたこと。昼休みに一緒になった人が、同じ本を読んでいたこと。


「まだ途中なんだって。だから、最後の話はできなかった」


「それは待たないとね」


「うん。今、どこまでですかって聞いた」


凪は箸でキャベツを取り、少し冷ましてから食べた。


俺の知らない人の名前を、彼女の口からいくつか聞いた。呼ぶ前に考えなくても、もう出てくる名前だった。


その中に、昨日、家の近くまで車で送ってくれたという男性の同僚がいた。


「帰ろうとしたら雨、すごくて。方向が同じだからって」


俺は味噌汁の椀を下ろした。


「二人で?」


「うん」


凪は箸を止めなかった。


「傘は持ってたんだけど、靴がもう濡れちゃってて」


俺は玄関にあった靴を思い出した。つま先へ紙が詰めてあった。


「そうだったんだ」


返事をして、ごはんを口へ運んだ。


同僚の顔を知らなかった。車の色も、大きさも知らない。けれど助手席へ座り、鞄を膝に載せる凪の姿だけは、すぐに浮かんだ。


箸の先で、茶碗についた米粒を取った。


「湊?」


顔を上げると、凪がこちらを見ていた。


「どうしたの?」


「少し、気になった」


凪は箸を下ろした。


俺も下ろした。


「男の人と二人で、車に乗ってたことが」


換気扇の音がしていた。食事を始める前に弱くしたままで、止めるのを忘れていた。


凪は膝の上へ手を置いた。


「送ってもらっただけだよ」


「うん。何かあったって思ってるわけじゃない」


「じゃあ、何が気になるの?」


俺は茶碗の縁を見た。


凪が誰かの車で笑っているところを想像していた。俺にはまだ聞かせていない、一日の話をしているところも。


「その人のこと、俺は知らないし。二人でどんなふうに話すのかも、知らないから」


「仕事の話だよ。まだ慣れないかって聞かれたり」


「うん」


「でも、全部は話せないよ。今日あったこと、全部は」


俺は頷いた。


さっきまで楽しそうに話していた凪の口元が、今はまっすぐになっていた。聞きたかった職場の話を、途中で止めていた。


「全部教えてほしいんじゃない」


そう言ってから、自分でも少し考えた。


何も知らないのが嫌だと言い、全部でなくていいと言っている。凪は、その間のどこまで話せばいいのだろう。


「……たぶん、妬いてる。二人きりで近くにいるのを想像すると」


凪は目を伏せた。


しばらくして、俺を見た。


「私も、湊が女の人を二人きりで送ってたら、気にはなると思う」


「うん」


「でも、雨で困ってたのは、本当なんだよ」


「分かるよ。助かったんだと思う」


俺は椅子に座り直した。


「昨日のことで、凪が何か悪いことをしたって言いたいわけじゃない。これから、仕事以外で二人きりになる乗り方は、できれば避けてほしい」


凪は返事をする前に、テーブルの上の箸を揃えた。


「みんなでごはんに行くときとか、何人かで乗るのも?」


「それは違う。仕事で移動しなきゃいけないときも、別だと思ってる」


「じゃあ、二人きりで送ってもらうのは、やめておく。湊も同じにして」


「うん。俺もそうする」


凪は頷いた。それから、少しだけ眉を寄せた。


「職場の話、しづらくなるのは嫌だな」


俺は、すぐには答えなかった。


彼女の前の皿には、まだ半分ほど残っていた。さっき冷ましていたキャベツからは、もう湯気が出ていなかった。


「俺も、聞きたい。今日できるようになったこととか、嬉しかったこととか」


「うん」


「途中で止めて、ごめん」


凪は箸を取った。


俺も、茶碗を持ち上げた。


すぐには話が戻らなかった。二人で少し食べて、凪がお茶を飲んだ。俺はさっき出てきた名前を思い出そうとした。


「本を読んでた人、どこまで進んでたの?」


凪がこちらを見た。


「主人公が、手紙を見つけたところ」


「そこか」


「そう。言いたいけど、言えないでしょ」


俺は頷いた。


凪はその人と話したことを、もう少し教えてくれた。まだ少しゆっくりした話し方だった。俺は途中で口を挟まず、彼女が思い出すのを待った。


食べ終わって、二人で手を合わせた。


「ごちそうさまでした」


俺が食器を洗い、凪が拭いた。


皿を渡すとき、指が触れた。凪は布巾の位置を変えて受け取った。その手が離れるまで、俺は皿の下を支えていた。


翌朝は、俺のほうが早く目を覚ました。


支度をしていると、凪から連絡が来た。


『今日も、そっち通る』


袖口を留めてから、窓を開けた。


道の向こうで、ごみを出している人がいた。車が一台通り、少し遅れて、その音が建物の間へ抜けていった。


凪が現れた。


今日はパンの袋を持っていなかった。鞄を肩に掛け、まっすぐこちらを見上げた。


俺は手を上げた。


凪も、胸の高さまで手を上げた。


「おはよう」


声が届いた。


「おはよう。靴、乾いた?」


凪は足元を見て、片方のつま先を少し持ち上げた。


「乾いた」


「よかった」


凪は足を戻した。


「湊も、仕事、頑張ってね」


「うん。凪も」


朝の日に、彼女の目が少し細くなった。


「いってきます」


「いってらっしゃい」


凪は歩き出した。


俺は窓辺に立っていた。歩くたび、鞄の底が腰の脇で小さく揺れた。やがて角を曲がり、姿が見えなくなった。


窓を閉めると、部屋の音が戻ってきた。


俺も鞄を取り、玄関へ向かった。


靴を履くとき、今夜は何を話してくれるだろうと思った。

第三十五話をお読みいただき、ありがとうございます。


次話は「今日は一人で」です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。