4-5 近くに住む
四月、凪が新しい部屋の鍵を開けます。
段ボールの向こうから、凪の声がした。
「それ、窓の横へお願い」
俺は箱を抱え直し、床に置かれた鞄を避けた。窓の横にはまだ何もなく、壁の下まで午後の日が届いていた。
箱を下ろすと、底が床に触れて低い音がした。
「本、重いね」
「それでも、少し減らしたんだよ」
凪は玄関から持ってきた小さな箱を、その隣へ置いた。上に太い字で、すぐ使う、と書いてあった。
四月の終わりに近い土曜日だった。
大きな荷物は、昼すぎに業者が運び終えていた。俺はそのあとに着き、凪と一緒に残りの荷物を部屋へ上げた。
内見の日に見た空の床は、もう半分ほど隠れていた。
桜を見た帰りに写真で見せてもらった部屋だった。凪はほかにも何軒か見て、最後にここへ戻った。窓の向きと、職場までの道と、本棚を置ける壁。電話の向こうで挙げていたものが、今は俺の周りにあった。
「暑いね」
凪が額へ手の甲を当てた。
俺も上着を脱ぎ、まだ椅子のない部屋で置き場所を探した。凪が箱の上を指したので、そこへ畳んで置いた。
窓を開けると、外で自転車のブレーキが鳴った。
凪は顔を上げた。
俺には近所でよく聞く音だった。けれど彼女は、自転車が見えなくなるまで窓の外を見ていた。
「ここから、お店の看板見えるんだ」
「ああ、角のところね」
「帰ってくるときの目印にしよう」
そう言って、凪は窓から離れた。
俺はもう一度、看板を見た。文字の一部が街路樹の葉に隠れていた。何度も前を通ったことがあるのに、この高さから見たことはなかった。
凪が、すぐ使う、と書かれた箱を開けた。
タオル、充電器、ティッシュ。取り出すたびに、床の上へ物が増えた。最後にマグカップが二つ出てきた。
「こっち、洗面所に持っていってもらっていい?」
渡されたタオルを受け取り、廊下へ出た。
洗面台の脇に掛けると、まだ折り目のついた端がまっすぐ下りた。蛇口をひねって手を洗う。さっきまで段ボールを抱えていた指に、水が細く分かれて流れた。
部屋へ戻ると、凪は本棚の前にしゃがんでいた。
「このまま、壁につける?」
聞くと、凪は首を傾けた。
「もう少し、こっち。コンセントを空けたい」
俺は反対側へ回った。
二人で少し持ち上げ、ずらした。床へ下ろしてから手を離すと、凪は壁との隙間を覗き込んだ。
「うん。これなら大丈夫」
俺は棚の上のほこりを拭いた。
凪は箱から本を出し、膝の前に積んでいった。俺も数冊取り、背表紙の高さを揃えて渡そうとした。
「あ、それとそれ、離しておいて」
「同じ作者じゃない?」
「そうなんだけど、こっちは机の近くに置きたいの。途中からでもよく読むから」
俺は二冊を分けた。
凪は一冊を机へ置き、もう一冊を棚へ戻した。同じ高さの本が続いたところへ、小さな文庫本が入った。
「そこなんだ」
「うん。手が届きやすい」
しゃがんだ凪が腕を伸ばすと、指先がちょうど背表紙の上へ掛かった。引き出して、また戻す。
俺は箱の中の次の本を取った。
彼女がどれをそばへ置くのか、見ていたかった。
しばらくして、凪のスマホが鳴った。
画面を見てから、俺へ顔を向けた。
「お母さん。ちょっと出るね」
「うん」
凪は窓のそばへ行った。
運び終わったことや、今は荷物を開けていることを話していた。声の調子が、俺と話すときより少し早かった。
俺は空になった箱の底を開き、平らに畳んだ。
「うん。大丈夫。お湯も出た」
凪が笑った。
テープを剥がす音で、その先は聞こえなかった。俺は剥がしたものを丸め、次の箱を手元へ引いた。
電話を終えた凪が戻ってきた。
「写真、送ってって」
「今の?」
「今の。片づいたら、もう一回送る」
凪は部屋の隅からスマホを構えた。俺がよけると、そこに畳んだ段ボールの山が現れた。
「そこだけ、すごい仕事した感じ」
「実際、したからね」
凪は写真を撮り、何か打ってからスマホを伏せた。
夕方になるころ、床に座れる場所ができた。
カーテンの裾には、袋から出したばかりの折り癖が残っていた。凪が端を引き、窓を半分隠す。白い壁に当たっていた日が、細くなった。
「今日は、このくらいにしようかな」
床に座ったまま、凪が言った。
「寝るところは、できたし」
「お腹は?」
「ずっと空いてる」
俺は笑って立ち上がった。
近くの店へ二人で弁当を買いに行った。凪は道の途中で、スーパーの閉店時刻を確かめ、向かいのパン屋も見た。
「朝、通るほう?」
「職場なら、一本向こうかな」
「じゃあ、帰りに寄れるね」
買ったものを提げて戻ると、凪はポケットから鍵を出した。
鍵穴へ差し込む前に、表と裏を一度確かめた。回すと、扉の内側で錠が動いた。
「ただいま」
小さな声だった。
俺はその後ろで靴を脱いだ。
テーブルに弁当を並べ、二人で手を合わせた。
「いただきます」
蓋を開けると、揚げ物の匂いがした。凪は箸を割り、手元を見たまま、ふう、と息を吐いた。
「座って食べられる」
「ずっと立ってたもんね」
「途中から、何の箱開けてるか分かんなくなってた」
「すぐ使う、が役に立った」
「あれだけは、ちゃんとした」
凪が笑い、ごはんを口へ運んだ。
俺も箸を取った。腕の内側に、箱を抱えていた重さが残っていた。茶碗を持つかわりに弁当の縁へ指を添え、少し手前へ寄せた。
窓の外は、まだ明るかった。
向かいの家で洗濯物を取り込んでいた。凪は箸を止めてそれを見てから、また食べ始めた。
「来週から、ここから仕事行くんだね」
「朝の道、歩いてみた?」
「まだ、その時間には。月曜に一回行ってみる」
「そっか」
凪が決めた場所に本が並び、選んだカーテンが掛かっていた。洗面所にはタオルがあり、冷蔵庫では買ってきた牛乳が冷えている。
俺の見ていない朝に、凪はあのタオルで手を拭き、冷蔵庫を開ける。
そのことが、食べている途中で、ゆっくり胸へ入ってきた。
二人で最後まで食べ、箸を置いた。
手を合わせて、ごちそうさまでした、と言った。
容器を片づけてから、凪がお茶を淹れた。
箱から出したカップの一つを、俺へ渡してくれた。取っ手がいつものものより細く、指を二本入れると少し窮屈だった。
凪は向かいへ座り、カップを両手で包んだ。
「なんか、変な感じ」
「部屋?」
「湊が、私のほうにいるの」
俺はカップを見た。
「いつも逆だもんね」
「うん。あ、そこにティッシュあるよ、とか、言いたくなる」
「どこ?」
凪は手を伸ばしかけ、辺りを見た。
「……どこ置いたっけ」
俺が棚の上を指すと、凪は口元を隠した。
「まだ、私も分かってなかった」
笑うと、何もない壁へ声が少し返った。
俺はその響きを聞きながら、カップを持ち直した。
お茶を飲み終えるころには、窓が暗くなっていた。
凪が一度立ち、鞄から小さな封筒を出してきた。
「これ、湊の分」
傾けた封筒から、鍵が一つ滑り出た。
内見のあと、部屋が決まったら互いの合鍵を渡そうと話していた。俺も用意してきた鍵を鞄から出し、テーブルへ置いた。
二つは、頭の形が違っていた。
凪は俺の鍵をつまんで持ち上げた。
「いつも湊が開けてるやつだ」
「うん。こっちは、まだ新しいけど」
俺も凪の鍵を取った。掌に載せると、歯の部分が小さく当たった。さっき彼女の後ろで見ていた扉を、これで開けられる。
「来るときは、先に連絡してね」
凪が言った。
「うん。俺のところも」
「片づけてない日、絶対あるから」
「俺もあるよ」
「知ってる」
俺が顔を上げると、凪は笑っていた。
「机の上だけね」
「あそこは、使ってる途中なんだよ」
「本も、三冊くらい途中だもんね」
凪は受け取った鍵を、自分のキーリングへ通そうとした。硬い輪が開かず、爪の先で何度か押した。
俺が手を差し出すと、凪はその上へ載せた。
輪を少し広げ、鍵の穴を通す。一周させて戻すと、凪は二つの鍵を指で分けた。
「ありがとう」
俺も、自分の輪へ新しい鍵を加えた。
持ち上げると、いつもと違う重なり方で鳴った。
九時を少し過ぎたところで、俺は帰ることにした。
凪はまだ箱を二つほど開けたそうにしていたが、立ち上がると、小さく腰を伸ばした。
「あとは明日かな」
「そうしなよ。今日、かなりやったし」
「うん」
畳んでいた上着を取った。置いていた箱は、いつの間にか空になっていた。
凪が玄関までついてきた。
「明日、棚の残り、手伝おうか」
「午後、お願いしてもいい?」
「いいよ。昼すぎに連絡する」
靴へ足を入れながら、俺はスマホを出しかけた。
帰りの時間を確かめる癖だった。
電車に乗るのは、今日はどちらでもなかった。
ポケットへ戻すと、鍵が指に触れた。
「じゃあ、また明日」
凪が言った。
俺は靴紐から顔を上げた。
玄関の少し高い床に、凪が立っていた。袖をまくったままで、手首に細い赤い跡があった。荷物を運んだときについたのだろう。髪も、朝より少し緩く結ばれていた。
そこへ手を伸ばした。
凪が掌をこちらへ向けたので、指を重ねた。さっき石鹸で洗った手は乾いていて、親指の付け根が温かかった。
「疲れたね」
俺が言うと、凪は頷いた。
「でも、終わった」
「まだ箱あるけど」
「引っ越しは終わった」
笑った頬に、もう片方の手で触れた。
凪は少し顔を傾けた。目を伏せ、俺の手の中で息をついた。その重みを指の腹で受けながら、俺も肩の力を抜いた。
「来てくれて、ありがとう」
「うん」
明日も、と言い足そうとして、やめた。さっき二人で決めたばかりだった。
手を離すと、凪が扉を開けた。
外の空気は、昼より冷たかった。
「着いたら教えてね」
「すぐだけどね」
「うん。それでも」
俺は頷き、廊下へ出た。
扉が閉まり、その向こうで鍵の回る音がした。
歩いて帰った。
角の看板には、まだ灯りがついていた。その前を曲がり、信号を一つ渡った。昼に凪が覗いたパン屋は、もう閉まっていた。
部屋に着いて時計を見ると、十二分しか経っていなかった。
自分の鍵を選んで扉を開けた。玄関の灯りをつけ、靴を脱ぐ。
『着いたよ』
送ると、すぐに返事が来た。
『もう?』
『もう』
『私、まだカップ洗ってた』
俺は玄関に立ったまま笑った。
蛇口の下で、あの細い取っ手を持っている凪を思った。部屋には箱が残り、本棚の一段はまだ空いている。俺が歩いている間に、彼女はカップを二つ洗っていた。
上着を掛け、鍵をいつもの皿へ置いた。
新しい一本が、皿の縁に掛かった。
指で少し動かすと、二本とも中へ収まった。
第三十四話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「窓辺の手」です。




