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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
近づいた暮らし
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34/48

4-5 近くに住む

四月、凪が新しい部屋の鍵を開けます。

段ボールの向こうから、凪の声がした。


「それ、窓の横へお願い」


俺は箱を抱え直し、床に置かれた鞄を避けた。窓の横にはまだ何もなく、壁の下まで午後の日が届いていた。


箱を下ろすと、底が床に触れて低い音がした。


「本、重いね」


「それでも、少し減らしたんだよ」


凪は玄関から持ってきた小さな箱を、その隣へ置いた。上に太い字で、すぐ使う、と書いてあった。


四月の終わりに近い土曜日だった。


大きな荷物は、昼すぎに業者が運び終えていた。俺はそのあとに着き、凪と一緒に残りの荷物を部屋へ上げた。


内見の日に見た空の床は、もう半分ほど隠れていた。


桜を見た帰りに写真で見せてもらった部屋だった。凪はほかにも何軒か見て、最後にここへ戻った。窓の向きと、職場までの道と、本棚を置ける壁。電話の向こうで挙げていたものが、今は俺の周りにあった。


「暑いね」


凪が額へ手の甲を当てた。


俺も上着を脱ぎ、まだ椅子のない部屋で置き場所を探した。凪が箱の上を指したので、そこへ畳んで置いた。


窓を開けると、外で自転車のブレーキが鳴った。


凪は顔を上げた。


俺には近所でよく聞く音だった。けれど彼女は、自転車が見えなくなるまで窓の外を見ていた。


「ここから、お店の看板見えるんだ」


「ああ、角のところね」


「帰ってくるときの目印にしよう」


そう言って、凪は窓から離れた。


俺はもう一度、看板を見た。文字の一部が街路樹の葉に隠れていた。何度も前を通ったことがあるのに、この高さから見たことはなかった。


凪が、すぐ使う、と書かれた箱を開けた。


タオル、充電器、ティッシュ。取り出すたびに、床の上へ物が増えた。最後にマグカップが二つ出てきた。


「こっち、洗面所に持っていってもらっていい?」


渡されたタオルを受け取り、廊下へ出た。


洗面台の脇に掛けると、まだ折り目のついた端がまっすぐ下りた。蛇口をひねって手を洗う。さっきまで段ボールを抱えていた指に、水が細く分かれて流れた。


部屋へ戻ると、凪は本棚の前にしゃがんでいた。


「このまま、壁につける?」


聞くと、凪は首を傾けた。


「もう少し、こっち。コンセントを空けたい」


俺は反対側へ回った。


二人で少し持ち上げ、ずらした。床へ下ろしてから手を離すと、凪は壁との隙間を覗き込んだ。


「うん。これなら大丈夫」


俺は棚の上のほこりを拭いた。


凪は箱から本を出し、膝の前に積んでいった。俺も数冊取り、背表紙の高さを揃えて渡そうとした。


「あ、それとそれ、離しておいて」


「同じ作者じゃない?」


「そうなんだけど、こっちは机の近くに置きたいの。途中からでもよく読むから」


俺は二冊を分けた。


凪は一冊を机へ置き、もう一冊を棚へ戻した。同じ高さの本が続いたところへ、小さな文庫本が入った。


「そこなんだ」


「うん。手が届きやすい」


しゃがんだ凪が腕を伸ばすと、指先がちょうど背表紙の上へ掛かった。引き出して、また戻す。


俺は箱の中の次の本を取った。


彼女がどれをそばへ置くのか、見ていたかった。


しばらくして、凪のスマホが鳴った。


画面を見てから、俺へ顔を向けた。


「お母さん。ちょっと出るね」


「うん」


凪は窓のそばへ行った。


運び終わったことや、今は荷物を開けていることを話していた。声の調子が、俺と話すときより少し早かった。


俺は空になった箱の底を開き、平らに畳んだ。


「うん。大丈夫。お湯も出た」


凪が笑った。


テープを剥がす音で、その先は聞こえなかった。俺は剥がしたものを丸め、次の箱を手元へ引いた。


電話を終えた凪が戻ってきた。


「写真、送ってって」


「今の?」


「今の。片づいたら、もう一回送る」


凪は部屋の隅からスマホを構えた。俺がよけると、そこに畳んだ段ボールの山が現れた。


「そこだけ、すごい仕事した感じ」


「実際、したからね」


凪は写真を撮り、何か打ってからスマホを伏せた。


夕方になるころ、床に座れる場所ができた。


カーテンの裾には、袋から出したばかりの折り癖が残っていた。凪が端を引き、窓を半分隠す。白い壁に当たっていた日が、細くなった。


「今日は、このくらいにしようかな」


床に座ったまま、凪が言った。


「寝るところは、できたし」


「お腹は?」


「ずっと空いてる」


俺は笑って立ち上がった。


近くの店へ二人で弁当を買いに行った。凪は道の途中で、スーパーの閉店時刻を確かめ、向かいのパン屋も見た。


「朝、通るほう?」


「職場なら、一本向こうかな」


「じゃあ、帰りに寄れるね」


買ったものを提げて戻ると、凪はポケットから鍵を出した。


鍵穴へ差し込む前に、表と裏を一度確かめた。回すと、扉の内側で錠が動いた。


「ただいま」


小さな声だった。


俺はその後ろで靴を脱いだ。


テーブルに弁当を並べ、二人で手を合わせた。


「いただきます」


蓋を開けると、揚げ物の匂いがした。凪は箸を割り、手元を見たまま、ふう、と息を吐いた。


「座って食べられる」


「ずっと立ってたもんね」


「途中から、何の箱開けてるか分かんなくなってた」


「すぐ使う、が役に立った」


「あれだけは、ちゃんとした」


凪が笑い、ごはんを口へ運んだ。


俺も箸を取った。腕の内側に、箱を抱えていた重さが残っていた。茶碗を持つかわりに弁当の縁へ指を添え、少し手前へ寄せた。


窓の外は、まだ明るかった。


向かいの家で洗濯物を取り込んでいた。凪は箸を止めてそれを見てから、また食べ始めた。


「来週から、ここから仕事行くんだね」


「朝の道、歩いてみた?」


「まだ、その時間には。月曜に一回行ってみる」


「そっか」


凪が決めた場所に本が並び、選んだカーテンが掛かっていた。洗面所にはタオルがあり、冷蔵庫では買ってきた牛乳が冷えている。


俺の見ていない朝に、凪はあのタオルで手を拭き、冷蔵庫を開ける。


そのことが、食べている途中で、ゆっくり胸へ入ってきた。


二人で最後まで食べ、箸を置いた。


手を合わせて、ごちそうさまでした、と言った。


容器を片づけてから、凪がお茶を淹れた。


箱から出したカップの一つを、俺へ渡してくれた。取っ手がいつものものより細く、指を二本入れると少し窮屈だった。


凪は向かいへ座り、カップを両手で包んだ。


「なんか、変な感じ」


「部屋?」


「湊が、私のほうにいるの」


俺はカップを見た。


「いつも逆だもんね」


「うん。あ、そこにティッシュあるよ、とか、言いたくなる」


「どこ?」


凪は手を伸ばしかけ、辺りを見た。


「……どこ置いたっけ」


俺が棚の上を指すと、凪は口元を隠した。


「まだ、私も分かってなかった」


笑うと、何もない壁へ声が少し返った。


俺はその響きを聞きながら、カップを持ち直した。


お茶を飲み終えるころには、窓が暗くなっていた。


凪が一度立ち、鞄から小さな封筒を出してきた。


「これ、湊の分」


傾けた封筒から、鍵が一つ滑り出た。


内見のあと、部屋が決まったら互いの合鍵を渡そうと話していた。俺も用意してきた鍵を鞄から出し、テーブルへ置いた。


二つは、頭の形が違っていた。


凪は俺の鍵をつまんで持ち上げた。


「いつも湊が開けてるやつだ」


「うん。こっちは、まだ新しいけど」


俺も凪の鍵を取った。掌に載せると、歯の部分が小さく当たった。さっき彼女の後ろで見ていた扉を、これで開けられる。


「来るときは、先に連絡してね」


凪が言った。


「うん。俺のところも」


「片づけてない日、絶対あるから」


「俺もあるよ」


「知ってる」


俺が顔を上げると、凪は笑っていた。


「机の上だけね」


「あそこは、使ってる途中なんだよ」


「本も、三冊くらい途中だもんね」


凪は受け取った鍵を、自分のキーリングへ通そうとした。硬い輪が開かず、爪の先で何度か押した。


俺が手を差し出すと、凪はその上へ載せた。


輪を少し広げ、鍵の穴を通す。一周させて戻すと、凪は二つの鍵を指で分けた。


「ありがとう」


俺も、自分の輪へ新しい鍵を加えた。


持ち上げると、いつもと違う重なり方で鳴った。


九時を少し過ぎたところで、俺は帰ることにした。


凪はまだ箱を二つほど開けたそうにしていたが、立ち上がると、小さく腰を伸ばした。


「あとは明日かな」


「そうしなよ。今日、かなりやったし」


「うん」


畳んでいた上着を取った。置いていた箱は、いつの間にか空になっていた。


凪が玄関までついてきた。


「明日、棚の残り、手伝おうか」


「午後、お願いしてもいい?」


「いいよ。昼すぎに連絡する」


靴へ足を入れながら、俺はスマホを出しかけた。


帰りの時間を確かめる癖だった。


電車に乗るのは、今日はどちらでもなかった。


ポケットへ戻すと、鍵が指に触れた。


「じゃあ、また明日」


凪が言った。


俺は靴紐から顔を上げた。


玄関の少し高い床に、凪が立っていた。袖をまくったままで、手首に細い赤い跡があった。荷物を運んだときについたのだろう。髪も、朝より少し緩く結ばれていた。


そこへ手を伸ばした。


凪が掌をこちらへ向けたので、指を重ねた。さっき石鹸で洗った手は乾いていて、親指の付け根が温かかった。


「疲れたね」


俺が言うと、凪は頷いた。


「でも、終わった」


「まだ箱あるけど」


「引っ越しは終わった」


笑った頬に、もう片方の手で触れた。


凪は少し顔を傾けた。目を伏せ、俺の手の中で息をついた。その重みを指の腹で受けながら、俺も肩の力を抜いた。


「来てくれて、ありがとう」


「うん」


明日も、と言い足そうとして、やめた。さっき二人で決めたばかりだった。


手を離すと、凪が扉を開けた。


外の空気は、昼より冷たかった。


「着いたら教えてね」


「すぐだけどね」


「うん。それでも」


俺は頷き、廊下へ出た。


扉が閉まり、その向こうで鍵の回る音がした。


歩いて帰った。


角の看板には、まだ灯りがついていた。その前を曲がり、信号を一つ渡った。昼に凪が覗いたパン屋は、もう閉まっていた。


部屋に着いて時計を見ると、十二分しか経っていなかった。


自分の鍵を選んで扉を開けた。玄関の灯りをつけ、靴を脱ぐ。


『着いたよ』


送ると、すぐに返事が来た。


『もう?』


『もう』


『私、まだカップ洗ってた』


俺は玄関に立ったまま笑った。


蛇口の下で、あの細い取っ手を持っている凪を思った。部屋には箱が残り、本棚の一段はまだ空いている。俺が歩いている間に、彼女はカップを二つ洗っていた。


上着を掛け、鍵をいつもの皿へ置いた。


新しい一本が、皿の縁に掛かった。


指で少し動かすと、二本とも中へ収まった。

第三十四話をお読みいただき、ありがとうございます。


次話は「窓辺の手」です。

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