4-4 桜の下で
冬に話したお弁当を持って、川へ出かけます。
炊飯器の蓋を開けると、窓のほうへ湯気が流れた。
凪が菜箸を持ったまま、少し顔を寄せた。
「何個になりそう?」
「六個。小さめにすれば」
「小さめにできる?」
「最初の一個で決まる」
凪は笑い、フライパンへ目を戻した。
四月の最初の日曜日だった。
昨夜から泊まりに来ていた凪は、起きるとまず窓を開けた。向かいの屋根に日が当たっているのを見て、よかった、と言った。天気予報では何日も前から晴れると言っていたが、俺も、その声を聞いてから外を見た。
台所の小さな窓は、まだ少し開いていた。
俺はごはんを広げて粗熱を取り、ラップの上へ載せた。真ん中をくぼませ、鮭を入れる。両手で包むと、熱が指の付け根まで回った。
一度開いてみた。
思ったより大きかった。
「それ、小さめ?」
隣から声がした。
「まだ調整できる」
「鮭、もう入ってるよ」
「じゃあ、これは俺の」
凪が肩を揺らした。菜箸で卵の端を持ち上げ、手前へ巻く。最後の一巻きで、少しだけ横へずれた。
「あ」
「笑わせた?」
「ちょっと」
凪はフライパンの縁へ卵を寄せた。形を整える間、俺は黙って二つ目のごはんを取った。
鮭が二つ、梅が二つ、昆布が二つ。
並べると、最初の一つだけが大きかった。凪がまな板の上で卵焼きを切りながら、それを見た。
「目印いらないね」
「少なくとも一個は、中身が分かる」
「残りも分かるようにして」
俺は包みの上に小さく具の名前を書いた。
その横へ、凪が卵焼きの容器を置いた。黄色い切り口が、隙間なく並んでいる。一番端の二切れだけ、少し斜めになっていた。
彼女の手紙を思い出した。
卵焼きは私が作るから、おにぎりをお願いします。
紙は今、机の引き出しにしまってある。俺は指についた米粒を取り、六つの包みを見た。凪は冷めた卵に蓋をして、留め具を左右から押した。
かちり、と二度鳴った。
保冷剤と一緒に弁当を袋へ入れ、二人で部屋を出た。
車の中で、凪は薄い上着を脱いだ。
膝に畳んで載せ、窓の外を見ていた。冬にはマフラーの下に隠れていた首筋に、髪の先が触れていた。
川へ向かう道の途中で、桜が見え始めた。
家と家の間に、白く膨らんだ枝がのぞく。曲がり角を過ぎると見えなくなり、次の道で、もっと大きく現れた。
「咲いてる」
凪が言った。
「写真より多いね」
「金曜は、まだあそこまでじゃなかった」
「間に合ったね」
その言い方に、俺も頷いた。
駐車場には、前に来たときより多くの車があった。空いている場所へ入れ、エンジンを切る。凪は曲が終わるのを待ってから、シートベルトを外した。
ドアを開けると、遠くで子どもの声がした。
土手へ向かう道の脇には、短い草が生えていた。秋に白く光っていた穂はなく、茶色い茎の間から、柔らかそうな緑が出ている。
凪が少し先で立ち止まった。
俺も顔を上げた。
桜は、道へ覆いかぶさるように咲いていた。
近くで見ると、白いと思っていた花の中心に色があった。枝の影が重なるところは薄く暗く、日を受けた先だけが、空から浮いて見えた。
風が吹くと、枝全体が少し遅れて揺れた。
凪はその下で、顎を上げていた。
まぶしそうに目を細めてから、一歩横へ移る。枝の間に見える空を、違うところから見直しているらしかった。
俺は袋を持ち直した。
「あっちまで歩いてみる?」
「うん。でも、ちょっと待って」
凪がスマホを出した。
画面を上へ向け、少し傾ける。撮った写真を確かめて、また木を見上げた。
「全部入らない」
「離れたら?」
「でも、近くのこれも入れたい」
彼女の指した枝には、まだ開ききっていない花があった。
俺はその横へ並んだ。凪が画面を見せてくれたので、一緒に覗き込む。そこに写っていない枝が、俺たちの頭の上で揺れた。
「二枚撮ろう」
俺が言うと、凪は少し笑った。
「そうする」
低い枝から離れ、凪がもう一度スマホを構えた。
俺はその間、袋を足元へ置いた。朝、湯気の中で閉めた容器が入っている。顔を上げると、凪は撮り終えたあとも、そのまま花を見ていた。
川を見渡せるところに、シートを敷いた。
端が風にめくれ、凪が膝で押さえた。俺は反対側に袋を置き、靴を脱いだ。座ると、地面の小さな凹凸が手のひらに伝わった。
弁当の包みを開く。
風が薄い布の角を持ち上げたので、俺が押さえた。その間に凪が容器を取り出し、蓋を外した。俺の前へ小皿を置いてから、自分の膝を少し寄せた。
二人で手を合わせた。
「いただきます」
凪は梅のおにぎりを選んだ。
包みをほどき、海苔を巻く。ひと口かじったところで、海苔が切れずに少しついてきた。指で押さえ直し、ようやく口を離す。
俺は大きな鮭のおにぎりを持っていた。
「どう?」
凪は飲み込んでから、頷いた。
「おいしい。塩、ちょうどいい」
その言葉を聞いてから、俺もかじった。
ごはんはもう冷めていた。噛むと粒がほどけ、鮭の塩気が広がった。朝、ラップ越しに持っても熱かったものが、今は掌の中にすっかり落ち着いていた。
凪が卵焼きを一つ、俺の皿へ載せた。
箸で取ると、切り口に沿って柔らかく曲がった。口へ入れれば、端の少し焼けたところから香ばしい匂いがした。
「これ、好きだな」
俺が言うと、凪は容器を見た。
「朝のうちに、端っこ食べたくなった」
「よく残したね」
「ここで食べたかったから」
俺はもう一つ、卵を取った。
木の下を、自転車を押した人が通った。少し離れたシートで、子どもが水筒の蓋を落とした。転がった蓋を追う声がして、凪がそちらを見て笑った。
風はまだ冷たいのに、背中へ当たる日は暖かかった。
俺は上着の前を少し開けた。
「冬に言ってたやつだね」
凪が、おにぎりを持った手を見ながら言った。
「ここで食べようって」
「うん」
「ちゃんと、おにぎりになった」
「米のまま持ってこなくてよかった」
凪が笑いかけたので、俺は自分の口元を手で隠した。
「今、食べてる」
「湊が言ったんでしょ」
凪も下を向いた。肩が少し動き、それが収まるまで、二人とも次のひと口を待った。
昆布のおにぎりを半分にして、凪へ渡した。彼女も残していた鮭を半分にしてくれた。交換すると、崩れた断面から具が見えた。
食べ終わるころ、凪の膝に花びらが落ちた。
彼女は指で拾おうとして、うまくつまめず、手のひらでそっと払った。花びらはシートの上へ移り、そこで止まった。
二人で箸を置き、手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
空の容器は軽かった。
凪が蓋を重ね、俺が包みをまとめた。水筒のお茶を分けて飲んだあと、しばらくそのまま座っていた。
見上げてばかりいた首を戻すと、凪の髪に細い影が掛かっていた。風が来るたびに、影と髪が別々に動いた。
触れたいと思い、手を伸ばした。
頬に掛かった髪を、指の背でそっと避ける。凪がこちらを向いたので、途中で目が合った。
「ついてた?」
「ううん。髪」
凪は耳へ手をやりかけ、そのまま下ろした。
俺の指が離れるのを待っていた。
耳の後ろへ髪を戻すと、指先に少しだけ肌の温かさが残った。手を下ろしたところへ、凪の手が重なった。
掌に、草の細い切れ端がついていた。
俺がそれを取ると、凪は指を開いた。そこへ自分の指を入れる。今日はコートのポケットへ隠さなくても、そのまま握っていられた。
凪は前を向き、俺の手を自分の膝の脇へ置いた。
指の側面に日が当たっていた。
帰り支度を始めたのは、それからしばらくしてからだった。
シートを畳むと、裏に乾いた草がついてきた。二人で端を持って払う。凪が折ったほうへ俺も折り、最後は彼女が両手で押さえた。
駐車場までの道を歩きながら、凪が言った。
「この前、面接の話したでしょ」
「うん」
三月に入ってから、凪は仕事を探していた。今の職場を離れることは、もう決めていた。通話で、面接の帰りに足が痛くなった話も聞いていた。
「こっちの会社、決まった」
俺は足を止めた。
凪も一歩先で止まり、振り返った。
「昨日、ちゃんと返事した」
「そうなんだ。おめでとう」
言ってから、口元が緩んだ。
「ありがとう」
「じゃあ、こっちに?」
「うん。部屋、探そうと思ってる。四月のうちに移れたらって」
凪は持っていた袋の紐を直した。
俺たちは歩き出した。さっきまで花の間にあった光が、今は道の上に細かく落ちていた。
「仕事の内容、やってみたかったことに近いの。休みのことも聞けたし」
凪は面接で話したことを、少しずつ教えてくれた。
俺は頷きながら聞いた。新しい通勤路を歩く凪が浮かんだ。まだ知らない建物の入口で、鞄の中を確かめている。そこから仕事へ行き、自分の部屋へ帰る。
「それと、湊にも会いやすくなるし」
凪がこちらを見た。
俺は笑った。
その言葉を、待っていたのだと思った。
「嬉しいよ。かなり」
「顔で分かった」
「もう出てた?」
「こっちに、って聞いたときから」
駐車場へ着いても、俺はまだ少し笑っていた。
車へ袋を置き、ドアを開けたまま、凪が見つけた部屋の写真を見せてもらった。画面には、何も置かれていない床と、小さな台所が写っていた。
「ここ、本棚置けそうなんだよね」
凪が壁の一面を指した。
「窓、こっちか」
「うん。明るさも、見に行って確かめたい」
「内見、車が必要なら出すよ」
「ありがとう。日が決まったら言うね」
凪は写真を閉じ、助手席へ座った。
今夜、彼女はまた電車で帰る。いつもの三時間がなくなるのは、まだ先だった。
俺は運転席へ回り、ドアを閉めた。
凪が膝の上の上着を広げると、小さな花びらが一枚、座席へ落ちた。
「連れてきちゃった」
指先で拾い、掌に載せている。
俺が見ていると、凪は窓を少し下げた。
手を外へ出して開く。花びらはすぐには離れなかった。凪がそっと息を吹きかけると、指の先から浮き、車の向こうへ流れていった。
戻ってきた手を、俺は一度だけ握った。
「また、この川来よう」
「うん。花がなくてもね」
凪の指が、俺の指を軽く挟んだ。
手を離し、シートベルトを引いた。凪もベルトを留めたので、俺はエンジンをかけた。
帰り道の分かれ目で、彼女が窓の外を指した。
「さっきの部屋、たぶん、あっちのほう」
信号が赤になり、車を停めた。
俺は初めて、その道の奥を見た。
第三十三話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「近くに住む」です。




