1-4 話題の速度
会話が合うということは、同じことを知っていることではなく、知らない場所へ同じ速さで進めることなのかもしれません。
雪山の研究所から帰還したあとも、誰もすぐには通話を抜けなかった。
ゲーム内の時刻は朝になり、白い雪原を薄い光が照らしている。任務は終わっているのに、四人のキャラクターは出発地点の小屋で所在なさそうに立っていた。
「さっきの化け物、なんでずっと廊下の角見てたんだろうな」
坂口が言った。
任務の途中、俺たちは音を出す装置を廊下へ投げた。化け物はその音に引き寄せられ、装置が止まったあとも、何もない角をしばらく探し続けていた。
「最後に音を聞いた場所を探してたんじゃない?」
牧野が答える。
「でも、俺たちが後ろ走ってたのに気づかなかったぞ」
「怪物にも見たくない現実があるんだろ」
俺が言うと、凪が笑った。
「一回信じたら、しばらくそこにいると思い込むようになってるのかもね」
「そうそう。正確にどう作ってるかは知らないけど、考え方としてはベイズ更新に近い」
「ベイズって何?」
凪は、分からない言葉が出ると、その場で止めた。
知らないことを隠そうとして、前後から意味を推測したふりをする人は多い。会話を止めることに遠慮して、分からないまま相槌だけを返す人もいる。
凪には、そのためらいがなかった。
「新しい情報が入るたびに、どれがいちばんありそうかを更新していく考え方」
「天気予報みたいな?」
「近い。朝の予報だけで一日決めるんじゃなくて、雲とか気温とか、新しい観測が増えるたびに確率を変える」
「じゃあ、嘘の情報を入れ続けたら、間違った場所をどんどん信じる?」
説明を終えてから、ほとんど間がなかった。
「観測のほうを操作されたら、そうなる」
「さっき私たちがやったやつだ」
「音を聞かせて、いない場所にいると思わせた」
「怪物にずっとSNS見せてたんだね」
「急に被害が現代的になったな」
「偏った情報ばっかり見せられて、廊下の角を信じる怪物」
「ちょっとかわいそうに思えてきた」
「俺たちを殺しに来てたけどな」
牧野が言った。
坂口は話を聞きながら、自分のキャラクターで凪の周りを意味もなく回っていた。
「それなら俺が警報ボタン押したのも、ゲームに間違った情報を入れられたせいだな」
「どんな情報?」
凪が尋ねる。
「押したほうがいいボタンだっていう情報」
「誰から?」
「俺の勘」
「情報源の信頼性が低い」
凪の返答があまりに早く、俺は声を出して笑った。
「しかも前回の失敗っていう事前情報があっただろ」
「前回は立入禁止の看板で、今回はボタンだから別件だ」
「失敗する人って、失敗を細かく分類して別件にするよね」
「凪、前より当たり強くない?」
「頑張るって言ったので」
前の会話を覚えていたらしい。
坂口は不満そうに「俺は警報なんか鳴らしてない」と主張し始めた。三人が同時に、押した、と返した。
「証拠あんの?」
「録画残ってるよ」
牧野が言った。
「じゃあ、お前の記憶より録画のほうが信用できるな」
俺が言うと、凪が少し考えてから尋ねた。
「でも、人の記憶って、思い出すたびに上書きされるんじゃなかった?」
「完全に上書きっていうと、ちょっと違う」
「出た。厳密には」
「大事だろ、厳密さ」
「じゃあ、厳密にはどう違うの?」
面倒そうな声ではなかった。
凪は笑いながらも、答えを待っていた。
「思い出した記憶が一回不安定になって、そのあとまた固定される。再固定化っていうんだけど、その途中で今の感情とか、新しい情報の影響を受けることがある」
「思い出すたびに、今の自分が少し混ざる?」
「そう。録画を再生するっていうより、保存してある材料から毎回組み立て直す感じ」
「じゃあ坂口さんの中では、ボタンを押してない記憶が本当にできてる可能性もあるんだ」
「俺、無罪じゃん」
「本人の中だけではね」
「現実のほうにはログが残ってるけど」
俺が付け足すと、凪は「厳しい」と笑った。
「でもさ」
彼女はそのまま続けた。
「昔の記憶に今の自分が混ざるなら、昔の自分と今の自分って、どこまで同じ人なんだろうね」
「急にでかい話になったな」
牧野が言った。
俺には、それほど急に変わったようには感じなかった。
記憶が同じ人間をつなぐものなら、その記憶が少しずつ組み替わるとき、同じ人間だと言える根拠はどこに残るのか。
「テセウスの船みたいな話?」
「何それ?」
「船の部品を、古くなるたびに一つずつ新しい部品へ交換していく。最後に最初の部品が一つもなくなったとき、それは最初と同じ船なのかっていう思考実験」
「ああ」
凪は短く声を出した。
「ゲームの装備を全部入れ替えても、同じキャラクターか、みたいな?」
「それだと中身のデータが同じだから、むしろ分かりやすい」
「じゃあ、セーブデータも少しずつ書き換えたら?」
「どこまで変えたら別のキャラクターになるか、境界が分からなくなる」
「人間も、記憶っていうセーブデータを少しずつ書き換えてる?」
「身体も考え方も変わるしな」
「でも名前とアカウントだけは同じ」
「そう考えると近いかも」
「じゃあ坂口さんは、中身が書き換わって無罪になった?」
「まだその話してんの?!」
坂口が叫んだ。
「アカウントに前科が残ってるから無理」
俺が答えると、凪がまた笑った。
会話は、ゲームの怪物から確率へ移り、天気予報を通って、SNSと記憶の話になり、最後には人間がどこまで同じ人間でいられるのかというところまで来ていた。
それでも、途中で話題が変わった感覚はなかった。
一つの言葉から次の問いが生まれ、その答えの端に、また別の問いが引っかかる。
凪は俺の知っていることを、すべて知っているわけではなかった。
知らない言葉も、知らない考え方もあった。
けれど、一度意味を渡すと、それを持ったまま、すぐ次の場所へ来た。
「俺、風呂入ってくるわ」
牧野が言った。
「俺もそろそろ寝る。明日早いし」
坂口が続く。
画面の時計を見ると、ゲームを終えてから一時間近く経っていた。
「そんな話してた?」
俺が言うと、牧野が呆れたように答えた。
「ずっとしてたよ。途中から何の話か分かんなかったけど」
「怪物の話だろ」
「最後、坂口が同じ人間かどうかの話になってたぞ」
「そこは別に疑ってない」
「疑えよ」
坂口が笑った。
凪も「じゃあ私も寝ようかな」と言った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
三つの名前が順番に消え、通話には俺一人が残った。
長く話したあとのはずなのに、頭に疲れはなかった。
話したいことを削った覚えも、説明のために同じ場所へ何度も戻った覚えもない。
会話には、内容だけではなく速度がある。
その夜まで、俺はそんなものを意識したことがなかった。
第四話をお読みいただき、ありがとうございます。
凪は湊と同じことをすべて知っているのではなく、分からないことを聞き、理解した瞬間から一緒に考え始められる人です。
次話では、凪が湊のどこを見ていたのかが、初めて彼女自身の言葉になります。




