↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
近づいた暮らし
PR
31/48

4-2 何パーセント

春を待つころ、画面の前で言葉を探します。

凪の名前の横に、緑の印がついていた。


俺は開いていた本を伏せ、メッセージの画面へ戻った。


『今日、少し話せる?』


送ったのは二十分ほど前だった。


机のカップには、まだ半分ほどお茶が残っていた。持ち上げると、指の当たるところだけがわずかに温かい。ひと口飲んで、同じ場所へ戻した。


二月も終わりに近かった。昼間、窓を開けたときには、外の空気が少し柔らかくなった気がした。夜になると、カーテンの下からいつもの冷気が来た。


緑の印は、消えずにいた。


俺も、パソコンをつけたまま風呂へ入ることがある。表示が変わらなくても、そこに座っているとは限らない。


本を起こした。


さっきまで読んでいた行を探す。段落の頭から読んだが、終わりへ着く前に画面を見た。返事はまだなかった。


『忙しい?』


そこまで打ち、消した。


代わりに送った。


『オンラインにはなってるけど』


送信したあとの文字は、打っていたときより硬く見えた。


文の終わりに何か足そうとしていると、凪から返事が来た。


『ごめん。友達とやり取りしてた』


続いて、


『あとで話せるよ』


と届いた。


俺は椅子の背へ身体を戻した。


あとで、は何時だろうと思った。そう聞くことはできた。それだけ聞けばよかったのに、指は別の文を打っていた。


『俺のは後回しってこと?』


少しして、画面に入力中の表示が出た。


消えた。


また出た。


『そういう意味で言ってないよ』


俺は膝に載せていた手を動かした。手のひらに、本の角の跡がついていた。


通話がつながったのは、それから十五分ほどしてからだった。


「ごめん。待たせたね」


「うん」


凪の声を聞けば、もう少し楽に話せると思っていた。


けれど、最初の返事が自分でも分かるくらい短くなった。凪はすぐには続きを言わなかった。俺も、待っている間に考えていたことを、どこから話せばいいのか分からなくなった。


「友達の話、長くなっちゃって」


「先に一言くれればよかったのに」


「うん。でも、何時からって決めてなかったから」


決めてはいなかった。


俺はメッセージを見た。そこには、少し話せるかと聞いた自分の言葉しかなかった。待つ、とも、今すぐ、とも書いていない。


「それは、そうだけど」


声にすると、そのあとが続かなかった。


指先で、カップの取っ手を押した。底が机を擦り、鈍い音がした。


「最近、あんまり話したくないのかなと思って」


言ってから、凪の返事を待った。


「そんなことないよ」


「前より、返事が短いときあるし」


「湊も、あるよ」


耳に当たるヘッドセットを、少し直した。


「俺?」


「うん。昨日も」


昨日のやり取りを上へたどった。


凪が、読んでいる本の話をしていた。俺は『そうなんだ』と返していた。そのあとに写真が一枚あり、俺の返事は『いいね』だけだった。


覚えていた。


自分も本を読んでいて、区切りまで進んだら詳しく聞くつもりだった。けれど、そのうち凪から別の話が来て、そちらへ返したのだった。


「昨日は、俺も読んでたから」


「それ、分からなかった」


凪の声は静かだった。


写真を開いた。窓際に置いた本に、細い日が当たっていた。表紙の半分が明るく、もう半分にはカーテンの影が落ちている。


昨日は、その影まで見ていなかった。


「あと、あの曲、消したでしょ」


凪が言った。


「曲?」


「プロフィールに書いてたやつ」


自己紹介の欄に、しばらく曲名を置いていた。川のそばの駐車場で、凪が聴かせてくれた曲だった。


一昨日、その欄を短くした。前から残っていたゲームの名前と、一緒に消した。


「あれは、整理しただけだよ」


「うん。そうかなとも思った」


「曲は今も聴いてるし」


「でも、なくなってたから」


俺は自分のプロフィールを開いた。


短くなった欄の下には、空白があった。消したときには、見やすくなったと思っていた。


凪はここを見たのだった。


あの曲を選び、俺が好きだと言うのを待っていた凪が、一人でこの空白を見た。


「消す前に、言えばよかった?」


聞いたあと、凪が黙った。


「……そういう決まりにしたいわけじゃない」


俺は口を閉じた。


さっきから、言葉が少しずつ違うところへ着いていた。渡したつもりのものを、凪は受け取る前に持ち直している。俺も彼女の言葉を、そのままにはしておけなかった。


カップを持ち上げた。口をつけたが、飲まずに下ろした。


「嫌だったんだね」


「ちょっと、寂しかった」


「うん」


そこで黙っていれば、もう少し聞けたかもしれない。


俺は、次を聞いた。


「それで、俺への気持ちも変わった?」


向こうで、布の動く音がした。


「分かんないよ。曲が消えたから、すぐどうかなるとかじゃなくて」


「うん」


「この何日か、何してたのとか、誰と話してたのとか、聞かれると、また何か間違えたかなって思う」


俺は背もたれから身体を起こした。


「間違えたなんて、言ってないでしょ」


「今のも、そう」


声が少し小さくなった。


俺は息を吸ったまま止まった。


窓の外で車が停まった。エンジンの低い音が、しばらく同じ場所にあった。


凪が話すのを待った。


「好きだよ。でも、今は、話し始めるときにちょっと身構える」


机の縁に置いていた指を曲げた。


「少し、冷めたってこと?」


「……少しは、そうなのかもしれない」


俺は画面の凪の名前を見た。


何も変わっていなかった。


同じ名前で、同じ通話の画面だった。声も、よく知っている凪の声だった。それを聞いている自分の手だけが、さっきから置き場所を決められずにいた。


「どのくらい?」


「どのくらいって?」


「何パーセントくらい、冷めた?」


凪はすぐには答えなかった。


俺は待った。


少し、という言葉の中に、どのくらいの距離があるのか知りたかった。指を伸ばせば届くくらいなのか、もう声を張らなければ聞こえないところなのか。数字になれば、その手前で止まれる気がした。


「分かんない。そういうふうには」


「だいたいでいいから」


凪が、小さく息を吐いた。


「二十、とか」


俺は何も言わなかった。


二十。


頭の中で百から引いた。八十が残った。


八十もあると思おうとして、二十もなくなったのだと思った。さっきまで形のなかったものが、同じところを何度も行き来した。


凪が何か言った。


「ごめん。もう一回」


「ちゃんとした数字じゃないよ、って」


「うん」


「聞かれたから、今、考えただけだから」


「分かってる」


そう答えたが、二十は消えなかった。


机の上には、読みかけの本と、冷めたお茶があった。どちらを動かしても、何も戻りそうになかった。


「どうしたら戻る?」


聞いてから、また答えを求めていることに気づいた。


凪は黙っていた。


その沈黙の向こうで、彼女が唇を結んでいる気がした。何か言えば、俺はその言葉を取って、さらに細かく聞くのだろう。自分の次の質問が、もう喉の近くにあった。


俺は口元に手を当てた。


「ごめん。今の、すぐ答えなくていい」


少しして、凪が返事をした。


「私も、湊が冷めたのかなって思ってたよ」


手を下ろした。


「俺は、冷めてない」


「うん。今、聞けた」


俺は開いたままの写真へ目を戻した。


日が当たった本の端に、凪の指が写っていた。ページを押さえるための、ごく小さな指先だった。


昨日、この写真を送ったあと、凪は俺の短い返事を見た。


「本、読んでるって言えばよかったね」


「うん」


「あとで聞こうと思って、そのままにしてた」


「そうだったんだ」


その声を聞くと、昨日へ戻って返事を一つ足したくなった。


けれど画面の下には、今夜送った文があった。


俺のは後回しってこと?


俺はそこから指を離した。


「さっきの、後回しって言い方、ごめん」


「……うん」


「待ってて寂しかった。でも、凪は待つ約束してなかった」


凪が鼻から息を吐いた。笑ったのか、少し疲れたのか、音だけでは分からなかった。


「話したくなかったわけじゃないよ」


「うん」


「友達の話も、途中だったの」


俺は頷いた。


見えていないので、もう一度、声で返した。


しばらく、二人とも黙っていた。


いつものように、黙っているだけで楽にはなれなかった。俺は凪の息が聞こえるたび、何か話し始めるのかと思った。自分が息を吸うと、向こうの物音も止まる気がした。


時計を見ると、十一時を過ぎていた。


「今日、もううまく話せないかも」


凪が言った。


俺は、もう少しだけ、と言いかけた。


その先に何を話すつもりなのか考えた。もう一度好きだと聞きたいだけなら、さっき凪は言ってくれていた。


「明日、話せる?」


「うん。九時くらいなら」


「じゃあ、九時に」


「分かった」


共有しているカレンダーを開いた。


明日の欄に、九時、通話、と入れた。少しして、凪が「見えた」と言った。


前に同じ言葉を聞いた夜を思い出した。二人で次に会う日を選び、画面に予定が現れるのを面白がっていた。


今も、凪の画面に同じ文字がある。


俺は時刻を確かめて、指を離した。


「おやすみ」


「うん。おやすみ、湊」


名前を呼ばれて、喉の奥が少し詰まった。


「おやすみ、凪」


通話が終わった。


ヘッドセットを外すと、耳の周りだけが温かかった。


俺はカップを台所へ持っていった。冷めたお茶を流すと、排水口へ細い色が伸びた。水を出し、内側を指で擦った。


机へ戻ってから、プロフィールを開いた。


空白の欄に、あの曲名を打った。


保存する手前で止まった。


これを戻したら、凪は喜ぶだろうか。喜んだと言われたら、俺はまた、どのくらい、と聞きたくなるのだろうか。


入力した文字を、そのまま見ていた。


やがて画面を閉じ、プレイリストから曲を選んだ。


低い弦の音が流れた。


凪の指が、助手席の膝の上で止まったところを覚えていた。あのとき、次の音が来るまでの短い間を、二人で待った。


今夜は、机を叩かなかった。


両手を膝へ置いたまま、曲を最後まで聴いた。


終わると、伏せていた本を起こした。開き癖のついたページを揃え、月のしおりを挟んだ。灰色の紐を表紙の外へ逃がす。


スマホには、明日の九時が表示されていた。


俺は充電の線を差し込み、その文字が見える向きに置いた。

第三十一話をお読みいただき、ありがとうございます。


次話は「届くもの」です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。