4-2 何パーセント
春を待つころ、画面の前で言葉を探します。
凪の名前の横に、緑の印がついていた。
俺は開いていた本を伏せ、メッセージの画面へ戻った。
『今日、少し話せる?』
送ったのは二十分ほど前だった。
机のカップには、まだ半分ほどお茶が残っていた。持ち上げると、指の当たるところだけがわずかに温かい。ひと口飲んで、同じ場所へ戻した。
二月も終わりに近かった。昼間、窓を開けたときには、外の空気が少し柔らかくなった気がした。夜になると、カーテンの下からいつもの冷気が来た。
緑の印は、消えずにいた。
俺も、パソコンをつけたまま風呂へ入ることがある。表示が変わらなくても、そこに座っているとは限らない。
本を起こした。
さっきまで読んでいた行を探す。段落の頭から読んだが、終わりへ着く前に画面を見た。返事はまだなかった。
『忙しい?』
そこまで打ち、消した。
代わりに送った。
『オンラインにはなってるけど』
送信したあとの文字は、打っていたときより硬く見えた。
文の終わりに何か足そうとしていると、凪から返事が来た。
『ごめん。友達とやり取りしてた』
続いて、
『あとで話せるよ』
と届いた。
俺は椅子の背へ身体を戻した。
あとで、は何時だろうと思った。そう聞くことはできた。それだけ聞けばよかったのに、指は別の文を打っていた。
『俺のは後回しってこと?』
少しして、画面に入力中の表示が出た。
消えた。
また出た。
『そういう意味で言ってないよ』
俺は膝に載せていた手を動かした。手のひらに、本の角の跡がついていた。
通話がつながったのは、それから十五分ほどしてからだった。
「ごめん。待たせたね」
「うん」
凪の声を聞けば、もう少し楽に話せると思っていた。
けれど、最初の返事が自分でも分かるくらい短くなった。凪はすぐには続きを言わなかった。俺も、待っている間に考えていたことを、どこから話せばいいのか分からなくなった。
「友達の話、長くなっちゃって」
「先に一言くれればよかったのに」
「うん。でも、何時からって決めてなかったから」
決めてはいなかった。
俺はメッセージを見た。そこには、少し話せるかと聞いた自分の言葉しかなかった。待つ、とも、今すぐ、とも書いていない。
「それは、そうだけど」
声にすると、そのあとが続かなかった。
指先で、カップの取っ手を押した。底が机を擦り、鈍い音がした。
「最近、あんまり話したくないのかなと思って」
言ってから、凪の返事を待った。
「そんなことないよ」
「前より、返事が短いときあるし」
「湊も、あるよ」
耳に当たるヘッドセットを、少し直した。
「俺?」
「うん。昨日も」
昨日のやり取りを上へたどった。
凪が、読んでいる本の話をしていた。俺は『そうなんだ』と返していた。そのあとに写真が一枚あり、俺の返事は『いいね』だけだった。
覚えていた。
自分も本を読んでいて、区切りまで進んだら詳しく聞くつもりだった。けれど、そのうち凪から別の話が来て、そちらへ返したのだった。
「昨日は、俺も読んでたから」
「それ、分からなかった」
凪の声は静かだった。
写真を開いた。窓際に置いた本に、細い日が当たっていた。表紙の半分が明るく、もう半分にはカーテンの影が落ちている。
昨日は、その影まで見ていなかった。
「あと、あの曲、消したでしょ」
凪が言った。
「曲?」
「プロフィールに書いてたやつ」
自己紹介の欄に、しばらく曲名を置いていた。川のそばの駐車場で、凪が聴かせてくれた曲だった。
一昨日、その欄を短くした。前から残っていたゲームの名前と、一緒に消した。
「あれは、整理しただけだよ」
「うん。そうかなとも思った」
「曲は今も聴いてるし」
「でも、なくなってたから」
俺は自分のプロフィールを開いた。
短くなった欄の下には、空白があった。消したときには、見やすくなったと思っていた。
凪はここを見たのだった。
あの曲を選び、俺が好きだと言うのを待っていた凪が、一人でこの空白を見た。
「消す前に、言えばよかった?」
聞いたあと、凪が黙った。
「……そういう決まりにしたいわけじゃない」
俺は口を閉じた。
さっきから、言葉が少しずつ違うところへ着いていた。渡したつもりのものを、凪は受け取る前に持ち直している。俺も彼女の言葉を、そのままにはしておけなかった。
カップを持ち上げた。口をつけたが、飲まずに下ろした。
「嫌だったんだね」
「ちょっと、寂しかった」
「うん」
そこで黙っていれば、もう少し聞けたかもしれない。
俺は、次を聞いた。
「それで、俺への気持ちも変わった?」
向こうで、布の動く音がした。
「分かんないよ。曲が消えたから、すぐどうかなるとかじゃなくて」
「うん」
「この何日か、何してたのとか、誰と話してたのとか、聞かれると、また何か間違えたかなって思う」
俺は背もたれから身体を起こした。
「間違えたなんて、言ってないでしょ」
「今のも、そう」
声が少し小さくなった。
俺は息を吸ったまま止まった。
窓の外で車が停まった。エンジンの低い音が、しばらく同じ場所にあった。
凪が話すのを待った。
「好きだよ。でも、今は、話し始めるときにちょっと身構える」
机の縁に置いていた指を曲げた。
「少し、冷めたってこと?」
「……少しは、そうなのかもしれない」
俺は画面の凪の名前を見た。
何も変わっていなかった。
同じ名前で、同じ通話の画面だった。声も、よく知っている凪の声だった。それを聞いている自分の手だけが、さっきから置き場所を決められずにいた。
「どのくらい?」
「どのくらいって?」
「何パーセントくらい、冷めた?」
凪はすぐには答えなかった。
俺は待った。
少し、という言葉の中に、どのくらいの距離があるのか知りたかった。指を伸ばせば届くくらいなのか、もう声を張らなければ聞こえないところなのか。数字になれば、その手前で止まれる気がした。
「分かんない。そういうふうには」
「だいたいでいいから」
凪が、小さく息を吐いた。
「二十、とか」
俺は何も言わなかった。
二十。
頭の中で百から引いた。八十が残った。
八十もあると思おうとして、二十もなくなったのだと思った。さっきまで形のなかったものが、同じところを何度も行き来した。
凪が何か言った。
「ごめん。もう一回」
「ちゃんとした数字じゃないよ、って」
「うん」
「聞かれたから、今、考えただけだから」
「分かってる」
そう答えたが、二十は消えなかった。
机の上には、読みかけの本と、冷めたお茶があった。どちらを動かしても、何も戻りそうになかった。
「どうしたら戻る?」
聞いてから、また答えを求めていることに気づいた。
凪は黙っていた。
その沈黙の向こうで、彼女が唇を結んでいる気がした。何か言えば、俺はその言葉を取って、さらに細かく聞くのだろう。自分の次の質問が、もう喉の近くにあった。
俺は口元に手を当てた。
「ごめん。今の、すぐ答えなくていい」
少しして、凪が返事をした。
「私も、湊が冷めたのかなって思ってたよ」
手を下ろした。
「俺は、冷めてない」
「うん。今、聞けた」
俺は開いたままの写真へ目を戻した。
日が当たった本の端に、凪の指が写っていた。ページを押さえるための、ごく小さな指先だった。
昨日、この写真を送ったあと、凪は俺の短い返事を見た。
「本、読んでるって言えばよかったね」
「うん」
「あとで聞こうと思って、そのままにしてた」
「そうだったんだ」
その声を聞くと、昨日へ戻って返事を一つ足したくなった。
けれど画面の下には、今夜送った文があった。
俺のは後回しってこと?
俺はそこから指を離した。
「さっきの、後回しって言い方、ごめん」
「……うん」
「待ってて寂しかった。でも、凪は待つ約束してなかった」
凪が鼻から息を吐いた。笑ったのか、少し疲れたのか、音だけでは分からなかった。
「話したくなかったわけじゃないよ」
「うん」
「友達の話も、途中だったの」
俺は頷いた。
見えていないので、もう一度、声で返した。
しばらく、二人とも黙っていた。
いつものように、黙っているだけで楽にはなれなかった。俺は凪の息が聞こえるたび、何か話し始めるのかと思った。自分が息を吸うと、向こうの物音も止まる気がした。
時計を見ると、十一時を過ぎていた。
「今日、もううまく話せないかも」
凪が言った。
俺は、もう少しだけ、と言いかけた。
その先に何を話すつもりなのか考えた。もう一度好きだと聞きたいだけなら、さっき凪は言ってくれていた。
「明日、話せる?」
「うん。九時くらいなら」
「じゃあ、九時に」
「分かった」
共有しているカレンダーを開いた。
明日の欄に、九時、通話、と入れた。少しして、凪が「見えた」と言った。
前に同じ言葉を聞いた夜を思い出した。二人で次に会う日を選び、画面に予定が現れるのを面白がっていた。
今も、凪の画面に同じ文字がある。
俺は時刻を確かめて、指を離した。
「おやすみ」
「うん。おやすみ、湊」
名前を呼ばれて、喉の奥が少し詰まった。
「おやすみ、凪」
通話が終わった。
ヘッドセットを外すと、耳の周りだけが温かかった。
俺はカップを台所へ持っていった。冷めたお茶を流すと、排水口へ細い色が伸びた。水を出し、内側を指で擦った。
机へ戻ってから、プロフィールを開いた。
空白の欄に、あの曲名を打った。
保存する手前で止まった。
これを戻したら、凪は喜ぶだろうか。喜んだと言われたら、俺はまた、どのくらい、と聞きたくなるのだろうか。
入力した文字を、そのまま見ていた。
やがて画面を閉じ、プレイリストから曲を選んだ。
低い弦の音が流れた。
凪の指が、助手席の膝の上で止まったところを覚えていた。あのとき、次の音が来るまでの短い間を、二人で待った。
今夜は、机を叩かなかった。
両手を膝へ置いたまま、曲を最後まで聴いた。
終わると、伏せていた本を起こした。開き癖のついたページを揃え、月のしおりを挟んだ。灰色の紐を表紙の外へ逃がす。
スマホには、明日の九時が表示されていた。
俺は充電の線を差し込み、その文字が見える向きに置いた。
第三十一話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「届くもの」です。




