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何度やり直しても君と別れる  作者: gratin
近づいた暮らし
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30/48

4-1 小さな丸

通算第三十話です。


二月。離れた町で、それぞれの帰り道にいます。

店を出ると、首の後ろに冷たい空気が入った。


俺はコートの襟を直し、駅へ向かう友人に手を上げた。彼は歩きながら、また連絡する、と言った。店の中で聞いていた声が、外へ出ると少し細くなった。


二月に入っていた。


閉まりかけた扉の向こうには、まだ食器の音があった。俺は軒下へ寄り、スマホを出した。


『今、店出た。歩いて帰る』


凪へのメッセージを送る。


彼女も今日は出かけていた。友人と映画を観てから、ごはんを食べると言っていた。俺のほうは、久しぶりに会った友人と食事をしていた。仕事の話から昔の話になり、彼が覚えていた失敗を、俺はすっかり忘れていた。


思い出して笑っているうちに、九時を過ぎていた。


スマホが震えた。


『私も帰るところ。今ホーム』


続いて、もう一つ届いた。


『昨日の、今つないでみる?』


前の晩、凪が位置情報を共有できるアプリの話をした。


「お互い、今どのへんにいるか見えるんだって」


「地図で?」


「うん。帰ってくるところとか、分かったらちょっと嬉しいなと思って」


「いいね。俺のも見えるようにしようか」


そう話し、二人ともアプリを入れたところで、その夜は別の話になったのだった。


『うん。やってみよう』


凪から届いた招待を開いた。


画面に出る案内を確かめ、俺からも共有すると、地図の上に自分の名前が出た。もう一つの名前を押すと、知らない町の駅が大きくなった。


線路のそばに、小さな丸があった。


凪、と表示されている。


『見えた』


送ると、凪からも同じ言葉が返ってきた。


『湊、まだお店のとこだ』


『今、外でやってた』


『寒いでしょ。帰って』


俺は笑い、スマホをポケットへしまった。


歩き出すと、店から離れるにつれて道が暗くなった。閉まった店のシャッターに、街灯の光が縦に掛かっていた。さっきまで向かいに座っていた友人の笑い声が、まだ頭に残っている。


それをあとで凪に話そうと思った。


大きな交差点で信号を待つ間に、もう一度画面を開いた。


凪の丸は、駅から離れていた。


見ているうちに、少し先へ移った。線路を指でたどると、次の駅の名前が出てきた。読んだことのない名前だった。


今、この辺りを通っている。


俺は画面を近づけた。


電車の窓に映った凪の顔を思い浮かべた。コートの前を少し開け、鞄を膝へ置いているかもしれない。暖かい車内で、指先の冷えがほどけているといいと思った。


向かいの信号が青になった。


画面を消して、横断歩道を渡った。


部屋に着くと、靴を脱ぐ前に暖房を入れた。コートを掛け、手を洗う。水が温まるまでの間、指を曲げると関節のあたりがこわばった。


タオルで拭いていると、スマホが鳴った。


『おかえり』


まだ、着いたとは送っていなかった。


俺は洗面所の入口で立ち止まった。


『ただいま。分かった?』


『丸、おうちのとこに戻った』


続けて届いた。


『見てたら、私も早く帰りたくなった』


俺はタオルを掛け直した。折れた端を伸ばしながら、もう一度その文を読んだ。


凪の帰る家は、ここではなかった。


それでも、先に部屋へ着いた俺に、電車の中からおかえりと言っている。俺がコートを脱ぎ、手を洗っている間も、彼女は帰り道の途中にいた。


『あったかくして待ってる』


送ってから、何を待っているのかは書き足さなかった。


凪から、すぐに返事が来た。


『うん。着いたら話そ』


俺は台所へ行き、湯を沸かした。


棚からカップを一つ出す。机の上には、読みかけの本があった。灰色の紐が上から出ていて、指で拾うと、先の曲がりが前より弱くなっていた。


本を開き、数ページ読んだ。


暖房の風が部屋へ回り、足の甲の冷たさが引き始めたころ、湯が沸いた。


お茶を淹れて戻ると、凪からメッセージが届いていた。


『降りた。あとちょっと』


地図を開いた。


丸は、駅のそばにあった。しばらくして線路から離れ、細い道のほうへ移った。


駅から家までの道を、俺は歩いたことがなかった。


画面を少し広げると、途中に橋があることが分かった。細い川の両側に、建物が並んでいた。凪がいつも通話で話していた帰り道に、初めて曲がり角ができた。


カップを口へ運ぶと、まだ熱かった。


少し冷ましてから飲んだ。


外を歩いている凪の手を思った。コートの深いポケットに入れているだろうか。あの中で指を組んだとき、凪は腕を近づけ、俺も歩幅を詰めた。


今は俺の掌だけが、カップを通して温まっていた。


俺は地図から離れ、メッセージを開いた。


『こっちはお茶淹れた』


返事を待たず、スマホを机へ置いた。


月のしおりを挟み直して、本を閉じる。友人から届いていた、今日はありがとう、という連絡に返事をした。次はあの店へ行こうと、食事の終わりに話していた店の名前も添えた。


やがて、凪から写真が届いた。


玄関の床と、脱いだばかりの靴。その脇に、黒い鞄の底が写っていた。


『ただいま。私も淹れる』


俺は写真の中の靴を見た。つま先に小さな水の跡があった。駅から歩いてきた靴だった。


『おかえり』


送ってから、ヘッドセットを取った。


通話に入ると、凪はまだ台所にいた。


「ただいま」


「おかえり。寒かった?」


「うん。橋のとこ、すごい風だった」


俺は机のスマホへ目を向けた。


「駅から帰る途中の?」


「そう。さっき通ったとこ」


「地図で見た。川、あるんだね」


「あるよ。小さいけど。あそこだけ、風よけるものがないの」


凪が息を吐いた。


さっきまで画面の中にあった短い線の上で、彼女は襟を寄せていたのかもしれない。丸が通り過ぎるのを見ていた俺は、風の強さまでは知らなかった。


「お湯、早く沸くといいね」


「うん。湊のお茶、ちょっと分けて」


「今、ちょうど飲めるよ」


「いいなあ」


俺はカップを持ち上げた。


取っ手の反対側へ添えた手を、そのまま凪の手へ重ねられたらと思った。けれど彼女が、あ、沸いた、と言ったので、俺は笑ってカップを下ろした。


湯を注ぐ音がした。


「今日の、どうだった?」


俺が聞くと、凪は映画の話を始めた。


友人と気になった場面が違い、店へ入ってからも話していたという。凪は途中で何度か言い直し、最後の場面はまだ言わない、と笑った。


「湊にも観てほしい」


「じゃあ、今度観る」


俺も友人の話をした。


昔、待ち合わせの店を間違えたことを、向こうはまだ覚えていた。同じ名前の別の店で、二人とも相手を待っていたのだった。


「今なら丸で分かるね」


凪が言った。


「別の店にいるのが?」


「うん。ちゃんと待ってるのに会えないの、面白い」


「そのときは、あんまり面白くなかったけど」


凪が笑ったので、俺も笑った。


話しているうちに、次に会う日の相談になった。


俺は予定を開いた。次の土曜日には用事があった。凪も別の日に友人との約束を入れていたので、二人で翌週の欄を見た。


「二人の予定、同じとこに入れられたら分かりやすいね」


凪が言った。


「共有するカレンダー、作ろうか」


「うん。会う日も、そこに入れたい」


画面を開いて話しながら、二人で予定を入れた。俺が週末の欄に文字を書くと、凪が、出た、と言った。少しして、彼女が入れた予定も俺のほうへ現れた。


「じゃあ、この土日」


「うん」


決めた日の欄を開いたまま、俺は机のカレンダーにも印をつけた。


ペンを戻すと、凪がお茶を飲んでいた。


「あったまった?」


「うん。やっと指、普通になった」


その声を聞いてから、俺も残っていたお茶を飲んだ。


地図へ戻ると、凪の丸は家のところにいた。


指を二本置いて、少しずつ縮めた。川が細くなり、駅の名前が消え、やがて俺のいる町も画面へ入った。


二つの丸の間には、いくつも町があった。


「湊?」


呼ばれて、指を止めた。


「うん」


「今、私たち、同じ画面に入った」


俺は笑った。


「俺も、今それやってた」


「けっこう縮めるね」


「三時間だからね」


凪が、そっか、と言った。


俺は画面を見たまま、椅子へ深く座った。二つの名前が、小さな丸の上に出ていた。片方のそばには、さっき友人と別れた町があり、もう片方のそばには、凪が風に吹かれた橋があった。


「でも、帰ってきたの分かるの、いいね」


凪が言った。


「うん。おかえり、嬉しかった」


向こうで、カップを置く音がした。


俺はスマホを机へ置いた。二つの丸が見えるまま、その横へ自分のカップも下ろした。


凪が今日の映画について、もう一つ思い出したことを話し始めた。


窓の外では風が吹いていた。


耳元の声には、もう寒そうな息が混じっていなかった。

第三十話をお読みいただき、ありがとうございます。


第四部「近づいた暮らし」が始まりました。


次話は「何パーセント」です。

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