4-1 小さな丸
通算第三十話です。
二月。離れた町で、それぞれの帰り道にいます。
店を出ると、首の後ろに冷たい空気が入った。
俺はコートの襟を直し、駅へ向かう友人に手を上げた。彼は歩きながら、また連絡する、と言った。店の中で聞いていた声が、外へ出ると少し細くなった。
二月に入っていた。
閉まりかけた扉の向こうには、まだ食器の音があった。俺は軒下へ寄り、スマホを出した。
『今、店出た。歩いて帰る』
凪へのメッセージを送る。
彼女も今日は出かけていた。友人と映画を観てから、ごはんを食べると言っていた。俺のほうは、久しぶりに会った友人と食事をしていた。仕事の話から昔の話になり、彼が覚えていた失敗を、俺はすっかり忘れていた。
思い出して笑っているうちに、九時を過ぎていた。
スマホが震えた。
『私も帰るところ。今ホーム』
続いて、もう一つ届いた。
『昨日の、今つないでみる?』
前の晩、凪が位置情報を共有できるアプリの話をした。
「お互い、今どのへんにいるか見えるんだって」
「地図で?」
「うん。帰ってくるところとか、分かったらちょっと嬉しいなと思って」
「いいね。俺のも見えるようにしようか」
そう話し、二人ともアプリを入れたところで、その夜は別の話になったのだった。
『うん。やってみよう』
凪から届いた招待を開いた。
画面に出る案内を確かめ、俺からも共有すると、地図の上に自分の名前が出た。もう一つの名前を押すと、知らない町の駅が大きくなった。
線路のそばに、小さな丸があった。
凪、と表示されている。
『見えた』
送ると、凪からも同じ言葉が返ってきた。
『湊、まだお店のとこだ』
『今、外でやってた』
『寒いでしょ。帰って』
俺は笑い、スマホをポケットへしまった。
歩き出すと、店から離れるにつれて道が暗くなった。閉まった店のシャッターに、街灯の光が縦に掛かっていた。さっきまで向かいに座っていた友人の笑い声が、まだ頭に残っている。
それをあとで凪に話そうと思った。
大きな交差点で信号を待つ間に、もう一度画面を開いた。
凪の丸は、駅から離れていた。
見ているうちに、少し先へ移った。線路を指でたどると、次の駅の名前が出てきた。読んだことのない名前だった。
今、この辺りを通っている。
俺は画面を近づけた。
電車の窓に映った凪の顔を思い浮かべた。コートの前を少し開け、鞄を膝へ置いているかもしれない。暖かい車内で、指先の冷えがほどけているといいと思った。
向かいの信号が青になった。
画面を消して、横断歩道を渡った。
部屋に着くと、靴を脱ぐ前に暖房を入れた。コートを掛け、手を洗う。水が温まるまでの間、指を曲げると関節のあたりがこわばった。
タオルで拭いていると、スマホが鳴った。
『おかえり』
まだ、着いたとは送っていなかった。
俺は洗面所の入口で立ち止まった。
『ただいま。分かった?』
『丸、おうちのとこに戻った』
続けて届いた。
『見てたら、私も早く帰りたくなった』
俺はタオルを掛け直した。折れた端を伸ばしながら、もう一度その文を読んだ。
凪の帰る家は、ここではなかった。
それでも、先に部屋へ着いた俺に、電車の中からおかえりと言っている。俺がコートを脱ぎ、手を洗っている間も、彼女は帰り道の途中にいた。
『あったかくして待ってる』
送ってから、何を待っているのかは書き足さなかった。
凪から、すぐに返事が来た。
『うん。着いたら話そ』
俺は台所へ行き、湯を沸かした。
棚からカップを一つ出す。机の上には、読みかけの本があった。灰色の紐が上から出ていて、指で拾うと、先の曲がりが前より弱くなっていた。
本を開き、数ページ読んだ。
暖房の風が部屋へ回り、足の甲の冷たさが引き始めたころ、湯が沸いた。
お茶を淹れて戻ると、凪からメッセージが届いていた。
『降りた。あとちょっと』
地図を開いた。
丸は、駅のそばにあった。しばらくして線路から離れ、細い道のほうへ移った。
駅から家までの道を、俺は歩いたことがなかった。
画面を少し広げると、途中に橋があることが分かった。細い川の両側に、建物が並んでいた。凪がいつも通話で話していた帰り道に、初めて曲がり角ができた。
カップを口へ運ぶと、まだ熱かった。
少し冷ましてから飲んだ。
外を歩いている凪の手を思った。コートの深いポケットに入れているだろうか。あの中で指を組んだとき、凪は腕を近づけ、俺も歩幅を詰めた。
今は俺の掌だけが、カップを通して温まっていた。
俺は地図から離れ、メッセージを開いた。
『こっちはお茶淹れた』
返事を待たず、スマホを机へ置いた。
月のしおりを挟み直して、本を閉じる。友人から届いていた、今日はありがとう、という連絡に返事をした。次はあの店へ行こうと、食事の終わりに話していた店の名前も添えた。
やがて、凪から写真が届いた。
玄関の床と、脱いだばかりの靴。その脇に、黒い鞄の底が写っていた。
『ただいま。私も淹れる』
俺は写真の中の靴を見た。つま先に小さな水の跡があった。駅から歩いてきた靴だった。
『おかえり』
送ってから、ヘッドセットを取った。
通話に入ると、凪はまだ台所にいた。
「ただいま」
「おかえり。寒かった?」
「うん。橋のとこ、すごい風だった」
俺は机のスマホへ目を向けた。
「駅から帰る途中の?」
「そう。さっき通ったとこ」
「地図で見た。川、あるんだね」
「あるよ。小さいけど。あそこだけ、風よけるものがないの」
凪が息を吐いた。
さっきまで画面の中にあった短い線の上で、彼女は襟を寄せていたのかもしれない。丸が通り過ぎるのを見ていた俺は、風の強さまでは知らなかった。
「お湯、早く沸くといいね」
「うん。湊のお茶、ちょっと分けて」
「今、ちょうど飲めるよ」
「いいなあ」
俺はカップを持ち上げた。
取っ手の反対側へ添えた手を、そのまま凪の手へ重ねられたらと思った。けれど彼女が、あ、沸いた、と言ったので、俺は笑ってカップを下ろした。
湯を注ぐ音がした。
「今日の、どうだった?」
俺が聞くと、凪は映画の話を始めた。
友人と気になった場面が違い、店へ入ってからも話していたという。凪は途中で何度か言い直し、最後の場面はまだ言わない、と笑った。
「湊にも観てほしい」
「じゃあ、今度観る」
俺も友人の話をした。
昔、待ち合わせの店を間違えたことを、向こうはまだ覚えていた。同じ名前の別の店で、二人とも相手を待っていたのだった。
「今なら丸で分かるね」
凪が言った。
「別の店にいるのが?」
「うん。ちゃんと待ってるのに会えないの、面白い」
「そのときは、あんまり面白くなかったけど」
凪が笑ったので、俺も笑った。
話しているうちに、次に会う日の相談になった。
俺は予定を開いた。次の土曜日には用事があった。凪も別の日に友人との約束を入れていたので、二人で翌週の欄を見た。
「二人の予定、同じとこに入れられたら分かりやすいね」
凪が言った。
「共有するカレンダー、作ろうか」
「うん。会う日も、そこに入れたい」
画面を開いて話しながら、二人で予定を入れた。俺が週末の欄に文字を書くと、凪が、出た、と言った。少しして、彼女が入れた予定も俺のほうへ現れた。
「じゃあ、この土日」
「うん」
決めた日の欄を開いたまま、俺は机のカレンダーにも印をつけた。
ペンを戻すと、凪がお茶を飲んでいた。
「あったまった?」
「うん。やっと指、普通になった」
その声を聞いてから、俺も残っていたお茶を飲んだ。
地図へ戻ると、凪の丸は家のところにいた。
指を二本置いて、少しずつ縮めた。川が細くなり、駅の名前が消え、やがて俺のいる町も画面へ入った。
二つの丸の間には、いくつも町があった。
「湊?」
呼ばれて、指を止めた。
「うん」
「今、私たち、同じ画面に入った」
俺は笑った。
「俺も、今それやってた」
「けっこう縮めるね」
「三時間だからね」
凪が、そっか、と言った。
俺は画面を見たまま、椅子へ深く座った。二つの名前が、小さな丸の上に出ていた。片方のそばには、さっき友人と別れた町があり、もう片方のそばには、凪が風に吹かれた橋があった。
「でも、帰ってきたの分かるの、いいね」
凪が言った。
「うん。おかえり、嬉しかった」
向こうで、カップを置く音がした。
俺はスマホを机へ置いた。二つの丸が見えるまま、その横へ自分のカップも下ろした。
凪が今日の映画について、もう一つ思い出したことを話し始めた。
窓の外では風が吹いていた。
耳元の声には、もう寒そうな息が混じっていなかった。
第三十話をお読みいただき、ありがとうございます。
第四部「近づいた暮らし」が始まりました。
次話は「何パーセント」です。




