3-18 いちばん近い他人
一月の第二土曜日。約束していた日が来ます。
凪のコートから、外の冷たさがした。
受け取ってハンガーへ掛けると、厚い生地が手の甲を擦った。車の中では暖房をつけていたが、駅から駐車場まで歩いたときの冷えが、襟の裏に残っていた。
「手、洗ってくるね」
「うん」
凪はマフラーをほどきながら、洗面所へ向かった。
短いほうのコートを掛け、その隣へ自分のものも掛けた。二着の裾が触れ合って揺れた。振り返ると、黒い鞄が、もう部屋の隅にあった。
一月の第二土曜日だった。
駅で待っていると、凪は約束した電車で来た。改札を出るなり「あけましておめでとう」と言ったので、俺も同じ挨拶をした。電話ではもう言ったのに、顔を見て言うと、また少し照れた。
今は、洗面所から水の音がしていた。
俺は机の上へ車の鍵を置いた。カレンダーの今日の欄には、年末に書いた凪の名前と、到着時刻があった。
蛇口の閉まる音がした。
顔を上げると、凪が袖口を直しながら戻ってきた。
「あったかい」
「部屋?」
「うん。電車降りてから、手、冷たかった」
彼女は両手を重ねて擦った。それから鞄の前にしゃがみ、内側のポケットを開いた。
「先に、これ」
差し出された袋の中に、銀色の月があった。
俺は隣へしゃがんだ。
写真より、少し小さかった。紺色の紙には細かな筋があり、凪が手首を返すと、三日月が白く光った。次の角度では、落ち着いた銀色へ戻った。
「ちゃんと持ってきた」
「ありがとう」
袋の端を受け取った。指が触れると、手を洗ったあとの凪の指先は温かかった。
俺は立ち上がり、机の前へ座った。凪はすぐ横で、鞄から出した本を抱えていた。
袋の口を開ける。薄い糊が離れる音がして、紐の先が出てきた。引っ掛けないように紙をつまみ、ゆっくり抜いた。
手に載せると、ほとんど重さがなかった。
「どう?」
顔を上げると、凪が見ていた。
年末、渡すときの顔をちゃんと見ると言っていた。そのことを思い出すより先に、笑ってしまった。
「嬉しい」
「うん」
凪も笑った。
俺はもう一度しおりを見てから、机の本を取った。読み始めたばかりの文庫本だった。挟んでいた紙を抜き、代わりに月を入れる。
閉じると、上から灰色の紐が出た。
「もう使うんだ」
「うん」
指で紐を整えた。まっすぐにはならず、袋の中でついていた癖が、先のほうに残っていた。
凪がその先へ触れた。
「そのうち伸びるかな」
「このままでもいいよ」
彼女の親指が、本の小口に添えられていた。
写真を見ていたときと、同じ指だった。今は紙を挟まず、その脇へ自分の指を置けた。触れると凪がこちらを見たので、俺はそのまま、手を取った。
掌の中央に、まだ湯の温かさが残っていた。
「来てくれてありがとう」
「うん。会いたかった」
凪の指が曲がり、俺の指の間へ収まった。
椅子に座っている俺と、立っている凪では、手を置く高さが少し違った。凪が肘を緩め、俺は手を持ち上げた。どちらにも引かれないところで、二人の手が落ち着いた。
顔を見上げると、凪の髪の先に、マフラーでついた癖があった。
そこへ触れたくなったが、今はこの手を離したくなかった。
昼には、卵とねぎを入れたうどんを作った。
凪が器を運び、俺が鍋を火から下ろした。向かい合って座り、二人で手を合わせた。
「いただきます」
凪はひと口食べると、肩を下げて息をついた。
「あったまる」
器に添えた指が、縁に沿って動いた。俺も箸を取った。駅へ迎えに行く前から空いていた腹に、熱いものがゆっくり入っていった。
食べ終わって、二人で手を合わせた。「ごちそうさまでした」と言い、空いた器を台所へ運んだ。
片づけが済むころ、部屋の奥へ日が差し始めた。
「あれ、今なら出る?」
凪が窓のほうを見ていた。
俺は水を入れたグラスを持ってきた。
窓際へ寄ると、白い壁に細い光が映った。凪が俺の肩越しに覗き込む。
「これ?」
「うん。この前は、もう少し上だった」
グラスを持ち上げると、光も壁を上がった。
凪へ渡した。水をこぼさないように、両手で受け取っている。
最初はゆっくり回した。光の形が変わると、今度は逆へ回す。手を止めても、壁の明るさだけが、しばらく細かく揺れていた。
凪は何も言わずに見ていた。
やがて、片手をグラスから離した。
壁に映る光へ指を差し入れた。指の影が途中で曲がり、水が動くたび、黒い輪郭の端に明るい線が走った。
「見て。指、ここでずれる」
俺は隣へ寄った。
凪が指を動かす。俺も手を伸ばした。壁の上に二人の影ができ、どちらかの指が動くたび、重なっていた形がほどけた。
「こっちからだと?」
凪はグラスを少し手前へ引いた。
俺たちは壁の同じ場所を見た。今度は、光が横へ長く伸びた。
外で雲が動いたのか、しばらくすると明るさが薄くなった。
凪はグラスを両手に戻した。
「面白かった」
「うん」
彼女の手の中で、まだ水が揺れていた。
俺はグラスを受け取り、台所へ置きに行った。戻ってくると、凪はもう自分の本を開いていた。
「そうだ。借りたの、読み終わったよ」
机に置いていた本を渡した。
「どうだった?」
「面白かった。妹のところ、好きだった」
「最後のほう?」
「うん。ずっと黙ってるのに、あそこで言うんだって」
凪は受け取った本を膝へ置いた。
「私は、隣の家の人が好き」
俺は表紙を見た。
その人は、誰かが話している途中で、よく台所へ立ってしまう人だった。俺には、あまり人の話を聞かない人に見えていた。
「あの、お茶淹れてる人?」
「そう」
「どのへんが?」
凪は本を開いた。見当をつけて何枚か戻し、そこからゆっくりめくった。
俺は机の椅子を寄せた。
探している間、凪の唇がかすかに動いた。目だけでは見つからないのか、途中から行の端に指を添えている。
「ここ。前に好きだって言ってたクッキー、出してくれるでしょ」
示されたところを読んだ。
たしかに、少し前の章に出てきた話だった。そのときも、この人は途中で立っていた。
「聞いてなさそうなのに、ちゃんと覚えてたんだなって」
凪が言った。
俺はもう少し先まで読んだ。
「ああ。だから、あの缶を持ってきたのか」
「私は、そう思った」
凪の指がページから離れた。
今朝読んだときにも、同じ文章はそこにあった。俺は妹の言葉を気にしていて、この人が棚から出した菓子の缶を、そのまま読み過ごしていた。
ページを一枚戻した。
凪は急がせず、膝の上で本をこちらへ傾けてくれた。
読み直してから顔を上げると、彼女はこちらを見ていた。
「もうちょっと、借りててもいい?」
「いいよ」
本を受け取り、机へ置いた。
「湊の好きだったとこも、あとで教えて」
「うん」
凪は自分が読んでいたほうの本を持ち直した。開いたページへ目を落とし、すぐには読まず、少し戻ってから続きを追い始めた。
俺も椅子へ戻った。
しばらく、それぞれの本を読んだ。
凪がどこを読んでいるのかは、向こう側からは見えなかった。頁をめくる間隔が短くなったり、同じところに長く留まったりした。何か気になるところがあったらしく、一度だけ、眉の間が狭くなった。
聞こうとして、やめた。
読み終わってから聞きたかった。
俺は自分の行へ戻った。さっきまで気に留めていなかった人が、また台所へ立っていった。今度は、そのあとに戻ってくるところまで、ゆっくり読んだ。
窓際の日が引いてから、凪は足を椅子の下へ寄せた。
俺は暖房の温度を一つ上げた。
「寒い?」
「少し。湊は?」
「俺は平気」
「じゃあ、膝掛け借りてもいい?」
畳んであったものを取って渡した。凪は本を伏せ、膝の上へ広げた。俺が温度を戻すと、頷いて、足の先まで布を下ろした。
夕方、二人で買い物へ出た。
帰って夕食を作り、食べる前と食べ終えたあとには、並べた食器の前で手を合わせた。洗い物を済ませると、凪は昼間読んでいた本を、もう一度開いた。
俺は先に風呂へ入った。
戻ってくると、テーブルの上で本が閉じられていた。凪は椅子の背へもたれ、窓のほうを向いていた。
「読み終わった?」
声を掛けると、こちらを見た。
「うん。今」
「どうだった?」
凪は本の表紙へ目を落とした。
「よかった。ちょっと、まだ言えないけど」
俺は頷き、髪を拭いていたタオルを首へ掛けた。
隣の椅子へ座る。凪は本の角を指で撫でていた。顔を見れば嬉しそうなのは分かったが、何を思い出しているのかまでは分からなかった。
テーブルの上にあった彼女の手へ、自分の手を近づけた。
小指が触れると、凪は本から手を離し、掌をこちらへ向けた。
指を重ねた。
昼に洗面所から戻ってきたときとは違う、乾いた温かさだった。掌の細い線が擦れ、握り直すと、凪も手首を楽なほうへ傾けた。
俺は椅子を少し寄せた。
二人の肩が触れた。凪はまだ表紙を見ていた。俺も同じ表紙を見た。中に何が書いてあるのかを、俺はまだ知らなかった。
髪の先から落ちた水が、首のタオルへ染みた。
凪の親指が、つないだ手の上をゆっくり動いた。
しばらくして、彼女が顔を上げた。
「あのね」
俺はそちらへ向き直った。
凪は言葉を一つ選び、それから話し始めた。
第二十九話をお読みいただき、ありがとうございます。
第三部「恋愛成立・最盛期」は、ここまでです。
次話から第四部「近づいた暮らし」に入ります。次話は「小さな丸」です。




