3-17 零時を過ぎても
十二月三十一日。それぞれの部屋で、年を越します。
机を拭いた跡が、灯りを斜めに受けると見えた。
本を持ち上げ、そこだけもう一度布で擦った。乾いた木の手触りが戻ったので、元へ置く。ヘッドセットの線をつなぎ直すと、椅子に座った。
『片づけ終わった。話せるよ』
送ってから、窓の外を見た。
向かいの建物では、いくつかの窓がまだ明るかった。いつも洗濯物の掛かっているベランダは空で、手すりの横棒まで見えた。
十二月三十一日の夜だった。
呼び出しの音がして、通話に入った。
「おつかれ」
凪が言った。
「凪は、終わった?」
「だいたい。今、本を戻してる」
向こうで、硬いものが軽くぶつかった。
「一回全部出したら、さっきまで入ってたところに入らなくなった」
「順番、変えた?」
「変えた。こっちのほうが取りやすいと思ったんだけど」
しばらく返事が途切れた。紙をまとめて擦るような音がしたあと、凪が息を吐いた。
「入った」
「よかった」
「一冊、横にした」
「取りやすさは?」
「来年、考える」
時計を見ると、十一時を少し過ぎていた。
「あと一時間もないけど」
「じゃあ、すぐ考えることになるね」
笑い声が近づいた。凪がスマホのそばへ戻ってきたのだと思った。
俺は背もたれへ肩を預けた。
昼間、窓を開けて掃除していたときの冷たさは、もう部屋から抜けていた。床へ下ろした踵にも、椅子の肘掛けにも、いつもの夜の温度があった。
「今日、買い物も行ってきたんだけどさ」
凪が話し始めた。
「すごい混んでた」
「スーパー?」
「うん。明日のもの、ちょっと買うだけのつもりだったのに。かご持ったまま、ずっと同じとこにいた」
「年末だな」
「そう。みんなのかご見て、これも要るかなって思い始めて」
「増えた?」
「増えた。でも三つ葉、忘れた」
声の終わりが、自分でもおかしいというように揺れた。
「お雑煮?」
「うん。なくてもできるんだけどね。帰って袋開けたら、入ってなかった」
俺は朝に買ってきた餅を思い出した。台所の棚へしまった袋は、まだ開けていなかった。
「俺も明日、作るつもり」
「お餅、焼く?」
「焼くよ」
「そっか。私、そのまま入れる」
「鍋に?」
「うん。昔から家ではそうだったから」
どれくらい柔らかくするのかを聞いた。凪は、箸で持ち上げると伸びるくらい、と答えた。俺は焼いた表面の、少し硬くなったところが好きだと言った。
話しながら、白い皿に餅を取り出す凪の手を思い浮かべた。持ち上げすぎて、鍋から長く伸びてしまう。彼女はたぶん、箸を下ろしてから考える。
「それ、汁、濁らない?」
「煮すぎるとね。お餅も、どこにいるか分かんなくなる」
「探すんだ」
「うん。いるはずなんだけどなって」
俺は笑った。
「じゃあ、見つけたら先に食べないと」
「でも熱いから、すぐ食べられないの」
「また戻す?」
「お椀には出すよ」
凪も笑っていた。
俺は肘掛けに置いていた手を、膝へ下ろした。笑うたび、肩に掛かっていたヘッドセットの線が揺れた。
年末のスーパーの話を聞き、互いの台所にあるものを話した。途中で凪が、本を積み直したせいで充電器が取りにくい、と言った。さっき横にした一冊の下に、線を挟んでしまったらしい。
「来年まで待てなかったね」
俺が言うと、凪は笑いながら何かを動かしていた。
その音を聞いている間に、画面の隅の時刻が十一時五十九分になっていた。
「凪、もうすぐ」
「あ、ほんとだ」
向こうの物音が止まった。
俺も座り直した。足を組むのをやめ、両方の靴下を床へ下ろした。何かを待つ姿勢になってから、自分がわざわざそうしたことに気づいた。
「何秒?」
凪が聞いた。
「秒、出てない」
「私のも」
二人で笑った。
秒まで見える時計を開くこともできたが、俺はそのまま数字を見ていた。窓の外で車のドアが閉まった。エンジンの音がして、しばらく動かずにいた。
凪が小さく息を吸った。
「あ、変わった」
俺の画面でも、数字が零に並び直した。
「あけまして——」
声が重なった。
続けようとして、また同じところで止まった。凪の笑う息が聞こえたので、俺も笑ってしまった。
「あけましておめでとう」
今度は最後まで言えた。
「おめでとう。今年もよろしくね」
「こちらこそ。よろしく」
言いながら頭を下げた。
目の前にあるのは机だった。拭き残しのなくなった木目が近づき、起き直すと、ヘッドセットの位置が少しずれた。
「今、お辞儀しちゃった」
俺が言うと、凪は声を立てて笑った。
「見えないよ」
「うん。下げてから気づいた」
「じゃあ、私も」
マイクに布が触れたような音がした。
「よろしくお願いします」
さっきよりきちんとした声だった。
俺は、また頭を下げそうになって、顎を引いたところで止まった。
「今、またやりかけた」
凪が笑った。耳元で始まったその笑いを聞きながら、俺も机の前で笑っていた。
彼女の部屋は見えなかった。それでも、起こした顔に髪が掛かり、指で耳へ戻すところを思い浮かべられた。声が落ち着いてからも、口元にはまだ笑いが残っているのだろう。
俺はヘッドセットの位置を直した。両手で耳のところを押さえると、凪の息が一度近くなった。
「年、変わったね」
「うん」
「湊と年越しできた」
返事をしようとして、喉のあたりが温かくなった。
「うん。嬉しい」
言ってから、手を下ろした。
窓の外では、さっきの車が動き始めていた。タイヤの音が遠ざかり、向かいの建物の窓が、また静かに見えた。
俺は机の奥へ手を伸ばした。
二つ立てていたカレンダーのうち、古いほうを取った。底の折り目を畳むと、薄くなった一年が手の中に収まった。新しいほうを、少し手前へ引いた。
一月の第二土曜日に、凪の名前があった。
「何の音?」
「カレンダー、替えた」
「この前の?」
「うん。もう、一個でいいから」
古いほうは、本棚の端へ置いた。
椅子へ戻って、書いてある到着時刻を見た。
「凪が来るの、今月になった」
「ほんとだ」
声が弾んだ。
「もう来月じゃないんだね」
「うん」
指でカレンダーの底を押さえた。書いた日にはまだ遠く見えた名前が、今は、今日から続いている数字の間にあった。
「楽しみ」
凪が言った。
俺は紙から手を離した。
「俺も」
しばらくして、凪のほうで、ものを机に置くような音がした。
「充電できた」
「ああ、途中だったね」
「うん。今度は本の下、通さなかった」
俺は笑って、背もたれへ身体を戻した。
画面の数字は、もう零時を何分か過ぎていた。さっきまで二人で見ていたものが、俺たちの話している間にも進んでいた。
「それでさ」
俺は聞いた。
「お餅、ちゃんと見つかるの?」
凪が黙った。
それから、こらえきれないように笑った。
「その話、まだ気になってた?」
「お椀に出すところまでしか聞いてない」
「出したら、見つかってるよ」
「ああ、そうか」
言われて、俺も笑った。
凪は、でもね、と続けた。柔らかくなった端が汁に残っていて、全部食べたつもりなのに、最後にもう少し見つかるのだと言った。
「ちょっと嬉しいんだよね。まだあったって」
その言い方が可笑しかった。
明日の朝、凪は自分の台所で鍋を火に掛ける。湯気の上がるお椀を前にして、箸の先で白い端をすくう。そのとき、俺に話したことを思い出すだろうか。
俺はきっと、餅を焼きながら思い出す。
「明日、焼くほうも一個やってみようかな」
凪が言った。
「俺も、一個そのまま入れてみる」
「煮すぎないでね」
「見えるうちに出すよ」
凪は笑いながら、返事をした。
そのあとも、話は続いた。
俺は机の灯りを少し下げた。明るさが変わると、窓に映っていた自分の姿が薄くなった。カレンダーの下には短い影ができていた。
耳元で、凪があくびを噛み殺した。
「眠い?」
「ちょっと。でも、まだ話してたい」
「うん」
俺は片足を引き、座りやすいところへ腰を落ち着けた。
凪が言いかけていた話を、途中から聞いた。さっきより語尾がゆっくりになっていた。言葉を探している間、俺は続きを先に言わずに待った。
机の上には、明日から使おうと思っていたカレンダーがあった。
もう今日だった。
「それでね」
凪の声がした。
俺は時計から目を離したまま、返事をした。
「うん。聞いてる」
第二十八話をお読みいただき、ありがとうございます。
次話は「いちばん近い他人」です。




